利回りの影
一九八一年(昭和五十六年)九月二十九日(火)
■ ニューヨーク市場
夜の電光掲示板は、いつもと変わらぬ速度で数字を刻んでいる。
金融株、やや軟調。
医療関連株、出来高増。
製造業は方向感なし。
特別な動きではない。
だが、国債市場に、わずかな歪みが出ていた。
米国債、売り。
利回り、上昇。
通常なら金融不安があれば国債は買われる。
安全資産だからだ。
だが今回は違う。
ディーラーの一人が、モニターを見ながら言った。
「妙だな」
隣の同僚が肩をすくめる。
「何が」
「不安材料が出始めてるのに、国債が売られてる」
「医療絡みか?」
「さあな。ただ――政府支出が増えると読むなら、売る」
市場は恐怖では動かない。
計算で動く。
医療費増。
労働人口減。
税収減。
その可能性を、ほんの数%だけ織り込む。
それだけで、価格は動く。
■ ロンドン
ポンド、わずかに弱含み。
英国債も、微妙な売り。
新聞は書かない。
書くには材料が足りない。
だがディーリングルームでは、共通の単語が飛び交っていた。
「workforce」
労働力。
確定ではない。
だが医療報告の断片は、すでに市場関係者の耳に入っている。
「若年層に偏る?」
「噂レベルだ」
「噂で十分だ」
市場は、噂でも先に動く。
■ 東京(翌朝)
大蔵省。
為替担当が、外電をプリントアウトする。
紙は薄い。
だが、数字は重い。
「米国債利回り、さらに数ベーシスポイント上昇」
担当官が言う。
佐々木早紀は無言で受け取った。
「金融不安なら、普通は逆だ」
「はい」
「売られている理由は」
「公式にはありません」
公式にはない。
だが、数字は嘘をつかない。
為替担当が、慎重に言う。
「市場は、“将来の国債増発”を読んでいる可能性があります」
佐々木は窓の外を見る。
国内では、まだ何も発表されていない。
政府も、危機を宣言していない。
それでも、海外市場は動いている。
「早いな」
ぽつりと呟く。
「何がですか」
「織り込みが」
市場は発表を待たない。
事実が確定する前に、価格へ反映する。
もし、医療が長期化すれば。
もし、労働人口が減れば。
もし、税収が落ちれば。
その「もし」を、先に計算する。
国債が売られる。
それは不安ではない。
将来の負担増への備えだ。
■ 午後
日銀からも問い合わせが入る。
「海外動向について、何か掴んでいますか」
「医療関連の噂が、労働市場に波及する可能性を市場が見ているようです」
電話口の向こうが黙った。
沈黙は、理解の証だった。
■ 夜
佐々木は、机に置かれた国債利回りの推移を見つめる。
ほんのわずかな上昇。
グラフにすれば誤差の範囲だ。
だが、違和感はある。
「……これは、先に来る」
誰にも聞かれない独り言。
医療が広がる前に。
政治が動く前に。
市場は、財政を計算する。
名のない病は、まだ正式な分類もない。
だがその影は、すでに国債の利回りに映り始めていた。
静かに。
誰も騒がぬまま。




