序幕 不遇の子ギツネ
天竺と呼ばれている地域の北部。
その外れにある小さく簡素で貧しい村カンナン。
カンナン村に隣り合わせた森の中で、二匹のキツネが産まれた。
一匹は脚に深手を負った母ギツネのお腹から、もう一匹は、そこからしばらく離れた巣に住む、病気がちな母ギツネから産み落とされた。
二匹が産まれたその夜、満月の輝く空に小さな彗星が二つ流れたと言う。
同じ日の同じ時刻に産まれた二匹は、それぞれが五匹の兄姉の末娘として、生を受けた。
森を流れる大きな川の対岸には、枯れたたいそう背の高い木があり、その先端は輝く満月の中線を指していた。
どちらの子ギツネも未熟児で兄姉たちより遙かに身体が小さかった。
足の悪いキツネのもとに産まれた小さな子ギツネの額には、先の尖った五枚の花びらが開いたような白い模様がついており、病弱なキツネの小さな娘の額には、伏せた椀状に左右対象の花びらが幾重にも咲き誇ったような白い模様が浮かんでいた。
他の子ギツネたちの目が開く頃、母に心配されながらもずいぶん遅れて、二匹はようやく目が開いた。
開いたと同時に兄姉たちを驚かせた。
脚に傷を負ったキツネの末娘は、深く吸い込まれそうなほど美しい紫色をしていた。
病弱なキツネの末娘は眩しいくらい鮮やかな桃色をしていた。
紫眼の子ギツネと桃眼の子ギツネは、身体が小さいこと目の色が違うこと、額の模様の違和感に、兄姉から毛嫌いされていた。
自分の姿を知ることのできない二匹は、なぜ兄姉から嫌われているのか分からず、自分は悪い子なのだと己を責め、兄姉に怯えながら暮らしていた。
紫眼の子ギツネはいつも通り母の乳首を求め兄姉に揉まれていた。
ようやく乳にありついて二口、三口吸うと兄にその乳首を奪い取られ、足元に追いやられ、巣の端に蹴り出された。
母は紫眼の子ギツネを優しく咥え、空いた乳首のある場所へそっと置いてやった。
紫眼の子ギツネは懸命に乳に吸い付き腹を満たそうとしたが、満足いくまで吸うこともできず、やはり払い落とされ、兄姉に翻弄されて群れから蹴り出された。
――おらはちゃんとしたキツネでないベ。物の怪みたいに醜いに違いね、だから、あんにゃ、あねちゃに嫌われてるだ――
紫眼の子ギツネはそんな風に考えていた。
桃眼の子ギツネも一緒だった。
彼女が満腹になることはない。
――わだすが臆病だからいけないだ。小さいからいじめられるベ。仲よくしてもらえないべさ。誰の役にも立たねぇから駄目だべ――
桃眼の子ギツネは毎日自分を責めた。
身体の小さな二匹にとっては、母の乳を吸うことすら命がけの戦いだった。
紫眼の子ギツネは授乳が終わると母の脚の傷を舐めるのが日課だった。舐めれば治ると信じていた。
飽きずにひたすら舐め続けていると、母が時折背中を舐めてくれるのが嬉しかった。
兄姉たちが眠りについて、母が寝息を立て始めると舐めるのを止め、巣の隅で丸くなる。兄姉の間に入ると、寝返りで潰されかねないから隅で寝る。
その日はいつもより空腹でなかなか寝付けなかった。
紫眼の子ギツネは身体も小さく兄姉を恐れてはいたが、決して臆病ではなかった。
そっと巣を抜け出し姿勢を低くして、物音を立てないように森の中を散策した。
まだ見ぬ場所へも積極的に足を運んだ。
しばらく歩き耳を澄ませてみると、静かに流れる水の音を聞いた。
その方向へ足を向け慎重に歩き続けると、開けた川辺があった。
初めて見る大きな川に興奮して、転がるように駆け出した。
砂利の川辺、とうとうと流れる大きな川、水面に映る月、対岸に広がる別の森。
始めためにする景色に胸がときめいた。
紫眼の子ギツネは首を大きく左から右へと動かし、うっとりとその光景を眺めた。
足元には大量の水が流れている。前脚でそれをつつくと波目がわずかに変わり、それが楽しくて夢中になって何度もそれを繰り返した。
次に恐る恐る舌先を水に濡らした。冷たくそして美味しかった。腹を満たそうと何度も舌で口の中へ水を掬い上げ、水を飲んだ。
――なんて美味いんだべ、腹が満ちてゆくだ――
不意に紫眼の子ギツネの舌が止まった。
「なんだべ?」
月明かりの下、水面に映る自分の姿を見て思った。
「水ん中さヘンテコでこまいキツネがいるベ」
前脚で水に映る狐を突くと、狐はうつろいながら消え再び姿を現した。
面白くて繰り返した。
「おめぇ、おらと友達になりてぇのんか?」
紫眼の子ギツネはかつてないほどの喜びを感じ、水面に映る自分に訊いた。
また、水面の小さな子ギツネも同じように口を動かしていたことから、自分と同じことを考えていると感じた。
「おらか?……おらは……」
紫眼の子ギツネははにかみ、水面に映る自分から目をそらす。
「なりてぇよ。友達に……でも、おら嫌われモンだべ。それでもええだか?」
緊張しながら川を覗くと、水面の自分は黙ったままだった。
――やっぱり、嫌だべさ――
前脚で水面を突いてみる。影は歪んで消えまた現れた。そうしているうちに前脚を滑らせて、川の中に顔を突っ込んでしまった。
川底にキツネはいなかった。
「おめぇ物の怪け?」
水面をしばらく見つめ、後ろ足で耳の後ろを掻いた。
水面のキツネも同様に耳の後ろを掻いた。
「まねっこけ?」
違和感を覚えながら訊いてみる。
反対の耳を掻くと水面のキツネもやはり反対の耳を掻いた。前脚で鼻を押さえたり口を開けたりしているうちに、紫眼の子ギツネはようやく気付いた。
そこに映る異様な姿が自分なのだと……
身体が小さく額に変な模様があり、まつ毛が長く他の兄姉とも母とも違う瞳の色。
それが自分なのだ。
友達もつくれず現実を知らされた紫眼の子狐は、涙が溢れそうになった。
しかしここで涙すると、全てを失いそうで涙がこぼれないように空を見上げた。
大きくて丸い、とても美しい月が輝いていた。
心が洗われていくようだった。
対岸にある枯れかかった巨木を見ていて、月と巨木が近づいているのか、巨木が付きに近づいているのか、その二つが近づいていることに気付いた。
あの巨木の先端が月の真ん中まできたら帰ることにしようと、紫眼の子ギツネは決めた。
それまではその美しさに身を任せ、全てを忘れようと……
桃眼の子ギツネは兄姉に揉まれ、母の愛に支えられながらわずかな乳を飲み終えた。
飲み終えると母の背中を舐め始めた。彼女の習慣である。
こうすれば母の咳が和らぐのだ。
兄姉たちはすっかり眠り、母が寝息を立てるとその大きな背中に身体を寄せ眠るのが、桃眼の子ギツネの数少ない楽しみの一つだった。
その日は不意に、変な時間に目を覚ました。
そのまま眠れず悶々としていると、巣の外がいつもより明るいことに気付いた。
「あの空で光る丸い場所が、いつもより明るいに違いね」
そっと巣を抜け出して空に鼻先を向けると、木々の枝に茂る葉の隙間からパズルのような月が見えた。
桃眼の子ギツネは臆病だが、それにも増して好奇心が旺盛であった。
月をよく見ようと空を見上げながら、森を徘徊した。
彷徨っているうちに開けた川辺にでた。
初めて見る大きな川に胸を躍らせる。
掛け出そうとしたところ、月明かりに照らされる、赤ちゃん狐を見つけ慌てて草むらに身を隠した。
赤ちゃんキツネは水面を叩いたり川に顔を突っ込んだり、大きな独り言をいうなどの奇行を繰り返していた。
「可愛そうに、きっとあのしと頭でも打ったんだベ」
桃眼の子ギツネは、草むらの影から紫眼の子ギツネに同情の目を向けた。
しばらくすると紫眼の子ギツネは去って行ったので、桃眼の子ギツネは川に向かって駆け出した。
川に映る月、とうとうと流れる川、広く大きな対岸の森、全てが新鮮に見え優雅に輝いており、桃眼に納まりきらないほど雄大だった。
見上げると満天の星を背に輝く月。月は丁度巨木の先端を半分過ぎたくらいだった。
水面に目を向ける。ゆっくりと流れる水に異様なものが映っていた。
小さな子ギツネだ。額には何か模様がある。まつ毛が長く瞳は桃色。
とてもキツネとは思えない。思えないからこそ桃眼の子ギツネは悟った。
これは自分だと――
「やめてけろ!」
鮮やかな桃色の瞳は涙に濡れた。
「あんちゃんたちとも、あねちゃんたちとも、おかさんとも違うベ。わだすはキツネでないべさ」
桃眼の子ギツネは声を上げて泣き、水面の自分を前脚で何度も叩き消した。
顔に飛び散った水を舌で拭うと、不意に前脚が止まった。
もう一度拭う。水面に映る自分を見ないように瞼を固く閉じて、前脚に付けた水を鼻先に垂らし舌で舐め取る。
もう一度、もう一度……
「美味しいべ」
瞼を閉じたまま川に舌を漬け、水を一気に飲んで腹を満たした。
前脚で涙を拭うと辺りの景色を改めて見渡した。
「いい所さね」
しっかりと桃色の瞳に景色を焼き付けた。
「もう少ししたら帰るべ」
桃眼の子狐は、自分が異形であることを受け入れた。




