表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/55

身体は誰のものか

一九八一年(昭和五十六年)十二月一日(火)


夕刊の小さな囲み記事。

文字は小さい。だが刺さる。


高リスク層に対する内分泌調整療法、検討段階へ

専門家「任意での選択肢」


“内分泌調整”。

直接的な言葉は避けられている。


だが医療関係者は理解する。

抗アンドロゲン。

男性ホルモン抑制。


言葉が柔らかくなるほど、輪郭だけが残る。


――


翌朝。


ラジオの投稿コーナー。

はがきの紙の音。パーソナリティの明るい声。

だが読まれる内容は重い。


「うちの息子は二十七歳です。命のためなら受けさせたい」


別の声。


「若い男性だけが対象なのは差別ではないか」


さらに。


「国家の都合で、男性機能を抑えるのか」


言葉が強くなる。

まだ街頭デモはない。

だが空気が揺れ始める。


――


厚生省。


涼子の机に、抗議文が積まれていく。

封筒。ファクス。省内便。


「身体の自己決定権を侵害する可能性」


法務担当が慎重に言う。


「強制ではありません」


涼子は頷く。だが相手は続けた。


「……ですが、“推奨”は圧力になります」


その通りだった。


特に――

電力。

鉄道。

警察。

若手議員秘書。


“国家機能維持の中核層”。


彼らにとって、任意は実質的に義務に近い。

断れる、と書かれていても。

断った後の現実が、書かれていない。


――


大学病院。


若い技術者が医師に尋ねる。


「受けたほうがいいですか」


医師は即答しない。

答えを急げば、それは“推奨”になる。


「……重症化リスクは高い」


「副作用は」


「一時的な性機能低下。倦怠感」


沈黙。


彼は小さく笑った。


「国のため、ですか」


医師は言葉を選ぶ。


「あなた自身のためです」


だが、どこかで重なる。

国家と個人。

守りたいものが、同じ方向を向いてしまう時がある。


――


総理府・小会議室。

机を寄せた顔ぶれ。


涼子が報告する。


「世論が動き始めました」


小坂が言う。


「現場では半々です。……“受ける”という声も多い」


佐々木が続ける。


「市場はまだ安定しています」


石本は静かに言った。


「強制はしない」


誰も異論を出さない。

ここは全員が理解していた。

強制は、一線を越える。


石本は続ける。


「説明を徹底する」


理論の正当性。

統計の偏り。

任意であること。


だが石本は、さらに言葉を重ねた。


「国家継続は、身体を奪う理論ではない」


その言葉は重い。

国家を守るために個人を犠牲にする。

それは最も簡単な道だ。

だが――選ばない。


涼子が言う。


「副作用の説明を明確にします」


有田が加える。


「期間限定の投与。経過観察を徹底します」


倫理と実務の綱渡り。

綱の下は、落ちたら戻れない。


――


夜。


テレビ討論。

画面の中で、言葉が刃になる。


コメンテーターが言う。


「男性だけが対象というのは問題だ」


別の医師が答える。


「統計上の偏りです。差別ではありません」


画面下にテロップ。


身体は誰のものか?


視聴者は考え始める。

国家は、どこまで介入できるのか。

“任意”は、本当に任意なのか。


――


議員会館。


石本は一人、窓の外を見る。

街は平穏だ。

市場は安定。

原発は止まりながら回る。


だが今、揺れているのは別の場所。


人の尊厳。

身体の境界。


国家継続理論は、制度と市場には効いた。

だが倫理は、計算できない。


石本は小さく呟く。


「継続とは、耐えることだ」


世論の揺れを。

疑念を。

怒りを。


国家はまだ立っている。

だが今、問いは数字ではなく――


身体に向けられている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ