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扉の向こうの急変

一九八一年(昭和五十六年)九月十六日(水)夕刻。

会議が、ようやく“続き”に戻りかけたところだった。


「当面は、成田と羽田の検疫を――」

医務局長の声が、途中で切れた。


誰かの咳でも、紙の擦れる音でもない。

扉の外から、走る足音。

規則正しくない。

秘書の小走りとも違う。

慣れた廊下の“作法”を外れた音だった。


次の瞬間、扉が叩かれる。

控えめという言葉に、程遠い強さで。


「失礼します」


入ってきたのは、官房秘書課の若い職員だった。

胸が上下している。呼吸が浅い。

顔色が白いのは、急いで走ったせいだけではない。


「……先ほど搬送された運輸大臣ですが」


その言い出しで、部屋の空気が変わった。

ここから先は、良い報告になり得ない。全員が同じ結論に着いた。


「意識レベルが低下しています。血圧が急に下がり、呼吸も不安定に」

椅子がきしむ音がした。

誰かが身じろぎしただけなのに、会議室の静けさが、それを大きく見せる。


「感染症病棟への移送も検討している、と……」


その単語で、遅れて衝撃が来た。

“感染症”。

今まさにこの部屋で、他人事として扱っていた言葉だ。


厚生大臣が、反射的に立ち上がった。

「待て。――感染症、だと?」


言葉の選び方が間に合っていない。

取り繕う余裕が、もうない。


若い職員は唇を一度噛み、視線を落としてから続けた。

「担当医が……“通常の急変ではない”と」


会議室の時計が、やけに大きく鳴った。

秒針が、落下するように響く。


涼子は、机上の資料に視線を落としていた。

そこにあるのは、まだ“揃っていない数字”だ。

揃っていないからこそ、都合よく解釈できる。

――けれど、急変だけは、解釈を許さない。


石本茂は立ち上がらなかった。

ただ、机に置いた両手の指をゆっくり組み直し、淡々と訊く。

「同行していた秘書官は」


若い職員が答える。

「軽い発熱があります。現在、別室で経過観察中です」


その一言で、部屋の温度がもう一段下がった。

同行者。発熱。

誰も口に出さない。

だが頭の中で、一本の線が引かれた。


線が引かれた瞬間、人は“もう戻れない”ことを知る。


厚生大臣が、低い声で言った。

「……助かるのか」


答えられる者はいなかった。

答えれば、その言葉は責任になる。


沈黙の中で、医務局長がようやく声を絞り出す。

「現時点では……対症療法しか」


“対症療法”。

それは医学の言葉なのに、役所の言葉のように聞こえた。

できることはやっている、という言い訳の響き。


そのとき、石本が静かに言った。

「――会議を続けましょう」


全員の視線が、石本に集まる。

叱責でも激励でもない。

ただ、止めないという意思が、言葉の中に硬く入っていた。


「今、止めても何も良くなりません。

ここで決めないと、次に倒れる人間が増える」


脅しではない。

事実を、事実として置いただけだ。


厚生大臣は、ゆっくりと椅子に座り直した。

ほんの数分前までの“想定”が、砂のように崩れている。


「……時田君」

涼子が顔を上げる。

「この病気は……政治家も、例外じゃないんだね」


涼子は、短く答えた。

「はい」


逃げない声だった。

ただ、その先の説明は、あえて言わなかった。

言えば、断言になる。

断言は、まだ早い。


会議室の外では、誰かが電話口で声を潜めていた。

救急病院。官邸。秘書官。

情報は、すでに止まらない。止められない。


厚生大臣が深く息を吐く。

「……これは、“もしも”じゃないな」


誰も否定しなかった。


この瞬間、霞が関は理解した。

病気は、もう“遠い国の話”ではない。

廊下の向こうではなく、廊下のこちら側へ――来ている。


会議は、紙の音を立てて再開された。

誰もが知っていた。

今日決めるものは、正式な名前を持たないまま、先に走り出す。

そして、走り出したものは、簡単には止まらない。





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