蜘蛛の巣①
カイルが名残惜しそうにリリアーヌの髪をなぞり、執務室へと向かった後。
暖炉の爆ぜる音だけが響く静寂の中に、控えめなノックの音が混ざった。
「リリアーヌ様、失礼いたします。本日よりお側仕えをいたします、ミアと申します」
部屋に招き入れられたのは、新しく配属された侍女、ミアだった。
ミアは床を見つめ、深々と頭を下げる。
リリアーヌは椅子に深く腰掛けたまま、すぐには返事をしなかった。ただ、無言で、手元の古い調薬書をめくる乾いた音だけを室内に響かせる。
「……リ、リリアーヌ様?」
返事がない不安に駆られたミアが、おずおずと顔を上げた。その瞬間、リリアーヌは本から視線を外し、ゆっくりとミアを正面から見据えた。
その瞳には、慈母のような穏やかさと冷徹さが同居している。
「いい名前ね、ミア。……ねえ、貴女、自分の名前は好き?」
「え……? はい、両親が付けてくれた大切な名前ですので」
「そう。」
リリアーヌは立ち上がり、ミアに歩み寄った。ミアが捧げ持つ銀のトレイの上には、湯気を立てる茶碗がある。リリアーヌは、その湯気をうっとりと目を細めて見つめた。
(……ああ、この香り。懐かしいわ。)
リリアーヌは心の中で噛みしめながら、冷たく微笑んだ。
「……良い香りね。なんだか、昔とても仲の良かったお友達のことを思い出してしまったわ」
リリアーヌは指先でミアの頬に触れた。ミアの肌は、微かに湿っている。
「……お友達、ですか?」
「ええ。彼女もね、貴女のように控えめで、私の言うことを何でも聞いてくれる優しい子だったわ。」
その言葉を聞いたミアの瞳の奥に、一瞬だけ確信めいた「軽蔑」と、隠しきれない「安堵」が浮かぶ。
「そのお友達も、リリアーヌ様にお会いしたいでしょうね」
ミアの口から滑り出したのは、以前も聞いたことのある、耳障りの良い空虚な言葉だった。リリアーヌはその「嘘の音」を微笑んで飲みこんだ。
「ミアは優しいのね。とても安心するわ。」
リリアーヌはミアの手を両手で優しく包み込み、子供のような無邪気さで見つめた。
しかしその言葉とは裏腹にリリアーヌの冷たい手がミアの体温を奪っていく。
「あ、ありがとうございますリリアーヌ様」
ミアが深々と頭を下げる。その無防備な頭頂部を見下ろすリリアーヌの瞳から、一切の温度が消えた。
彼女は自分の首に掛かる赤いネックレスを、指先でそっとなぞった。
リリアーヌは、ミアが淹れた茶をゆっくりと、一口ずつ、その苦味を楽しむように口に運ぶ。
舌の上で転がる懐かしい味。
リリアーヌは、空になった茶碗をミアに返した。
「ミア、もう一杯淹れてきてくれる? 今度はもう少しだけ、蜜を増やして。……私、甘い香りに包まれていると、とても落ち着くの」
「はい。すぐに、リリアーヌ様」
いそいそとお茶を淹れ直すために部屋を出るミアの背中に、リリアーヌは声に出さない呪いをかけた。
「……ねえ、カイル様。見ていて。この小鳥が、自分がいつ食べられるかも分からず、獲物である私に餌を運んでくる姿を。」
リリアーヌの首元で、紅い石がドクン、と熱く脈打った。
それは、リリアーヌの狂気を愛でるカイルからの、嗜虐的な賛辞だった。
静寂に包まれた部屋で、リリアーヌは再び本を広げた。




