第六章「君と二人」
――次の日の朝。
目覚まし時計が鳴る前に、俺はふと目を覚ました。
リビングのカーテンを開け、窓をガラガラと開ける。部屋の中に流れ込む風は、ひんやりと冷たく、凛としていて、俺はスーッと深い深呼吸をつき、そっと背伸びをした。
朝日が眩しい。俺は思わず目を細める。今日はいい天気みたいだ。
バターを薄く塗ったトーストを齧り、ホットコーヒーを片手に天気予報を見る。
「予報です。今朝は、ほぼ全国的に晴れています。この後も北海道から中国・四国にかけて快晴となり、各地で絶好のお出掛け日和になるでしょう」
お台場をバックに、目覚ましテレビの愛ちゃんがいつもの笑顔を見せる。俺はコーヒーを啜りながら、ぼんやりとそんな愛ちゃんの姿を眺める。毎朝毎朝、いつも本当に寒いのに、どうもお疲れ様です。俺は愛ちゃんに向かって手をパチンと合わせると、『ごちそうさまです』と言った。
コートを羽織り、玄関のドアをカチャンと閉めると、俺は集合場所であるマンション前へと向かった。時刻は八時ちょうど。まだ集合時間までは三十分程の余裕があったが、俺は階段を物凄い勢いで降りていった。心臓がバクバクと高鳴り、俺は思わず首に巻いたマフラーを外した。今日は仕事は休み。そう思うと、訳もなく笑みがこぼれた。
マンション前に彼女の姿は無かった。当然だろう。ポケットから携帯電話を取り出す。午前八時五分。集合時間まであと二十五分。俺はフーッと一息ついて、近くのベンチに腰を下ろすと、スッと空を見上げた。
どこまでも広く、青い空。眩しい太陽の光に目を細め、俺はそっと空を仰ぐ。何だか久ぶりに朝の空を見たような気がする。俺の頭上では何羽もの小鳥達がせわしなく飛び交っていて、辺りはチュンチュンという小鳥達の歌声で満ちている。また、大気は冷たく、凛としていて、空気はやはり冬の朝の匂いがした。
そうこうしていると、どこからともなく『新入り君〜』という、無邪気な彼女の声が聞こえ、俺はそっと地上に視線を戻した。視線の先に、満面の笑みを浮かべた藤井美咲が映った。いつもの白いコートに、いつものマフラー。淡い茶色の長いスカートに茶色のブーツ。相変わらず天使みたいな格好をした彼女は、何故かいつも以上に幸せそうに見えた。
「新入り君、おはよ!」
「おはよ、美咲さん」
「ごめん。待たせちゃった?」彼女はそう言って、チラリと自分の腕時計に目をやる。
「えっ? あぁううん。俺も今来たばっかりだから」
「ホントに?」
「うん」
「そっか、それは良かった」彼女はそう言って笑うと、そっと胸を撫で下ろした。
「それにしても、朝からご機嫌ですね」俺はクスクスと笑って彼女を見つめると言った。
「だって久ぶりなんだもん。こういうの」
「こういうのって?」
「デートよ、デート! ほら、それじゃ新入り君行くよ!」
彼女はそう言って意地悪そうにヘヘヘと笑うと、『さぁ急いだ急いだ!』と歩き出した。
「ちょっ、ちょっと、行くってどこへ?」俺は急いで彼女のあとを追う。
「どこって、阪急河原町駅しかないじゃない」彼女はキョトンとして俺を見つめる。
「あっ、そっか」
「なに、新入り君、JRで行くつもりだったの?」
「えっ? あぁ、ううん。違う違う。ちょっとぼんやりしてただけ」俺はそう言うと、そっと顔を赤めた。まったく、何やってんだろ俺……。俺は思わずオホンと咳をつく。
「もう〜、しっかりしてよね! 新入り君」そんな俺を見て、彼女はクスクスと心底おかしそうに笑う。「困った時に頼りになるのは、新入り君しか居ないんだから」
彼女はそう言うと、ニコッと幸せそうに微笑んだ。本当に心から幸せそうな、その笑顔。『えぇ』と返事を返すと、俺もニコニコと笑った。この上なく、俺は幸せだった。
* * *
阪急河原町駅で阪急梅田駅までの切符を購入し、俺と彼女はホームに停車中の特急電車に乗り込んだ。扉が車端部に置かれた二扉転換クロスシート式の車両、2ドア車。俺と彼女は車両中程まで進み、やがて彼女が窓際の席に、そして俺はその隣の席にそっと腰を下ろした。「わくわくするね」と彼女は言った。「そうですね」と俺は笑った。
やがて発車ベルが鳴って、電車はゆっくりと動き始めた。スルスルとホームを滑り出し、電車は闇の中を走り始める。現れては消え、現れては消える窓の向こうの蛍光灯の光。電車が加速をするにつれ、その光はやがてチカチカと明滅を繰り返す光へと変わる。
烏丸、大宮、西院を過ぎ、ただひたすら闇の中を走り続けた電車は、やがて地上へとその顔を覗かせる。裸になった桜並木の間をくぐり抜け、電車は西京極を過ぎ、桂川に架かる大きな鉄橋を、ガタンゴトンという心地の良い音をたてながら走り抜けてゆく。
俺と彼女は、電車の中でただじっとしているのもあれだということで、部屋から持ってきたトランプを使ってババ抜きやポーカーや大富豪などをして、しばらく有意義な時間を過ごした。しかし、電車が高槻市を過ぎた頃には俺も彼女もすっかりトランプに飽きてしまって、途中からは二人揃ってただぼんやりと窓の外の風景をぼんやりと眺めたりした。
だから終点の阪急梅田駅に電車が到着した時、俺も彼女も半分夢見心地状態だった。改札口を通り、人ごみの中を二人、縫うようにして歩き、やがて大阪駅から大阪環状線内回りに乗車し、弁天町まで向かう。弁天町からは大阪市営中央線のコスモスクエア行きに乗って、海遊館の最寄り駅である大阪港まで向かう。阪急、環状線、中央線、これだけ使っても片道七百八十円で済むのだから、世の中、本当に便利になったものだと、彼女とそんなたわいのないようなことを話しているうちに大阪港に着き、そしていつの間にか俺と彼女は海遊館の前までたどり着いていた。
「なんだか短い旅だったね」と彼女は笑った。
「そうですね」俺も思わずクスッと笑った。「ちょっと喋り過ぎちゃいましたね」
「だね」彼女もクスクスとおかしそうに笑う。
「うん」
「じゃあそろそろ行く? 海遊館」
「そうですね、行きましょうか」俺はそっと彼女に手を差し伸べると、ニコッと笑った。「今日は俺のいいところ、たくさん美咲さんに見せちゃいますから」
「ホントに〜?」彼女はそっと俺の手とると、満足げにニッコリと微笑んで、「じゃあ、ホントに期待してもいい?」と言った。
俺は「もちろん」と微笑んで彼女の手を握ると、「今日は美咲さんにとって、人生で一番幸せな日になりますよ」と言った。彼女は「またまた〜」と、おかしそうに笑った。
* * *
チケットを購入し、二人仲良く手を繋いで、海遊館の館内へと入っていく。
水槽のトンネル「アクアゲート」をくぐり、長い長いエスカレーターを上る。そして俺達二人がまず最初に辿り着いたのが「日本の森」。「日本の森」はその名の通り、日本の風景が見事に再現された展示コーナーで、大きな水槽の中をメダカやフナやアナゴといった日本を代表する魚達が華麗に、優雅に泳ぎまわっている。そして、そんな水槽の中の魚達を見て、彼女はいきなり「美味しそう!」と声を張り上げた。水族館に来てよくそういう考えが浮かぶもんだと、その瞬間、俺は心の中でそう思ったが、まぁ確かに言われてみれば、水槽の中を元気に泳ぎまわる魚達は確かに「マズそう」には見えない。やはり彼女の言うように「美味しそう」に見える。しかし、ここは水族館であって魚市場ではない。俺たちは、水槽の中を優雅に泳ぎまわる世界の様々な魚達を見に来たのであって、決して今晩のおかずを探しに来た訳ではないのだ。そこのところを彼女はちゃんとわかっているのだろうかと、俺はふと心配になったが、「でもこの子たちは運が良いね。だって、人間に食べられなくて済むんだもん」と言い、心からニコニコと微笑み、何故か満足そうに笑う彼女の姿を見て、その心配はいつしかどこか遠くへと消えて、なくなってしまった。
「でも、ここに居る魚達って幸せなのかな?」
アリューシャン列島、モンタレー湾、パナマ湾、エクアドル熱帯雨林を通り過ぎ、南極大陸まで辿り着いた時、突然彼女は言った。「このペンギンさんだって、そう。みんな幸せなのかな?」
「どうして、どうしてそう思うの?」
「だって、毎日毎日、こうやって狭い水槽の中に閉じ込められて、開館したら、ずっとこうして私たちの相手をしなきゃいけないでしょ。それで、ご飯の時間になったらご飯を食べる。ずっとそんな毎日の繰り返し。きっとペンギンも魚も休みたいと思う。さっき私、『この子たちは運が良い』って言ったけど、やっぱりその逆なのかな? だって毎日、誰かにこうやって見られて過ごすって、なんかイヤじゃない。私なら絶対にこんなのいやだな。やっぱり自由気ままに生きたいじゃない。だって、たった一度きりの人生なんだよ?」
彼女は深刻そうな、切なげな表情を浮かべて、ペンギン達を見つめる。
「なんか可哀そうだよ」
「うん」
「……」
「でもさ、きっとこのペンギンも魚達も、決して不幸ではないと思うよ。確かに、毎日毎日、こんな狭い水槽の中で過ごすのは辛いだろうけど、なによりこうやって俺たちみたいに、わざわざ遠くから魚達を見に来る人だってたくさん居る。そして、そのたくさんの人達はそんな魚達を見て『あぁ綺麗だね』『凄いね』って、皆そう思うんだ。魚達は俺たちに夢や希望を与えてくれる、言わば天使みたいな存在なんじゃないかな? 水族館は魚の見せ物場なんかじゃない。誰もが心から落ち着ける。幸せになれる。そんな空間。それが水族館だと思う。だから魚達は、そんな幸せな空間を人間と共に共有できる。人間と共に幸せな時間を過ごすんだ。きっとこれは、魚達にしかできないことだと思う。そう考えたら、魚達も決して不幸ではないと思うよ。一番不幸なのは、きっと俺達、人間だよ。社会規範という名の柵に閉じ込められた、哀れな動物。それがきっと人間だと、俺は思うよ」
* * *
せっかく海遊館まで来てるんだから暗い話はやめようということで、それから俺たちは気持ちを切り替え、海遊館でゆったりとした時間を過ごした。大きな大きな水槽の中を優雅に泳ぎ回る巨大なジンベエザメやイトマキエイを二人で眺めたり、『知ってる? この水槽のガラスの厚さって三十センチもあるんだよ』なんて、そんなちょっぴりとした雑学を彼女に教えてみたり、体験コーナーで彼女と一緒にワーワー言いながらヒトデを掴んでみたり、大きなカニを見て、二人で大はしゃぎをしたり、幻想的に色鮮やかに光るクラゲを二人、ぼんやりと眺めてみたり、海遊館のおみやげコーナーで一緒に買い物を楽しんだり、とにかく楽しく幸せな、まるで夢のような一時を俺たちは過ごした。
「海遊館、すごく楽しかったね」彼女は大阪港をぼうと眺めると言った。
「ホント、すごく楽しかったです」俺もまた、彼女と同じように大阪港をぼんやりと眺めると、静かに相槌を打った。
「またいつか、二人で海遊館に来ようね」そっと微笑み、彼女は言う。
「そうですね」そっと微笑み、俺は静かに彼女を見つめる。
「でもね、今日は本当に新入り君の言う通り、人生で一番幸せな一時だったかもなぁって思うんだ。本当に私、心から幸せだったの。新入り君とこうやって一緒に海遊館に来れて本当に楽しかったし、本当に幸せだったの」
「うん」
俺は心から楽しそうに、幸せそうに喋る彼女の瞳を見つめると、そっと優しく微笑んだ。
「でも俺も、今日は本当に幸せでした。美咲さんとずっとこうして一緒に居られて、本当に幸せでした。これが幸せなんだって。これが本当の幸せなんだって、何だか分かったような気がするんですよね」俺はニコニコと微笑み、そっと彼女を見つる。
「何ていうかその……、とにかくずっとずっとこれからも、美咲さんと一緒に居たいなって、心からそう思ったんです」
俺はそう言い、じっと真剣に彼女の澄んだ瞳を見つめると、そっと静かに、優しく彼女を抱き寄せた。彼女をぎゅっと強く抱き締めると、彼女のつける香水の甘い香りがそっと俺を包み込んだ。落ち葉がはらはらと舞う森の、悲しい秋のような香り。説明はともかく、彼女のつける香水の甘い香りは、俺の心を少し、切なくさせた。
「人を好きになるって、素敵なことだよね」と、彼女は言った。「でも切ないよね。別れがなければ、人は出会うことが出来ない。けれどもそれは、仕方のないことだから」
辺りは夕日のオレンジ色の光に包まれている。波の音に混じって、どこからかカモメの悲しい鳴き声が聞こえ、夕日の光は海に落ち、大阪港はキラキラと煌き、輝いている。
「うん」
「でも、ふと永遠を信じたくなるよね。永遠なんて本当は存在しない。けれども、大切な人や好きな人や愛する人と、これからもずっと一緒に居たいと思うのは当然のことだと思う。だから本当は存在もしない永遠を、ふと信じたくなっちゃうのかもね」
俺も彼女も、ただただ肩を寄せ合い続けた。日はすっかり海の向こう側へと沈み、空は燃え尽き、薄暗い灰色の空へとその色を変えていた。俺は切なかった。彼女の傍にずっと居れないこと。彼女への想い。彼女を幸せにしてあげられないということ。俺は彼女の悲しみであり、涙であるということ。そんなことを考えると、また目から涙が溢れ出しそうになった。俺は必死に涙をこらえながら、彼女のことをただただ強く抱き締め続けた。
彼女は何も言わなかった。ただ時折、「だんだん寒くなってきたね」とか「今日もウチで一緒に晩ご飯食べようね」とか「今日の晩ご飯、何がいい?」とか、そんなことを言って、俺の心を慰めてくれた。俺はただ彼女のことが心から愛しかった。できればずっとこのままで居たかった。俺も、永遠を信じたかった。このままずっと、二人でどこかへ消え去ってしまいたかった。ただこれからもずっと彼女のことを守り続けていきたいと、心から強く、そう思った。
* * *
結局、俺たちが自分達のマンションに辿り着いたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。余程疲れたのか、彼女は帰りの電車の中でグッスリと眠り込んでしまい、俺はスヤスヤと眠る彼女を背にかついで、彼女の部屋である208号室の前まで辿り着いた。
彼女のポケットから部屋の鍵を取り出して、ドアを開け、部屋の明かりをつけ、電気ストーブのスイッチを入れる。彼女をそっとソファーに寝かしつけ、それから毛布を数枚、彼女にかけてあげた。むにゃむにゃと寝言を言いながら幸せそうに寝返りをうつ彼女。俺はそんな彼女をぼうと見つめ、「今日はお疲れ様でした」と、そっと彼女の頭を撫でてあげた。淡い茶色の長く綺麗なサラサラとした髪。俺はそんな彼女の髪をそっと静かに撫でながら、「また明日から仕事か」と、小さくそう、ぼそっと呟いた。
それからも俺は、ソファーでスヤスヤと心地良さそうに眠る彼女の髪をただただ撫で続けた。まるで母親が子をそっと寝かしつけるように、俺は彼女の髪を撫で続けた。彼女は本当に幸せそうだった。たまに、「ねぇ新入り君、ココアとコーヒーって何が違うの? 一緒じゃないの?」とか「新入り君、オレンジって野菜?」とか、訳の分からない寝言を言って、俺を笑わせた。恐らく、こんなにもユニークで面白い寝言を言うのは、きっと日本で彼女だけだろう。俺はクスクスと笑いながら、そんな彼女の寝顔を見つめた。
火にかけておいたヤカンの水が沸き、俺はインスタントコーヒーを淹れた。静かな、暖かな部屋にコーヒーの香ばしい香りがスーッと広がる。俺はカップにコーヒーを注ぎ、それを彼女のもとへと持っていった。もちろんのこと、彼女は眠り続けている。スヤスヤと眠る彼女の傍に歩み寄って、俺はそっと腰を下ろし、自分のカップに入ったコーヒーをズズズと啜った。少し砂糖を入れたコーヒーは、微かに甘く、そしてほろ苦い。俺は缶コーヒーのような甘さが苦手で、自分的にはこれぐらいの砂糖の量が一番好みだった。
フーフーと冷ましながら、俺は静かにコーヒーを啜る。それから、スッと窓の外に目をやり、走り去っていく電車の車窓の明かりをただぼんやりと眺める。
ここから見える眺めは相変わらず悲しく切ない。彼女はいつも、ここからこの景色を眺め、一体何を考え、何を想ったのだろう。俺はただぼうと窓の外の風景を眺めた。
これから一体どうなるのか、これから一体どうすれば良いのか、俺は分からなかった。何を思えば良いのか、どうすれば一番良いのか、よく分からなかった。
ただ気付かぬうちに、俺はまた涙を流していた。最近、本当に涙もろくなってしまったなと苦笑しながら、俺はそっと服の袖で涙を拭う。
けれどもやはり、涙は止まらなかった。