太陽との邂逅 3
「――全く、災難だったな」
池から少し離れた崖面にある小さな洞窟。
そこで火を起こしたおかげでようやく身体が暖まった頃、彼は気遣わしげに呟いた。ずぶ濡れの服を岩肌に投げて身軽になった彼の首からは、広場で見た鍵がぶら下がり、彼が動くたびにゆらゆら揺れていた。古い割に装飾が多く、蓮の花のような意匠が目を引いた。
「まさか崖から落ちるなんてなぁ。まあ傷は浅かったし、不幸中の幸いってやつだな」
「……僕は、君まで落ちてくるとは思っていなかった」
ぱきり、と薪が爆ぜる音がする。
落ち着いて考えてみると、彼がギンダを助ける必要はなかったのだ。
異端の研究と疎まれる見た目、その二つが揃っているギンダを助けても、何も利益がない。学部長や、伝手のある人を助けるならまだしも、ギンダはむしろ助けない方が得なのだ。
それを、どうして。
「目の前でヒトが死にかけているんだ。手を伸ばすに決まってるだろ?」
まあ、ちょっと手が届かなかったからヘマをしたけど。
少し気まずそうに笑った彼の頬は、焚き火のせいか、うっすらと赤く染まっていた。
「それよりさ、さっきの広場のこと! アレってよくあることなのか?」
言葉を失ったギンダを他所に、慌てて彼は話題を変えた。『アレ』とは、宗教戦争のことだろう。この街に住んでいれば誰でも頻繁に目にするものだが、最近街に来たのか、彼は知らないのだ。
「うん。ベトルグロッサは神のおわす土地だから、皆信仰を競いあっているんだ。同じ宗派ならまだいいけど、違う宗派だった時には暴力沙汰になることもある」
「ふぅん。じゃあ、さっきのはまだ軽い方だったんだな」
「そう、軽い方だよ」
宗教の話で『軽い方』とは、なんだか面白い。極々普通の話をしているような気すらしてくる。この世界では強弱なく、神の話は重要だというのに。
不思議だ。こうして人と普通の話ができるなんて、思ってもみなかった。
「なあ……アンタはさ、あの塔の上に神がいると思うか?」
「どうだろう。神かは分からないけど、何かはあると思っている」
だから、彼から振られた話に自然と答えてしまった。
禁忌を口にしてしまい、ハッと彼を見る。しかし、彼はゆったりと寛いでいるばかりで、ギンダへ向ける目は何も変わっていなかった。いや、微笑むばかりの瞳に少し真剣な色が混じったかもしれない。彼はやや居住まいを正し、また口を開いた。
「塔にまつわる話は知っているよな?」
「もちろん。僕はこの街で育ったし、これでも一応司書なんだ。知らないはずがない」
「そうだよな。……俺はさ、あの塔が理由で、この街に来たんだ」
「……塔が?」
「ああ。俺は幼い頃から世界中を旅していた。両親はこの鍵を残して死んじまったから、親戚やら知り合いやら、色々な伝手を借りて、色々な場所に行ったよ」
それでもどこに行っても耳にするのは塔の話だったと、彼は懐かしそうに目を細めた。無意識なのか、首から下げた鍵で遊んでいる。
「神や精霊――そういう存在がこの世界にいて、俺の知らないどこかですれ違っているかもって思うと、何があっても生きられたんだ。だから、ここに来てみたかった。塔を実際に見て……登ってみたかった」
「塔に、登る?」
にやりと唇を歪め、彼はギンダの問いに答えた。
塔に、登る。
そうだ、塔は登るものだ。
だが、ベトルグロッサの塔は誰も登れなかった。
塔は禁足地だったが、禁足地でなくとも、あの塔には入り口も窓もどこにもないせいで、入ることすらできなかったのだ。神の業を保管するために作られたはずなのだから、扉の一つくらいあってもいいのに、どこを辿っても見えるのは石の壁だけ。先人たちが制止を押し切り何度も塔の内部に入ろうとして、結局は諦めたという話もある。
その塔に、登る。
「本気?」
「本気じゃなかったら、口にしない」
「……どうして、僕にそれを伝えたの」
悠然と微笑む彼にギンダは目をくらませ、慌てて目を逸らした。
「だって、アンタなら聞いてくれると思ったから」
それでも、彼の声はギンダを逃さず貫いた。生涯感じたことのない気配に、暖まったはずの手が震える。ギンダの瞳が揺れ、唇が何度か開いては閉じ、最後には小さなため息が零れ落ちた。
「……それでも、勇気が必要だ」
「まあね。でも、この前本を届けた時に、アンタなら大丈夫かなって。なんとなく、そう思ったんだ」
「なんとなく?」
「そう。俺はこういう考え方をするから、まあ、それなりに嫌な目にもあった。あったけど、ここまで来れた。きっとアンタもそうなんだろうって、あの書庫で会った時に思ったんだ」
「……でも、僕は君の望みを叶えることができない。僕だけじゃない。この街の誰も、塔への登り方を知らないんだ」
ふるふると頭を振ると、白い髪が目についた。こんなにも暖かさをくれたのに、ギンダは何も持っていない。それがどうしようもなくやるせない。
だが、彼はギンダの気持ちを知ってか知らずか、悪戯っぽい表情を浮かべ、焚き火に薪を継ぎ足していた。
「俺が知ってる」
「は?」
「さっきアンタも見つけたはずだ」
「見つけたって……あの池?」
「そう、あの池。本当に不幸中の幸いだった。ずっと探していたんだ。まさかあんなところにあるとは思わなかった」
「あれが塔に入る扉なんて……そんなはずはない、だって、これまで誰も」
「それでも、俺たちが見つけた。俺は知っていた――なあ、一緒に塔に登らないか。俺は塔に登って、神に会ってみたい。本当にいるなら、話をしてみたいんだ。アンタは、『何かがいる』って言った。その『何か』が気にならないか。塔の中に何があるか、見てみたくはないか」
熱く語る彼の瞳は、焚き火の光を受けて輝きを増していた。太陽のような熱を秘め、すり潰されながらも夢を抱いてきた彼が、たまらなく眩しい。
「僕は――」
僕は、どうだろうか。
異端の研究、疎まれる見た目。侮蔑にも嘲笑にも抗えず、日々息を殺しながら生きている。
神や世界創造なんて、信じていない。それでも、あの塔には何かがある。何かがあればいいと願っている。自分が蔑まれる理由、自分がこれまで燻らせてきた心の置き場があればいい。そうすれば、今までの自分は意味のないものではなかったと安心できるから――
だから、ギンダは決意した。
「僕も、知りたい」
塔に何があるのかを見るために。
神という存在が一体何なのかを知るために。
ギンダは震える手を押し隠し、もう一方の手を彼に差し出した。
「僕はギンダ。一緒に塔に登らせてくれないか」
「そうこなくちゃ。俺はカリンだ。よろしくな、相棒」
太陽の瞳の少年――カリンは、ギンダの手を両手で握りしめると、てらいのない笑顔を浮かべていた。
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