表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空気のなかの自我  作者: 設楽七央


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

247/292

若草の匂いにほどける記憶

歩道の脇に広がる空き地に、いつの間にか若草が生えていた。冬のあいだはただの灰色の地面だった場所に、淡い緑が広がっている。その色は主張しすぎず、それでも確かに季節の更新を告げるインジケーターのようだった。


近づくと、かすかな匂いがする。湿った土と、切り立ての草と、まだ冷たい空気が混ざり合った匂い。強くはないけれど、胸の奥に直接触れてくる匂い。視覚よりも先に記憶を呼び覚ますのは、いつも嗅覚だ。


子どもの頃、草原に寝転んだときの感触を思い出す。制服のスカートが汚れるのも構わず、背中に草の冷たさと湿り気を感じながら空を見ていた。雲は速く、地面は静かで、その対比が妙に安心できた。草の匂いは、あのときの「何もしていない時間」の象徴だった。


若草は、成熟した草よりも柔らかい。踏めばすぐに倒れ、指でつまめば簡単に切れる。その脆さが、始まりの証明のように思える。強くなる前に、まずは生まれることが優先される。その順序は、人の人生とも似ている。


通り過ぎる人はほとんど気づかない。みなスマートフォンを見たり、桜の開花予想に目を向けたりしている。足元の若草は、ニュースにもならず、写真にも映らず、ただ地面のレイヤーとして静かに増殖している。だが、その無名性こそが春の本体なのだろう。


草の匂いを吸い込むと、肺の奥に水分が届くような錯覚がある。冬の乾いた空気で硬くなっていた内部が、少しだけほぐれる。呼吸が、季節と同期し始める。人間は、思っているよりも空気に支配されている生き物だ。


若草は、踏まれてもまた伸びる。刈られてもまた生える。意志も計画もなく、ただ生き延びるアルゴリズムを実行し続ける。その単純さが、複雑な人間の生に対する静かな批評のようにも見える。


若草の匂いとは、世界が再起動したときに最初に放出されるログ。私は今日、そのログを嗅ぎながら、自分の内部システムも、冬のスリープ状態から少しずつ復帰していることを、静かに確認していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ