雨と錆と、行方不明の猫
雨が降っていた。
秋の終わりの、骨に染みるような雨だ。カルロ・ヴァインは事務所の窓から路地を眺めながら、三杯目のコーヒーを飲んでいた。味はひどい。豆が古いのか、それとも彼の舌が死んでいるのか、もうどちらでもよかった。
事務所といっても、旧市街の五階建てビルの二階を間借りしているだけだ。隣室では昼間から誰かが喧嘩をしており、下の階からはカビと腐った木材の匂いが上がってくる。家賃は安い。それだけが取り柄だった。
扉が鳴った。
「開いてる」
入ってきたのは、年配の女だった。黒いコートを着て、傘を閉じながら室内に踏み込んでくる。濡れた靴が床板をきしませた。カルロは視線を窓から動かさなかった。
「何でも屋、というのはあなたですか」
「看板に書いてある」
「猫を探してほしいんです」
カルロはようやく女のほうを向いた。五十は過ぎているだろう。目の周りに深い皺があるが、背筋が伸びていた。貧乏ではなさそうだ。しかし金持ちでもない。その中間、つまり普通の人間だ。
「猫」
「三日前からいなくなって。トラ模様の雄で、名前はモルタル。もう十二年一緒にいるんです」
カルロは煙草に火をつけた。灰皿は山になっていた。
「旧市街の猫は、夜に外に出ると帰ってこないことがある。吸血鬼の縄張りに迷い込むか、あるいは……」
「わかってます」と女は言った。声が揺れた。「でも確かめたいんです。死んでいるなら死んでいると、はっきり知りたい。いつまでも待ち続けるのは、もう疲れました」
カルロは煙を吐いた。天井のシミに向かって。
猫一匹。馬鹿らしい仕事だ、と思う気持ちは、四十を過ぎたあたりからすっかり消えていた。馬鹿らしくない仕事など、この街にはほとんどない。
「前金で五百。見つかれば追加で五百。見つからなくても返金はしない」
「わかりました」
女は財布を出した。古びた革の財布だった。
✦ ✦ ✦
猫の行方を追うというのは、思いのほか地味な仕事だ。近所を聞き込んで、路地を歩いて、ゴミ箱を確認して、また歩く。カルロはコートの襟を立てながら旧市街の細い路地を進んだ。雨はまだ続いていた。
旧市街は、この街で最も古い区画だ。石畳は割れ、街灯は半分が壊れており、夜になると人間より吸血鬼のほうが多く歩く。人間たちはそれを知っているから、日没後は窓を閉める。鍵をかける。祈る者は祈る。
もっとも、吸血鬼が全員人間を食い殺すわけでもない。市街地では一応、〈共存協定〉とやらが機能していた。建前だけかもしれないが、建前も積み重なれば慣習になる。慣習が積み重なれば秩序になる。そういうものだ。
問題は、協定を守らない連中がいるということだった。人間にも、吸血鬼にも。
三丁目の路地に入ったとき、前方に人影が三つ固まっているのが見えた。
壁際に若い男が追い詰められている。追い詰めているのは、コートを着た三人組だ。ナイフが一本、雨に濡れて鈍く光っていた。物盗りか、それとも旧市街でよくある〈臓器屋〉の勧誘か。どちらにせよ、碌でもない連中だ。
カルロは立ち止まった。
関わるべきではない。猫を探しに来ただけだ。首を突っ込めば面倒になる。そういうことは、この十年で嫌というほど学んでいた。
三人組のうち一人が、若い男の頬を殴った。湿った音がした。倒れた男のそばにある黒いゴミ袋ががさりと揺れる。続いて袋の中で何かがガサガサと揺れると音がした。
カルロは溜め息をついた。煙草を靴底で踏み消し、路地に踏み込んだ。
「おい」
三人が振り返る。カルロはコートのポケットに手を入れたまま、ゆっくりと歩いた。足を止めない。近づきながら話しかけるのが基本だ。相手に考える間を与えない。
「そいつ、俺の連れだ。返してもらう」
「あぁ? 知らねえな」とリーダーらしい男が言った。「引っ込んでろ、おっさん」
男がナイフを構えた瞬間、カルロは右手をポケットから抜いた。伸ばした腕の先に、黒い警棒が握られている。手首のスナップだけで、男の手首を打った。乾いた音。ナイフが石畳に落ちた。
後ろの二人が動く前に、カルロは一歩踏み込んで、体重を乗せた肘をリーダーの鳩尾に入れた。くずれ落ちる。残り二人は顔を見合わせた。傭兵上がりの中年男を、外見だけで判断した代償だ。
「財布は置いていけ。慰謝料の代わりだ」
二人は走って逃げた。倒れたリーダーも、しばらくして這いながら去っていった。助けた若い男は礼も言わずに逃げた。それでいい。礼を期待して動いているわけでもない。
カルロは警棒をしまい、落ちていた財布を拾った。中身を確認する。思ったより入っていた。今夜は少しいい酒が飲めるかもしれない。
四丁目の角に差し掛かったとき、カルロは立ち止まった。
路地の奥、廃墟になったパン屋の軒下に、段ボールが積んである。その隙間で何かが動いた。
カルロはゆっくりと近づいた。しゃがんで、懐からチーズの欠片を取り出す。依頼を受けるとき、猫の好物を聞いておくのが彼の習慣だった。
「モルタル」
低く、静かに呼んだ。
段ボールの隙間から、警戒した目が光った。トラ模様。右耳の先が少し欠けている。女が言っていた特徴と一致する。
ただ、猫の隣に別の気配があった。
カルロは顔を上げずに言った。
「あんたも出てきていい。俺は猫を探しに来ただけだ」
沈黙。それからゆっくりと、段ボールの奥から人影が這い出てきた。
少女だった。十代の半ば、あるいはそれ以下に見える。だが目が古い。何百年も生きた者の目だ。吸血鬼だと、すぐにわかった。白い肌に、乾いた血の跡が首のあたりに残っている。怪我をしているらしい。
「……人間か」と少女は言った。声が掠れていた。「何故、逃げない」
「逃げる理由がない。あんたは俺を食おうとしていないだろう」
「どうしてわかる」
「食おうとする奴は、もっと静かにしている」
少女はカルロを見つめた。それから、傍らの猫に視線を落とした。
「この猫が、ここに来た。三日前から。私が怪我をしているのを見て、離れなかった。……馬鹿な猫だ」
「賢い猫だよ」とカルロは言った。「俺の依頼人はこいつの飼い主だ。連れて帰る。あんたはどうする」
少女は黙った。
「仲間に捨てられたか、人間に追われているか、どっちだ」
「……両方だ」
カルロは立ち上がり、煙草を一本取り出した。火をつけて、しばらく雨音を聞いた。首の傷を改めて見る。浅くはない。あのまま放っておけば、吸血鬼であっても化膿する。それにこの近辺には、さっき追い払った連中と似たような輩がまだうろついている。怪我を負った吸血鬼の子供が一人でいれば、いい獲物だと思う人間は少なくない。
「今夜は動けそうにないな」
「余計なお世話だ」
「そうだな」とカルロは言った。「ただ、さっき三丁目でナイフを持った三人組を追い払った。あの手の連中は、怪我をした獲物を見つけると戻ってくる。今夜ここにいるのは得策じゃない」
少女は黙った。反論しなかった。状況はわかっているのだろう。
「俺の事務所は旧市街の三丁目だ。二階の右。鍵は開いている。傷の手当くらいはできる」
「……なぜそこまでする」
「この猫が三日間、あんたの傍を離れなかった。俺は猫の判断を信用している。それだけだ」
少女はしばらくカルロを見つめた。品定めするような目だった。何百年か生きてきた目が、四十三年しか生きていない男を測っている。
カルロはもう猫を抱き上げていた。モルタルは大人しく腕の中に収まった。十二年生きた猫は、妙に落ち着いている。
「行くも行かないもあんたの自由だ。ただ、明け方には雨が強くなる。そこの段ボールじゃ濡れる」
それだけ言って、カルロは路地を引き返した。
✦ ✦ ✦
翌朝、事務所に戻ると、ソファに見知らぬ人間が眠っていた。いや、人間ではない。吸血鬼の少女が、毛布を被って丸くなっていた。その足元に、モルタルが座っていた。
カルロはコーヒーを淹れた。どうせ味はひどい。
依頼人の女には、猫を一時預かりしてほしいと電話で頼まれた。事情は話さなかった。話す必要もない。猫は生きている。それで十分だ。
窓の外で、雨が続いていた。
何でも屋の朝は、だいたいこんな感じだ。依頼は終わったが、別の問題が転がり込んできた。金にはならないかもしれない。ならないだろう。
それでもカルロは、二杯目のコーヒーを飲みながら、少女が目を覚ますのを待った。理由は、彼自身もよくわからなかった。
強いて言えば、あの猫が三日間傍を離れなかったことが、少し気になっていた。
猫の判断は、だいたい正しい。長年の経験がそう告げていた。




