彼岸の入りに置かれた白い菓子
和菓子屋の棚に、いつの間にか白い餅菓子が並びはじめている。ぼた餅にはまだ少し早いのに、白く丸いものだけが先に春を告げる。砂糖と米粉の匂いが、ショーケースのガラス越しに漂ってくる。
彼岸という言葉は、いつも少し重たい。祝日でもなく、祭りでもなく、ただ「境界」を示す言葉。生者と死者、昼と夜、冬と春。そのどれにも属しきれない中間領域に、名前だけが置かれている。
白い菓子は、誰かのために買われることが多い。仏壇に供えられ、墓前に置かれ、家族で分けられる。食べる行為と祈る行為が重なり合う、曖昧な儀式。甘さは、死者に対する言葉の代わりなのだと思う。
子どもの頃、祖母の家で彼岸団子を食べた記憶がある。仏壇の前で手を合わせ、そのあとで同じ団子を口に運ぶ。生と死が同じテーブルに並んでいる感覚が、少し怖くて、少し特別だった。甘いものは、生者と死者の共通言語なのかもしれない。
店のガラスに映る自分の顔を見る。白い菓子の隣に、現実の輪郭をした自分が並んでいる。ショーケースは境界装置だ。こちら側は生、向こう側は象徴。ガラス一枚で、意味が変わる。
春の光が強くなり、影がくっきりしてきた。昼の影と夜の影の中間の濃さ。彼岸は、影の密度が変わる季節でもある。太陽の角度が変わり、世界の影が書き換えられていく。
白い菓子を買い、紙袋に入れて歩く。供える予定もないのに、なぜか買ってしまった。彼岸という言葉に触れると、人は自分の境界を確認したくなるのだろう。生きている側にいること、記憶する側にいること。
家に帰り、ひとつだけ皿に出して食べる。甘さが舌に広がり、すぐに消える。死者に向けた甘さも、生者の身体で消費される。境界は意外と薄く、甘さはいつもこちら側で溶ける。
彼岸の入りに置かれた白い菓子とは、境界線に置かれた翻訳機。私は今日、その甘さを噛みしめながら、生と死のあいだにある言葉にならない距離を、口の中でゆっくり測っていた。




