霧の中の約束
霧が濃くなるほどに、世界は音を失っていった。
葉擦れの音も、鳥の声も、足音さえも吸い込まれる。
リナは白い靄の中を慎重に歩きながら、胸の奥でざわめく“ déjà vu”を抑えきれずにいた。
――この道、知ってる。
――でも、どうして?
「リナ、離れないで」
背後からカイの声がする。
その声が、やけに遠く感じられた。
「大丈夫、カイがいるから」
そう言って微笑もうとした瞬間、足元の感触が変わる。
次の瞬間――世界がぐにゃりと歪んだ。
*
気づくと、リナは一人で古い教会の中に立っていた。
壁に飾られたステンドグラスは割れ、差し込む光が霧のように舞っている。
そこに、誰かが立っていた。
白衣をまとった女性。
やさしく、けれどどこか儚げな微笑み。
彼女の胸元には、見覚えのあるナースブローチが光っていた。
「あなたは……誰?」
「わたしは、リナ。――もうひとりの、あなた」
リナの心臓が跳ねた。
同じ顔。けれどその瞳には、遥か昔の記憶が宿っていた。
「この世界で、あなたが生きていることが嬉しいの」
「どういうこと……?」
もうひとりの“リナ”は静かに笑った。
「あなたが今持っている“看護の心”は、時を超えて受け継がれている。
誰かを救いたいという願いが、わたしを――そしてあなたを、ここに導いたの」
リナの目に涙が滲む。
手を伸ばしたが、指先は霧に溶けてすり抜けた。
「待って! まだ、聞きたいことが――!」
「カイを信じて。彼は……“鍵”になる」
その言葉を最後に、幻は霧とともに消えた。
気づけば仲間たちが駆け寄ってきていた。
「リナ! 大丈夫!?」
ミナの声が焦っている。
リナは震える指で胸を押さえながら、小さくうなずいた。
「うん……でも、思い出した気がするの」
「何を?」カイが問う。
リナは霧の奥を見つめ、静かに言った。
「この森は、昔――誰かを救えなかった場所。
でも今度こそ、救いたい。過去も、今も、全部」
霧が晴れ、朝の光が差し込む。
カイはその横顔を見つめ、何も言わずに手を伸ばした。
その手を取るリナ。二人の間に、言葉にならない約束が流れた。
*
その頃、森の外では――
黒いローブの影が、ゆっくりと歩き出していた。
仮面の奥で笑うその人物は、低く呟く。
「時は満ちた。封印を解く鍵は……揃いつつある」
霧が散る。
静寂のあとに訪れる嵐の音が、遠くで鳴り始めていた。




