第1章:貧民街のボロ診療所と、サボテンの呪い(第1話)
「定時だ。お疲れ様でした」
夕暮れ時の17時を告げる教会の鐘が、王都の空にゴーン、ゴーンと響き渡る。
その最後の余韻が消えきるよりも早く、俺─メディック・セラムは、体に馴染んだ白衣(に似せて仕立てた安物の麻の上着)を脱ぎ捨てた。
「待って! 待ってセラム殿! まだカルテの整理が……というか、受付の紙が山積みなんだけど!?」
デスクの向こうから、悲鳴のような声を上げたのはドクター・ロバート。
彫りの深い端正な顔立ちに、仕立ての良い高級な医師着。表舞台に立てば、いかにも「すべてを見抜いた孤高の名医」風のオーラを醸し出す20代半ばの青年だが、今の彼は完全に余裕をなくして髪を掻きむしっている。
「ロバート先生。私の契約は9時から17時まで。残業代が出ない労働は、前世の私の魂が全力で拒否反応を起こす仕様になっております」
「前世って何!? 魂のルールって何!?」
「では、お先に失礼します。明日は一般尿検査の容器の補充から始めますので」
一瞥もくれず、俺は貧民街の一角にあるボロ診療所の通用口へと足を向けた。
──橘 徹、28歳。
それが、半年前までの俺の名前だった。
日本の総合病院で、夜勤とルーティンワークの激務に追われていた臨床検査技師(MT)。
医師が患者の身体所見など「マクロの視点」で診るのに対し、俺たち技師は顕微鏡や分析装置を駆使して「ミクロの世界」から確定的な証拠を引っ張り出す裏方だ。
あの夜も、一分一秒を争う緊急手術の輸血対応に追われていた。
血液型を確定させ、不規則抗体を調べ、適合血を大急ぎで交差試験する。
足りない輸血製剤を血液センターへ緊迫した空気のなか緊急発注し、確保する。
ワンオペ当直で一晩中一睡もできず、心身ともに限界を迎えていた午前3時。
当直医が「明日忙しいからこれ急ぎで回しといてー」と、緊急性のカケラもないルーティン検査のスピッツを押し付けてきた。
脳内で何かがブチ切れた。
怒りに震えて一歩を踏み出した瞬間、夜勤のバタバタで誰も拭けなかった遠心分離機前の床の水溜まりに足を滑らせ──重量のある大型分析装置の角に頭を強打した。
(もし次があるなら、絶対に目立たない裏方に徹してやる。責任のある『診断』なんか絶対に医師に押しつけてやる。そして、何が何でも毎日定時で帰って、ビールを飲むんだ……!)
それが、前世の記憶の最後。
気がついた時には、俺はこの異世界の貧民街のベッドに転がっていた。
しかも、分析装置の角に頭をぶつけるという恥ずかしい死に方をした俺への皮肉か、脳内には前世の中央検査室がフルスペックで完全システム化されて搭載されていたのだ。
対象を見る、触れる、あるいは一瞬の採血を行うだけで、脳内に精密なデータがポップアップする固有能力──【臨床検査】。
そんな俺を「助手」として拾ったのが、目の前で半泣きになっているロバートだった。
彼は元宮廷医術師。しかし、この世界のザンネンな医療常識に噛みついてクビになった男だ。
この異世界では、病気や怪我はすべて神官や魔術師の「治癒魔法」で治すのが常識。だが、ヒールはただの「細胞増殖・活性化魔法」だ。
原因を調べもせず、感染症やがんにヒールをかければ、体内の病原体やがん細胞まで大増殖して患者は急死する。
それをこの世界の人々は「悪魔の呪い」と呼んで諦めていた。
『根拠のない魔法医療は、ただの綺麗な絆創膏だ!』
宮廷の偉い奴らにそう言い放って追放されたロバートは、俺の持つ【ラボ・システム】のデータを「神託」と呼び、天才技師としてではなく「俺を裏から操る参謀」として大歓迎してくれた。
目立ちたくない俺と、エビデンスが欲しいロバート。利害は完全に一致していた。
「あ、そうだセラム殿! 最後にこれだけ教えて! 貧民街の裏のじいさんの『胸の痛み』、セラム殿がさっき発動した【生体イメージング〈心電ベクトル〉】のデータだと、どうだった!?」
「……ただの逆流性食道炎です。心筋梗塞の波形(ST上昇)は出ていません。夕飯のあとにすぐ横になるなと伝えてください。あと、おじいさんの大好きなキノコのエール(麦酒)は数日控えるように」
「なるほど、逆流性食道炎! 心筋の虚血はなし! よし、覚えた!」
ロバートはフッ……と髪をかき上げ、いかにも「すべてを見抜いた名医」の顔を作ってカルテをにぎりしめた。
「そうか……おじいさん。それは悪魔の心臓呪詛ではなく『ぎゃくりゅうせい・しょくどうえん』だ。胃の酸が逆流しているのだ。聖なる術式(胃酸を抑える薬草)を処方しよう!」
「……噛まないで言えるようになってからドヤ顔してください。では、お疲れ様でした」
今度こそ、俺は診療所のドアを開けた。
外には、貧民街の薄暗い、だけどどこか活気のある裏路地が広がっている。
排気ガスの匂いはなく、代わりに安酒場の煮込み料理の匂いと、家々の薪の煙が混ざった独特の空気が鼻をくすぐる。
「よし、真っ直ぐ『ふくろうの亭』に行って、冷えた麦酒を胃袋に──」
ステップを踏むような足取りで歩き出そうとした、その時だった。
カツン、カツン、カツン。
貧民街の泥で汚れた石畳にはおよそ似合わない、硬質で、異様に高級な革靴の音が路地の向こうから響いてきた。
それだけではない。明らかにカタギではない、重苦しい「殺気」のような気配が、夕闇の迫る路地を一瞬で支配していく。
「おい、そこのガキ」
低く、地を這うような声。
振り返ると、黒いフルプレートの鎧に身を包んだ大柄な護衛たちを引き連れ、一人の男が立っていた。
豪奢な毛皮の外套を着ているが、その顔は脂汗でベトベトに濡れ、苦痛のあまり今にも白目を剥きそうだ。
男は自らの股間のあたりを必死に押さえながら、鬼気迫る形相で俺を睨みつけていた。
「ここに……宮廷を追われた、呪いをも見破る『神の眼を持つ医師』がいると聞いた……。案内しろ。さもなくば、この街ごと叩き潰す……」
男の背後で、護衛の剣が不気味に抜かれかける。
俺は一瞬で理解した。こいつはめんどくさい。
関わったら絶対に定時退社どころか、徹夜の予感がする大物だ。
俺はそっと、自分の時計(魔石式の懐中時計)を見た。時刻は17時03分。
(……すいません神様。前言撤回します。命には代えられません。)
俺は一歩下がり、満面のビジネススマイルで診療所のドアを再び開け放った。
「ドクター・ロバート。緊急の『お客様』です。」
中から「ええっ!? セラム殿、帰ったんじゃ!?」という情けない声が聞こえたが、俺は聞こえないフリをして、黒服の男たちを中へと誘導するのだった。
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