第10話:錆びた歯車の帰還
新橋駅の裏手にある、小さな雑居ビルの一室。
官公労・通産省支部の分室として使われているその部屋は、古い書類の紙魚の匂いと、長年染み付いたピースの煙草の匂いが混ざり合っていた。
黒電話のダイヤルが、勢いよく指で弾かれる。
ジー、コッ。ジー、コッ。
昭和一桁生まれ特有の、腹の底から響くような太い声が、狭い部屋に響いた。
「おう、鈴木か。生きてるか」
「ゲートボールやってる暇があったら、明日から霞が関に戻ってこい。……ああ、小遣い稼ぎじゃねえよ。現役の若い連中が風邪で全滅しかかってる。俺たちジジイの出番だ」
受話器を乱暴に置き、高橋は手元の「退職者名簿」に赤鉛筆で太く線を引いた。
高橋は、通商産業省(現在の経済産業省)で定年まで勤め上げたノンキャリのOBだ。
組合の顔役でもあり、現役時代は上層部のキャリア官僚たちとも平気で渡り合ってきた男である。
「よし、これで二十人だ。まあ、使い物になるかは分からんがな」
高橋は吸い殻を灰皿に押し付けながら、向かいの長机で名簿の整理をしている女性たちに声をかけた。
彼女たちは現役の通産省職員――ノンキャリの中堅やベテランの女性たちだ。
みな目の下に隈を作り、看病と激務の板挟みで顔色が悪い。
「高橋さん、本当にありがとうございます。これで少し、首の皮が繋がります……」
五十代の女性主任が、冷えたお茶を差し出しながら深々と頭を下げた。
高橋はお茶をすすり、テーブルに広げた通産省の組織図を指の関節で叩いた。
「集めた二十人のジジイどもは、一番人が足りてねえ現場に充填配置する。いいな」
赤鉛筆が、組織図の三つの局を囲む。
「まずは産業政策局と、生活産業局だ。物資の調整と、工場の操業管理が止まりかけてるんだろ? ここに書類の捌き方が分かってねえ今の連中を放り込む」
そして、高橋の赤鉛筆は、もう一つの重要な局を強く囲んだ。
「それから、ここだ。資源エネルギー庁」
「電気と燃料の連中がバタバタ倒れて、現場のシフトが組めなくなってると聞いた。俺たちの同期で、電力会社への天下りから完全に引退した技術屋のジジイも引っ張り出した。こいつらはエネ庁と電力の現場に回す」
女性主任が、安堵の息を漏らした。
「助かります。エネ庁の若い担当官たちが休んでしまって、発電所の定期点検の調整が滞っていたんです。このままだと、冬の電力がどうなるか……」
「電気は止めるわけにいかねえからな」
「まあ、俺たちが現役の頃は、計算尺とそろばんで日本の高度成長を回したもんだ。それに比べりゃ、今の若い連中がいじってる機械なんざ……と言いたいところだが、贅沢は言ってられねえな」
高橋は自嘲するように笑い、新しくピースに火をつけた。
「いいか、俺たちは表には出ねえ。責任を取るのは上のキャリアの連中だ。俺たちはあくまで『臨時の手伝い』として、裏で書類の束と現場の穴を埋める」
高橋はそう言いながら、目の前にいる、疲労困憊した女性たちを見渡した。
「それにしても、だ」
高橋がふっと目を細める。
「どこの省庁も、男たちが倒れて、残された女と、定年したジジイに泣きついてくるとはな」
「まあいい。あの疲れたお嬢ちゃんたちの助けになるよう、せいぜい頑張ろうじゃないか」
「高橋さん、お嬢ちゃんって歳じゃないですよ、私たち」
女性の一人が、少しだけ口角を上げて苦笑した。
実際、部屋にいるのは四十代、五十代の中年女性がほとんどだ。
「俺から見りゃ、いくつになってもお嬢ちゃんだよ」
高橋は煙を細く吐き出した。
男たちが倒れ、制度が麻痺していく中で。
かつて「景色の一部」として扱われていた女性たちと、「過去の遺物」として忘れられていた老人たちが、この狭い部屋で確かに手を結んだ。
彼らが資源エネルギー庁や電力の現場に送り込まれることが。
やがて訪れる「究極のインフラ危機」において最大の防衛線となることを、高橋はまだ知る由もなかった。




