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5 ゆめみる少女とみならいマスター

「やあ、これは可愛らしいお弟子さんだ。私はリチャード・オライリー。きみの師匠とは長い付き合いでね。今日は旧交を温めにきたというわけだよ。おっと、そんなところに立っていないで、さあ、かけてくれたまえ」


 糸杉を思わせる痩身をベストとネクタイで固めた老紳士は、一人前のレディに対してそうするような恭しい態度で少女をカウンターへ誘い、溢れ出るような快活さを宿した瞳で少女の顔をまじまじと覗きこむ。


「オライリーさん……は、マスターのお師匠さまなんですか?」

「私のことはリチャードと呼んでくれたまえ、レディ?」


 ぱっちりとウィンクする様子は少年のようであり、少女に名乗るよう自然と促す話術はその老練さの一端を感じさせるものだった。


「あたしの名前はアイリンです……リチャードさん?」


 それでいい、と言うようににっこりと笑う老紳士。いかにも英国紳士な立ち居振る舞いの裏から隠しようもなく滲み出す人懐っこさ。少女が一瞬で心を掴まれる様子を眺めていたマスターが、ため息交じりに口を挟む。


「俺の弟子を口説かないで下さいよ、師匠」


 俺の弟子、という表現にどきりとする。いつもの自信たっぷりな態度は影を潜め、どこかやりにくそうな口調のマスターが酷く新鮮なものに見えた。


「やあ、これは失礼。お詫びと言ってはなんだが、私と一緒でよければアフタヌーンティーはいかがかね? 接客はともかく、味は保証しようではないか」


 老紳士の言葉に、今度こそマスターが盛大なため息をつく。


「それはどうも、ありがたいお言葉で……」

「いいんですか、マスター?」

「いいもなにも、このカフェ・デ・グラティアの先代店主のお言葉だぞ。店をタダみたいな値段で譲り受けた身としては、従うほかあるまい?」


 マスターの許しも出た。少女はくるりと老紳士に向き直り、笑顔で答える。


「では、ええ、ぜひご一緒させてもらいます!」

「結構。では、きみ、支度をしてくれたまえ」

「仰せのままに」


 仰々しく礼をしてみせるマスターの手によって、少女と老紳士の前に皿が置かれる。乗っているのは三角形のサンドイッチが二つ。食べ応えのありそうな分厚いそれは、よく見れば手前側のパンが薄く切られている。裏側を覗きこんでみると、どうやら表と裏で焼き加減も変えられているようだった。


「ほう、中々によい目をしている……これは、このように食べるのだよ」


 気取らぬ様子でサンドイッチを掴み、口へ運ぶ老紳士。それを真似して、少女も目の前のサンドイッチへ手を伸ばす。考えてみれば、客としてマスターの料理を味わうのはこれが初めてのことになる。時間も昼過ぎで、ほどよい空腹感にバターの融ける匂いが食欲をかき立てる。


「……!」


 一口食べて、少女は理解する。手前側のパンは薄く焼き上げられているため、挟まれた具をしっかり押さえると共に、カリカリとした食感がたまらない。一方、裏側のパンは焼き過ぎたトーストが口腔を傷つけないよう、ごくごく軽くトーストするに留めてある。たっぷりと塗られたバターを土台に、新鮮なレタスとトマト、時間をかけて焼き上げられたベーコンの旨みが口の中に広がる。


「料理人にとって、もっとも大切なものとはなにかをご存じかね、レディ?」

「うーん、発想力、ですか?」


 とっさに思い浮かんだのは、メニューを考案してレシピを練るマスターの姿だ。知っているメニューを美味しく作り上げるだけなら、練習すれば誰にでもできる。しかし、まだこの世にない新たな美味しさを創り上げる行為は、それとは次元の異なる領域であり、また料理人の神髄として少女の眼に映っていた。


「ふむ。それもまた一つの答えだろうね」


 しかし、老紳士の答えは違うようだった。


「しかし、きみはつい先ほど身をもって答えを示してくれただろう? そう、大切なのは観察眼だ。先入観の曇りなき瞳で、ひとつの観方に囚われることなく、視点を変えるための移動を厭わず、過たず正確に観察し、正しい理解へと至る。きみは料理人としてもっとも重要な資質をすでに備えているのだよ、レディ」


「あんまりそいつをおだてないで下さいよ、師匠」


 透き通った赤紫を湛えたワイングラスが老紳士の前に置かれる。お酒のように見えるが、老紳士はするすると美味そうに杯を干していく。


「アイリン、お前さんはこっちだ」


 ことりと音を立てて置かれたのは、ぷつぷつと泡を立てるレモンスカッシュの底に、とろりとした質感の赤色が沈められた飲み物だった。グラスのふちには輪切りのレモンが飾られ、マドラーが突き刺さっている。


「これ、底に沈んでるのは混ぜるんですか?」

「ラズベリーのシロップだ。好きに飲めばいい」

「リチャードさんのは、赤ワイン……ではないですよね?」

「これはキールだよ」


 指先に摘まんだワイングラスをゆっくりと揺らしながら、老紳士が微笑む。


「白ワインにカシスリキュールを加えた食前酒でね。私のお気に入りなんだ」

「へえ……」


 少女はマドラーをくるくると回してグラス全体へ赤を行き渡らせてから、グラスに口をつける。甘過ぎるほどに甘いラズベリーのシロップを、レモンの酸味がさらりと洗い流してくれる。夏にぴったりの、爽やかな味わいだ。


「あ……これ、好きです、マスター」

「うん、そうか。作り方は……作り方と言うほどのものでもないが、うちのレシピを後で教えてやろう。シャーリーテンプルを始めとするノンアルコールカクテルの基本だから、覚えておけばなにかと応用も利くからな」

「はい、ありがとうございます!」


 マスターはまだアルコールが飲めない少女のために、食前酒の代わりとして出してくれたのかも知れないと少女は気付く。そうした気遣いもまた、店を預かる者として学ぶべき知識の一つということなのだろう。口に出せばマスターは恥ずかしがるだろうからと、少女はそっと微笑み、心に刻む。


「ところでリチャードさん、一つ質問をしても?」


 サンドイッチを食べ終えたところで、少女が尋ねる。老紳士が、もちろんだと言いたげに片眉を上げてみせるのを待ってから、少女は問いを口にする。


「今日は、どんな料理をなさるんですか?」

「ふむ? きみは彼女にどんな説明をしたのかね?」


 少女の期待を込めた視線を浴びて、興味深そうな表情を浮かべた老紳士がマスターに問いかける。話題を振られたマスターは、カウンターの中で次のメニューの準備を進めつつ、少女に答える。


「あのな、アイリン。うーん……お前さんには、そう、対決とは言ったが、あれは言葉の綾というか、師匠を迎えるに当たっての俺の意気込みみたいなものでな。今日の趣旨は、あくまで師匠を招いての楽しいアフタヌーンティーだ」


「え……でも、リチャードさんはマスターのお師匠さまなんだから、すごい料理人さんなんですよね? あたし、リチャードさんの料理も食べてみたいです! リチャードさんは今もお店を? どこでお店を開いていらっしゃるんですか?」


「故郷のアイルランドだよ、アイリンくん。そこで小さなパブを営んでいる。機会があれば、ぜひ招待しよう。最近は息子に任せているが、かわいらしいレディの頼みとあらば、この老骨に鞭打ってでも腕を振るわねばならないだろうしね」


「やったあ! あの……マスター、行ってもいいですか?」

「……いや、師匠から招待の言葉を引き出すとは、よくやった。むしろお手柄だ、アイリン。そのうち時間を見つけて、必ず一緒に行こう」

「……リチャードさんって、そんなにすごい人なんですか?」

「ああ、なにしろ師匠は……」


 熱っぽく語り始めたマスターの言葉を、老紳士が途中で遮る。


「いやいや。私は故郷でパブを経営する、どこにでもいる料理人に過ぎんよ。若いころはロンドンで修業を積んだきみには敵わない。そうだろう?」


 老紳士はマスターの方を向いて、悪戯げな光を宿した瞳でウインクしてみせる。すると、マスターはぐっと言葉に詰まった様子で顔を背けると、作業に戻ってしまう。放り出される形になった少女は、妖精に化かされたような心持ちで首をかしげることしかできない。老紳士はなにが愉しいのかくつくつと笑い続け、マスターはどことなく憮然とした表情をしているようにも見える。


「ふふふ、今のきみは気にする必要のないことだよ、レディ。それよりも、オーブンから漂う香ばしい匂いには気付いているかい? ぜひとも紅茶と共にいただくべきだという気分にさせてくれるとは思わないかね? さあ、我々ゲストはホストである彼に全てを任せ、アフタヌーンティーの醍醐味たる気の利いた軽食、最高に美味しい紅茶、ウィットに富んだ会話を楽しもうじゃないか」


 大仰に両手を広げ、陽気に述べる老紳士。確かに、オーブンからはスコーンの焼ける匂いが漂ってきている。荒く砕いたクルミがアクセントになったマスターのスコーンは、少女の好物でもある。上手く誤魔化されたような気分がしないでもなかったが、美味しいスコーンの前では些細なことだ。


「シンプルなクルミのスコーンに、ジャムは色々と取り揃えてみた。クロテッドクリームもたっぷり塗って、まずはストレートティーで味わってもらいたい」


老紳士と少女の前には、マスターの手によって五種類のジャムとたっぷりのクロテッドクリームの入った壺が並べられている。立ちこめる甘い香りを胸いっぱいに吸い込みながら、少女はマスターの説明を聞く。


「左から順番に、ピーチ、アップル、アプリコット、ラズベリー、オレンジのジャム。そしてクロテッドクリームだ。ジャムはまだあるから、好きなだけ乗せるといい」


「ほう、これはこれは……」


 嬉しそうに目を細める老紳士。その様子を見たマスターが、ティーポットから紅茶を注ぎながら会心の笑みを浮かべるのを、少女は見逃さなかった。


「さあ、焼き上がったぞ。熱々の内に食べてくれ」


 カップを手に紅茶の香りを楽しんでいた少女と老紳士の前に、小振りなスコーンが山のように積み上げられた皿が置かれる。熱くて長くは持っていられないほどのスコーンにジャムとクロテッドクリームをたっぷり乗せると、すぐに熱で溶けてふわりと甘く香りが広がる。少女と老紳士は、どちらからともなく微笑みうなずき交わし、一口でそれを頬張った。


――美味しい。


 二人とも無言でスコーンを味わい、飲み下し、紅茶を口にして味覚をいったんリセットする。それから次のスコーンを手に取り、二つ目のジャム壺からジャムを掬い取り、その上にクロテッドクリームをかけて、口へと運ぶ。それを五度繰り返し、紅茶のカップを空にしてようやく、感想を語り合う気分になれた。


「あたしはピーチが一番好きです! リチャードさんはどうですか?」

「ふむ。どれも捨てがたいが、一つ選ぶならアプリコットだろうね。次はぜひ、ミルクティーと一緒に賞味したいものだよ」

「ええ、ちょうど頃合いでしょう。では、二杯目はミルクと共にお楽しみ下さい」


 スコーンを食べているうちに抽出が進んで濃くなっているだろうティーポットの横に、ミルクポットが置かれる。


「ミルクが先かね? それとも紅茶が先かね、レディ?」

「あたしはミルクです。リチャードさんは?」

「奇遇だね、私もだよ。さ、カップをこちらへ」


 せっかくなので、言葉に甘えることにする。期待した通り、老紳士がカップへミルクと紅茶を注ぐ姿はとても優雅で、どこまでも滑らかだった。その手元に、マスターもじっと視線を注いでいる。マスターがその技を盗もうとする相手。彼はそれだけの人物なのだと、改めて納得する気分が少女に訪れる。


「差し湯は必要ですか?」


 マスターの問いに、老紳士は即答する。


「レディのために、少しだけもらおうか」

「あ、あたしは別に……」

「いいから」


 老紳士と同じものを味わいたい。そう考えて差し湯を断ろうとした少女を、マスターが遮る。有無を言わせない強い言い方に少女が不服そうな表情になったのを見逃さず、老紳士が補足の言葉を加える。


「歳を取ると、味覚が鈍ると言うだろう?」

「は……はい」

「どれだけ優れた料理人でも、それは同じだ。苦味や雑味に対して鈍感になり、強い刺激を好むようになる。聡明な君ならば、これがなにを意味するのかわかるだろう? すなわち、年齢によって最適な味は異なるのだよ」


 老紳士は言葉を切り、最適な間を置いてからぱちりとウィンクする。


「そして、私はレディに最高のミルクティーをご馳走したいと考えている」

「あ……! そういうことなら、お願いします!」

「もちろんだとも」


 老紳士はにっこりと笑い、少女の前にミルクティのカップを置く。丁寧に、音もなく。ふわりと甘く香る薄茶色の液体を今すぐにでも口に含みたい欲望を押さえ、老紳士もカップを手に取ったのを確認してから、口をつける。


「……どうかね?」

「はい! 甘くて、コクがあって……とても美味しいです」

「ふむ。きっとミルクがよいのだろう。仕入れてきたのはきみかね?」

「いいえ。彼女ですよ、師匠」

「ほほう……よい弟子を持ったものだ」


 そんな老紳士とマスターのやり取りがどうにも嬉しく、自然とほころぶ口元を隠すために、スコーンへと手を伸ばす。老紳士に勧められてマスターも食べ始めると、山のように積まれたスコーンが無くなるまであっという間だった。


「あ……」


 最後のスコーンをひょいとつまんだマスターの手を、少女の瞳が追う。その様子に、老紳士がさもおかしいものを見たと言うようにくすくすと笑う。


「おっと、まだお腹を一杯にしてはいけないよ。続きがあるのだからね」

「え? まだなにか作るんですか、マスター?」

「いや、もうできている。奥でパウンドケーキを冷ましてあるんだ」


 奥に引っ込んだマスターが持ってきたのは、こんがりときつね色に焼き上げられたパウンドケーキだった。膨らみが綺麗なアーチを描いていて、切り崩すのがもったいなく感じてしまうほどだ。しかし、少女の感動をよそに、マスターはさくさくと容赦なくナイフを入れてケーキを皿へ取り分けてしまう。


「さて、こいつに合わせる飲み物は……うん、アイスティーがいいな。あまり甘くては、ケーキの味がわからなくなってしまう。どうだ、アイリン?」

「え? えっと、リチャードさんはどう思いますか?」

「ふむ……そうだな、もし私に任せてもらえるのなら、とっておきのアイスミルクティーはいかがかね? もちろん、マスターの許可がもらえればの話だが」


 少女と老紳士、二人の視線を受けたマスターがゆっくりと首を振る。


「許可だなんて……師匠も人が悪い」

「それは許可と取って構わんね? では、私に命じてくれたまえ、レディ」


 芝居がかった調子で小さく一礼してみせる老紳士に合わせ、少女はその身で体現し得る限りの威厳と鷹揚さをゆったりとした態度と口調に込めて答える。


「ではリチャードさん、あたしにアイスミルクティーを淹れて下さいますか?」

「イエス、マイレディ」


 老紳士は人懐っこい魅力的な笑顔を浮かべると、さっと立ち上がっていくつかのものを持参の革カバンから取り出す。そしてカウンターを回り込み、場所を譲るマスターに代わって少女の前に立つと、ミルクパンを取り出し、使い込まれたシルバーの計量用カップを手に取って懐かしげに目を細める。その姿には一切のためらいがなく、老紳士が店を熟知していることが察せられる。


「…………」


 さりげなく、それでいて怖いほど真剣な無表情で老紳士の動きを見つめるマスターに習い、少女もまた老紳士に視線を注ぐ。しかし老紳士は二人の注目をむしろ楽しむかのように、一杯半の水をミルクパンに注いで火にかけると、ステンレス製の保存容器を取り出す。お店のものではないから、きっと老紳士が先ほどカバンから取り出したものだろう。


「手土産として持ってきたんだがね……私も一杯飲むくらいはいいだろう?」

「……師匠。一応聞きますが、どんなブレンドを?」

「当然、秘密だ。もし気になるなら全身全霊で嗅ぎ分けるか、よく味わうことだね。持ってきただけでは足りないなら、私の店を訪れるといい。今日のお礼も兼ねて、いくらでも淹れてあげようではないか」

「……いえ、自分で再現しますよ」

「ふふふ、きみも言うようになったものだ。ならば、これと同じか、それ以上に美味しいブレンドを完成させたら私のところへ持ってきたまえ。答え合わせのついでに、味比べといこうではないか」

「望むところです。師匠こそ、俺のブレンドが知りたくなっても教えませんよ」


 羨ましい。二人のやりとりを聞いて、少女はそう思う。一杯の紅茶について、この人たちはきっと何時間でも語っていられるのだろう。少女には、まだそれだけの知識と技量と経験がない。マスターの後ろをついて歩くことはできても、並び立つことはまだできないのだ。


「おっと、そろそろお湯が沸く頃合いだ。……いいかねレディ、紅茶はタイミングなんだ。茶葉は手元に用意して、沸騰したらすぐさま茶葉を投入せねばならない。遅れれば遅れるだけ、なんと言うのか……そう、お湯が死んでいくんだ」


 老紳士は喋りながらも火から目を離さず、沸騰しきったと見るや言葉通りに手早く、あらかじめさらに取り分けて置いたティースプーン山盛り四杯分の茶葉をミルクパンに投入した。少女の眼にはちょっと多過ぎるのではないかと映る量だったが、マスターの顔に疑問が浮かぶ様子はない。


「このまま強火で三分待つ。……その間に、質問はあるかね?」


 カウンターに両手をついた老紳士が、少女とマスターの顔を順繰りに見る。


「お湯が死ぬ、というのはどういうことですか?」


 少女の問いに、我が意を得たりとばかりに老紳士が微笑む。


「ふむ、よい質問だ。その答えを知るには、沸騰したてのお湯と、十分ほど煮立てたお湯とで淹れ比べるといいだろう。きみなら違いが分かるはずだ」

「はい! やってみます!」

「よい返事だ。すぐに理屈がどうこうと言い出す我が弟子とは大違いだな」

「……悪かったですね。こいつはなにも考えてないだけです」

「あたしだって考えてますよぉ!」

「素直さは美徳だよ。そうは思わんかね、レディ?」

「そうですよマスター!」


 肩をすくめ、ふっと鼻で笑うマスターには納得がいかない少女だったが、それでもいつもとは違って自分の味方がいるのが無性にうれしく、つい笑みがこぼれる。常連客が助け舟を出してくれることもあるが、それ以上にマスターと二人きりだったり、酔っぱらった客も一緒になって少女をからかう場面が多いのが、普段のカフェ・デ・グラティアなのだ。


「そろそろ三分経つね。ではミルクを加え、もうひと煮立ちさせよう」


 ミルクを加えて温度が下がった紅茶がもう一度沸騰するのを待つ間に、老紳士はミルクパンをもう一つと氷水の入った大きめのボウルを用意する。薄茶色の液面がふあっと一気に上昇するのと、老紳士が火を止めるのはほぼ同時だった。老紳士はそのままミルクパンを持ち上げると、ストレーナーで茶葉を取り除きながらもう一つのミルクパンへと紅茶を移し替える。


「そのまま氷で冷やさないんですか?」

「せっかく濃厚に淹れても、薄まってしまうんだよ。できれば自然に冷ましたいが、レディを待たせるわけにもいかないからね。砂糖は温かいうちに溶かして、後は氷水で外から冷やしてしまおう」


 老紳士は砂糖をティースプーンに三杯溶かしこむと、ミルクパンを氷水のボウルに浸け、かき混ぜるようにゆっくりと回す。揺れる液体から氷水へと熱が抜けていくにしたがって、紅茶の表面にはミルクの膜が形成されるので、それも取り除く。湯気はすぐに消え、からからと音を立てていた氷も小さくなっていく。


「カップはたっぷり入るマグがいい。きみ、氷を詰めて用意してくれるかね?」

「とうに準備は整えてありますよ、師匠」

「ふむ。きみも少しは気を利かせるということを学んだようだ」

「……ええ、おかげさまで」


 さっきよりも目の細かいストレーナーで残った茶葉を取り除きつつ、並べられた三つのマグへミルクティーが注ぎ入れられていく。積み上げられた氷が崩れて、かきんと涼しげな音を立てる。


「さあ、できあがりだ」


 少女の目の前にアイスミルクティーのマグが置かれる。老紳士もカウンターを潜って戻ってくると少女の隣に着席する。カウンターの向こうには、ミルクパンやマグに鼻を近づけてブレンドの正体を探ろうとするマスターが残される。放っておこう。少女と老紳士の間に、視線とまばたきで合意が交わされる。


「完全に冷えるにはもう少しかかるから、先にパウンドケーキからいただこうか」

「はい、リチャードさん。いただきます!」

「どうぞ。私の作ったものではないが、味は保証しよう。いや、そんなことは私よりきみの方がよく知っているだろうね」

「はい、マスターの料理はすごく美味しいんです!」


 にこりと笑って、少女はケーキにかぶりつく。ひと噛みふた噛みしただけでは薄味にも思えるが、よく噛み締めるとプレーンなケーキの、ほんのりとした小麦の甘さが口に広がる。優しい味だと、少女は思う。


「小麦の甘さがわかるかね? 舌がいい証拠だよ」


 老紳士の言葉にこくりとうなずき、少女はマグに口をつける。


「……!?」


 口に含んだ瞬間、今まで飲んできたアイスミルクティーとはものが違うと分かった。ミルクのコクの中で、しかし紅茶の味と香りはしっかりと主張してくる。これ以上ないほど濃厚で、それでいて飲みやすく、なにより美味しい。


「ふむ、満足してもらえているようだね。私もうれしいよ」


 優雅にマグを口元へ運び、香りを楽しみながら微笑む老紳士。彼は熱心にメモを取りながら首を捻っているマスターを呆れたような顔で見て、声をかける。


「ほら、きみも氷が融ける前に飲んでしまいたまえ」

「……そうですね。すみません、師匠」

「きみの研究熱心さは嫌いではないがね」


 まだ考え事をしているのか眉間にしわを寄せてアイスミルクティーを飲んだマスターが、はっとした表情になる。それを見た老紳士がしてやったりと言わんばかりににやりと口角を上げるのを、少女は見逃さなかった。


「どうだね、楽しいお茶会だというのに余計なことを考えている輩を、有無を言わさぬ美味さでぶん殴ってやるのは胸がすくとは思わないかね、レディ?」

「……はい!」


 悪童のようににやにやと笑う老紳士に、少女は心からの同意を返す。なにも言い返せず、そっぽを向いてマグを傾けるマスターも姿も、老紳士の前では小さな子供がふて腐れているように見えてしまって、ただただかわいらしい。


「……さて、今日は存分に楽しませてもらった。ありがとう。料理も紅茶も申し分ない、最高のアフタヌーンティーの時間を過ごせたよ。……察するに、この小さなレディと過ごした時間がきみを変えたのではないかね?」

「ええ……その通りですよ、師匠」

「え?」


 意外な言葉に驚く少女をよそに、マスターは店の天井を見つめて独白する。


「去年までの俺は、師匠を唸らせようと凝ったものを出すことしか考えていなかった。思えば色々とやったものだな。インドのチャイに凝ったり、チャイナの点心風を試したり、ジャパンの茶道を真似たり。……全ては形だけだった」


 マスターの言葉に、老紳士が目を細める。


「俺の料理を本当に美味そうに平らげるこいつを見ていて思い出したんです。昔、師匠に食わせてもらったシェパードパイを。どこにでもある材料で、普通に作られたあのパイが、どうしてあんなに旨かったのか……その答えを、こいつは身をもって教えてくれたんです」


 カウンター越しに伸びた手が、少女の頭をがしがしと撫でる。普段なら嫌がって逃げ出すところだが、今日だけはなすがままにされていようと少女は決める。そんな二人の様子を、老紳士は子か孫でも見るような眼で眺めていた。


「そう、大事なのはシンプルであること、そしてゲストをもてなす気持ちだ。どうにも月並みではあるが、これに気付き、さらに実践するのは中々に難しい」


「はい……長い時間がかかりました。本当に俺は……不肖の弟子です」


 マスターの声が震える。

 少女は、わけもなく泣きそうになっている自分に気付き、そして次の瞬間には、こう口に出していた。


「……マスター、リチャードさん、あたし決めました」


 少女はカウンターに置いたマグに両手を置いて、宣言する。


「いつか、マスターみたいにカフェをやれるだけの腕前を身につけて、マスターがそうしたように、あたしにとってのリチャードさんに挑戦します。あたしにもできるんだって、きっと証明してやるんです」


 口にして、気付く。それが、ずっと抱いてきた自分の願いであることに。


「ふむ。まるでいつかのきみを見るようではないかね?」

「俺もそう思っていたところです……くそっ、過去の自分の写し絵を見せつけられるのが、こんなにも恥ずかしいとは……」

「え……? マスターも、そうだったんですか?」

「行き倒れていたところを拾って、一年くらい経ったころかな。いつか私を超えると宣言して、それからは年に一回の腕比べをしていたのだよ。懐かしいね」

「師匠……それ以上は勘弁して下さい……!」


 なるほど、と少女は得心する。同時に、マスターにも若く未熟な時期があったのだと思うと、妙な親近感すら湧くのを覚えた。


「そっかぁ……!」


 ふわふわと暖かい気分でいるところに降ってきたのは、マスターの呆れたような声音、そして軽い軽い、照れ隠しのような拳骨だった。


「なにをにやにやしてるんだ、気持ち悪い」

「気持ち悪くなんかないですよぉ!」

「お茶会は終わりだ。片付けをするぞ」

「はーい」

「その後は、約束通りカクテルの作り方を教えてやる」

「は……はい!」

「せっかくだ。私からも、沸騰させ過ぎたお湯が紅茶に与える悪影響について、実践形式で講義しようではないか」

「お願いします、リチャードさん!」


 その日こそ、少女が料理人として一歩を踏み出す、最初の日。今も英国はリヴァプールで営まれる小さなカフェの歴史に刻まれる、一行の記録なのだった。

紅茶の淹れ方についてはロンドンティールームさま(@londontearoom_)のレシピを参考にしましたが、文責はくろひつじにあります。素敵に美味しいアイスミルクティーのレシピをありがとうございます。

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