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第八章「幸せのカタチ」


――あの夜から約一週間。


あれ以来、俺のもとには全く仕事が入り込まなくなった。いや、入り込まなくなったというより、『仕事をあれ以来、放棄している』と言ったほうが、ここでは正しいのかもしれない。

俺はあの夜以来、彼女をより一層意識するようになってしまっていて、俺は彼女の泣く姿をもう二度と見たくないと、そう思っていた。

だから俺は、『任務執行命令』を告げるメールが携帯電話に届いても、メールを見るどころか、そのままメールを読まずに削除してしまったし、小山さんから電話がかかってきても、俺は絶対にその電話に出なかった。

もちろん、任務を放棄(又は無視)しているということは、一切彼女とは顔を見合わせていないということで、俺はあれからまるまる一週間、彼女の顔どころか、彼女の後ろ姿さえ見ていなかったし、それどころか俺は、彼女の顔すらもう半分ぼんやりとしか思い出せないほどになっていた。とにかく俺は、彼女の悲しむ姿だけは、もう二度と見たくないと、そう強く思っていたのだ。


――そして、そんなある日の午後。


その日は朝から本当に太陽の日差しがポカポカと暖かく、心地良く、また開け放った窓から入り込む爽やかな風は、どこか春のような匂いがして、

『あぁなんだか、冬の終わりって感じだな……』なんて、そんな事をふとぼんやりと考えながら眺める窓の向こうの青空は、とても蒼く澄んでいて、俺は狭いリビングのど真ん中に、大の字になって寝転び、ふわぁ〜と大きなアクビをついて、そっと目を閉じた。


――今日は、お昼寝日和だな。


俺は半分、夢の中でそう思った。

今日はぐっすりと昼寝でもして、疲れ切った心と体をしっかりと休めよう。仕事のことや彼女のことは、また明日でも考えればいい。別に今日、考えなくたっていいんだ。とにかく今は眠ろう。ぐっすりと眠ろう。


風にふわりとたなびくカーテン。カーテンの隙間から差す、暖かい太陽の光。

机の上に置かれた時計の短針が、カチッカチッと静かに時を刻んでゆく。


俺はそれを半分、夢の中で聞きながら、ただそっと寝返りをうち、そしてやがて、深い深い眠りの中へと、俺は静かに落ちていった。


    *             *             *


 しかし、それから一時間もしないうちに俺は「ガシャンッ!」という物凄い音に叩き起されてしまうことになる。


「うわっ!!」と大声をあげ、俺はバッと勢いよく飛び起き、そして、『もう、なんなんだよ……』と、思わずため息をつき、そっと額の冷や汗を拭う。

俺はハァーッとまた深いため息をつき、再びバタンと狭いリビングに大の字になって倒れこんだ。あぁびっくりした。にしても、今の物凄い音は何だ?

俺は恐る恐る、ベランダの方へと目をやった。



恐る恐るベランダの方へと目をやった俺は、思いもよらぬ光景に思わずあっと息を呑み、そして言葉を無くしてしまった。

見るも無残に倒れてしまったプランターに、割れて粉々に砕け散ったガラスの花瓶。散らかったプランターの土に、砕けたガラス。完全に折れてしまった花の茎。ぐちゃぐちゃになってしまった野菜の数々。

そして、そんな野菜や花や花瓶の残骸の前にチョコンと座る一匹の黒い猫。恐らく、いや、今の凄い音も、プランターの土をひっくり返したのも、ガラスの花瓶を割ったのも、野菜をぐちゃぐちゃにしたのも、全部コイツの仕業だ。いや、コイツに決まってる。


『この野良猫がっ!』と、その猫に向かって思い切り罵声を浴びせてやろうかと思ったその瞬間、そいつは急に俺に向かってこう言ったのだ。


「まぁ待てって。そう怒らんといてやぁ。頼むから落ち着けって。な? ホンマ頼むわ。てか俺、ワザとやったんちゃうんやで? そこんとこちゃんとわかっとる? てかな、俺やって正直言ってめっちゃビックリしとんねん。ホンマよぉ考えてみ? 何も考えんで、隣のベランダからヒョイって飛び越えてきたら、プランターやら花瓶やら何やらでごちゃごちゃしとって、着地地点がどこ見てもあらへんねんで? わかる? この恐怖。言っとくけどホンマ驚くで? いやマジで! なぁ頼むからさぁ〜、そんな顔せんといてぇや」


――なっ!?


俺はその瞬間、その猫が発した言葉を聞いて、思わず言葉を無くしてしまった。いや、正直、俺は何と言えば良いのか、わからなくなってしまったのだ。


俺もとうとう頭がおかしくなってしまったんだろうかと、俺はその時、そう思わざるを得なかった。だが、俺はとにかく冷静になろうと考え、スーッと深呼吸をついて、そっと静かにその黒猫を見つめた。


「お前……今、喋ったか?」

俺は恐る恐る、そして慎重に、ゆっくりと、その黒猫の方へと近付いてゆく。


「あ? 何? え? もしかして兄ちゃん、俺の言葉わかんの?」

黒猫の黄色く細い目が、ギラリと不気味に光る。


「……あぁ、わかる。何でかは知らないけど」

そう、その通り。俺は今、お前の言っていること全てを、ちゃんとはっきりと理解することができる。それが何故なのかは、俺にもその理由(わけ)がよくわからないけど、確かに理解はできる。理解できることに、間違いはないのだ。


「あぁなるほど、そういうことか」

すると突然、黒猫がまた急に口を開いた。


「なるほどって、どういうことだよ?」

俺は驚いて黒猫を見つめる。

「兄ちゃん、アンタ、この世の人間(モノ)ちゃうやろ?」

「なっ!?」

「騙そうたって無駄やで。ええか? 動物には分かんねんで。目の前に居る人間が、この世の人間(モノ)か、あの世の人間(モノ)かぐらいはな」

黒猫はそう言って俺の顔を見つめると、

「まぁそんなことはどうでもええさかい、はよドア開けてくれへん?」と言った。


「なんで?」と、俺が冷めた顔で聞くと、

「『なんで?』ってアホかお前! こっちは寒い思いしとんねん! はよ入れんか!」と、黒猫は毛を逆立てて怒りだした。


俺は『仕方ないぁ』と呟くと、その場からスッと立ち上がってドアの鍵を開け、それからガラガラとドアを開けてやった。


     *             *             *


「で? お前さんの目的は一体何なんだ?」

俺はハァーッと深いため息をついて、窓の向こうに見える古い京都の街並みをぼうと眺めると、チャピチャピとやたらと大きな音をたてながら牛乳を飲む黒猫にそう質問を投げかけた。すると黒猫は『別に』と、さりげなく答えを返し、またチャピチャピと音をたてながら牛乳を飲みだした。


まったく、俺に対する感謝の気持ちなんてまるでゼロだ。いや、それどころか、感謝の『か』さえ全く感じられない。


――なんて生意気な野郎なんだ。


俺はまたハァーッと深いため息をつくと、リビングのソファーにドスンと腰を沈めた。


とにかく俺は今、こんなふざけた猫と付き合っている場合ではないのだ。今後、これからどうやって彼女や小山さんと接していけば良いのか、ましてや今後、仕事をどのようにしてやっていけば良いのか、俺には真剣になって考えなければならないことが山のようにたくさんあったのだ。だが……

「おい!」

どうやらそこの黒猫さんは、俺にそうはさせてくれないようだった。



「次は何? お代わりとか? それなら悪いんだけどさ、今ちょうど牛乳切らしててね。お前さんが飲んだ牛乳、それが最後なんだよ」

「あぁ? ちゃうちゃう、牛乳なんてもういらへんで俺は」

「じゃあ、一体……」

「真剣な話や。ちゃんと俺の顔見てくれるか?」

「し、真剣な話? 真剣な話って?」

「単刀直入に聞くわ」

「ちょ、ちょっと、だから真剣な話って何? なぁおい」

「兄ちゃん、アンタ……感情操者やろ? しかも、 “涙の仕事をしている ” ちゃうか?」

「は? えっ? いっ、今なんて?」

「だから、兄ちゃんは感情操者なんやろ? って」

「なっ、なんで……なんでお前さんがそれを知ってんだよ?」

「なんでって、まぁなんとなくや。雰囲気、雰囲気。まぁ実を言うと俺も昔、感情操者やっとったからな。雰囲気でだいたいわかってまうんや。だから……」

「ちょ、ちょっと待て! い、今なんて言った? 俺も昔、感情操者やっとった? えっ、いや、ちょっと待てよ! そ、そんなのウソだろ?」

「何で今、真剣な話をしとんのに、わざわざ兄ちゃんにウソ言わなアカンねん。ウソちゃうで。全部ホンマの話や」

「と、ということはつまり……お前さんも、もともとは人間だったってこと? 猫じゃなくて、もとは人間だったってこと?」

「あぁそうや、その通りや。俺も昔は普通の人間やった。せやけど、ある日突然、俺は帰宅途中に事故におうてもうてな。ぽっくり死んでもうたんや。それで、亡者再就職センターちゅうところで面接を受けて、感情操者になって、兄ちゃんみたいに感情操作の仕事を任せられたんや。せやけど……」

「せ、せやけど?」

「感情操者の規約、破ってもうてな」

「は? えっ? あ、あの、感情操者の規約を?」

「あぁそうや、あの感情操者の規約をや」

「でも……なんでまた?」

「まぁ、いろいろとあってな」

黒猫はそう言うと、アハハハと完全に呆れ返って、笑い声をあげた。



「えっ? で、でもちょっと待って! その……実際のところ、感情操者の心得を破ると、一体どうなっちゃうわけ? お前さんみたいに動物にされちゃうの?」

 

すると黒猫はじっと俺の顔を真剣な眼差しで見つめ、そして静かに、こう言った。

「盗んだ蜜を味わったからには、金で無実を買うわけにはいかない」


「……は?」

「せやから、罪を犯してしまった以上、もうコッチには何も選択肢があれへんってことや。ただ自分の犯した罪を、何らかの形で、一生償っていくだけや」

「つまり……どうなるか、全く分からないってこと?」

「まぁ、簡単に言うたらそういうことやな。俺はたまたま黒猫になったけど、俺の知ってる限りやったら、そうやな……例えば、蛇になったヤツとか、トカゲになったヤツとか、ネズミになったヤツとか、とにかくいっぱい居ったわ。まぁでも確かに、兄ちゃんの言う通りかもしれへん。感情操者の規約を破った大概のヤツは何らかの動物にされとるんや。しかも決まって、あまり人間に好まれてへん動物にな。まっ、きっと向こうには向こうで、何か考えでもあるんやろ。まぁ俺も、そこんとこはあまり詳しくは知らへんねんけどな」

そういうと黒猫はクスッと、訳もなくおかしそうに笑った。


「あの、でもさ……何でお前さんは、感情操者の規約を破っちゃったの? 何か理由(ワケ)があったとか? その、そこまでお前さんを追い立てた、究極の理由(ワケ)が」

俺はそう言うと、スッと真剣な眼差しで黒猫を見つめた。

すると、黒猫はスッと窓の方へと顔を向け、まるで遥か宇宙の彼方を見つめるかのように、青い空を、ただじっと見つめた。

俺も思わず黒猫につられて、窓の方へと顔を向けた。そして、黒猫と同じように、俺も青い空をただじっと見つめた。それからしばらく、長い沈黙が続いた。


「たぶん、今の兄ちゃんと一緒や」

しばらくして、黒猫がようやくそっと口を開いた。


俺は『えっ?』と声を上げ、静かに黒猫の方へと視線を変える。

「俺と一緒って、一体どういうこと?」

「またとぼけちゃって。兄ちゃんさ、今、恋しとるやろ? しかも、決して恋に落ちたらアカン人に、兄ちゃんは恋をしてしまっている。 ちゃうか?」

「えっ? あぁまぁ……そういうことになんのかな? ん〜、どうなんだろ?」

「まぁとにかく! 俺は昔そうやったんや。決して好きになったらアカン人を、俺は好きになってもうてな、あの頃は本当にいろいろと苦労したもんや……」

「ふ〜ん」

「ずいぶん昔、そうやな……今からだいたい十数年も前の話や。その当時は、俺も兄ちゃんと同じように、感情操者の仕事をバリバリにこなしとって、感情操作事務局の方からも、えらい頼りにされとったんやけど、ある日突然、急に仕事の転勤が決まってな。俺は大阪の方へと飛ばされたんや。そんで事務局の人間はこう言ったんや。『今日からあなたには、涙の仕事をしてもらいます』ってな」

「だけど、お前さんはその涙の契約者に恋をしてしまった……」

「せやけど、彼女は好きになったらアカン人。俺は来る日も来る日も悩んだんや」

「そしてお前さんはそんなある日、悩みに悩み抜いて、ついにある重大な決心をした。 “彼女に真実を語るべきか、否か ” だけどお前さんは契約者、つまり彼女に喋ってしまった。本当の自分のことを、感情操者のことを、全ての真実を」

「……あぁ」

「で? 一体その後はどうなっちゃったワケ? 相手の返事は? 仕事は?」

すると黒猫は首を静かに横に振り、『結局、どっちもダメやった』と、ため息まじりにそうボソッと答え、そしてスッと俺の方へと顔を向けた。「何もかも、失ってしもうた」

黒猫の目は真剣だった。


「せやけどな、俺はホンマにこれで良かったんやって、そう心の奥底から思うとるんや。自分の気持ちを相手に伝えずに、ずっとずっと暗い人生を送るやなんて、そんなの俺は絶対にイヤやったんや。例え自分がどうなろうとも、例え自分がヒドイ目に合おうとも、俺はどうしても伝えたかったんや。自分のホンマの気持ちを、真実を、俺は彼女に伝えたかったんや」


黒猫は真剣な眼差しをして、俺をじっと見つめると、

「えぇか兄ちゃん。これだけは言うとくで。えぇか? あんな、一体どうすれば良いのか、瞬時に冷静な判断ができひんくなった時は、とにかくまず自分に素直になるんや。俺は、自分は、今、一体何を望んでるんやろって、ゆっくりでもええから考えるんや。周りなんて、絶対気にしたらアカン」と言った。


俺は「あぁ」と静かに返事を返すと、配下に見える、古い京都の街並みをまたぼうと眺めた。紅い夕日が山の向こうに途切れ、街は淡いオレンジ色と夕闇の紫色に包まれる。

そして時折、街のどこかで犬がワォーンと独り寂しそうに遠吠えをしているのが、ふと耳に入った。


『なんか寂しいよ』と、俺は独り、ぼそっと切なげに呟いた。そして隣で黒猫が『アホか』と笑い声を上げる。俺は『アホじゃない!』と言うと、また静かに街を眺めた。



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