32話:邂逅
死神の騎士と呼ばれる傭兵アトゥーム=オレステスが修行の旅を終えたのはガルム帝国とグランサール皇国の休戦協定から一年と少し経った時だった。
義弟ラウルとアトゥームの恋人ホークウィンドもその修行の旅に同行し、誰もが認める一人前の戦士になった。
帝国に戻ってきたアトゥームたちは皇帝領ガラムベルクにある帝都ゴルトブルクで次の戦争に備え計画を練っていた。敵国グランサール皇国も前の戦争から回復し、次の侵攻を画策していると軍偵たちより報告が上がってきていたのだ。
事件はそんな時に起きた。
* * *
アトゥームは神経過敏になっていることに気が付いていた。統合失調症は治ったとは言えない。妄想も幻覚も自制しなければすぐに行動が影響を受けてしまう。過剰労働気味なのが良くないのだろう。夜も良く眠れず、些細なことに気が立った。
少し前まで皇国との小競り合いを収めに出向いていたせいでもある。悪い事にホークウィンドも故郷エセルナート王国の召喚に応えてしばらくアトゥームの側に居れなかった。ラウルも忙しく、アトゥームに丁寧に接することができない。ラウルは薬を増やして対応しようとしたが、それはアトゥームにとって気に入らない事だった。
アトゥームは心労を貯めていた。心的融和状態が取れたラウルとの間に冷えた空気が入っているのも精神に負担をかけた。
空気に寒さが漂い出した頃だった。
朝の練武を終えたアトゥームは城の大広間で女帝クリスティーナとラウルが来るのを待っていた。女帝は12歳という若さだった。もっともラウルも10代でアトゥームも20を少し超えただけだ。
幻聴は小さくなったが相変わらずおさまらない。溜め息をついてテーブルの上にある水差しを取ろうとした時、アトゥームの脳内をまるで天からのものとしか思えない声が身体を貫くように響いた。
「あの女を殺せ」
「あの女はお前たちを裏切った」
「クリスティーナはラウルをお前から奪うつもりだ」
「クリスティーナはお前さえいなくなればラウルは自分のものになると信じている。早くしないとお前が殺されるぞ」
「殺せ、殺せ、殺せ」
「殺られる前に殺れ」
「黙れ……!」うめき声は宙に消える。
「良い事を教えてやる。お前に会いに来る二人は悪魔が化けた人外のバケモノだ。エレオナアルが差し向けた悪魔だ! クリスティーナはラウルを手に入れるためにエレオナアルに通じて悪魔と手を結んだんだ」
アトゥームは苦悶した。声に圧倒され、水差しを取り落とす。頭を抱える。声は止まなかった。
「…やめろ」思ったよりも大きな声が出て肝が冷えた。震えながらアトゥームはテーブルに突っ伏す。気合いで収まる様なものではない。
ちょうどその時、姦しい笑い声と共に女帝と取り巻きの貴族の子女が入ってきた。ラウルは女帝と共に先頭で彼女と談笑していた。
「アトゥーム様、ごきげんよう…」女帝がそう言う。女帝の手が左腰に吊るした短剣に伸びた。様にアトゥームには見えた。女帝の唇が邪悪に歪む——実際には光の加減でそう見えただけだった。
「危ない!」頭に割れるような大声が響く。アトゥームは反射的にテーブルに置いていた両手剣デスブリンガーを右手で抜きざまに女帝に振る。
鋭い一撃が女帝を襲った。悲鳴が上がる。警護役の侍女すらその動きを止める事は出来なかった。
女帝の肩口から血しぶきが上がる。女帝の目が見開かれた。
「義兄さん!」ラウルが更に攻撃しようとするアトゥームの腕を押さえた。
「ラウル……」ラウルの魔法でアトゥームは正気を取り戻した。デスブリンガーが音を立てて落ちる。
女帝仕えの治癒術師が急いで治癒魔法をかける。
「これは……ただではすみませんよ、アトゥーム様。病気が影響したのだとしても」友人の公爵令嬢が非難の目を向けた。
呆然と立ち尽くしたままアトゥームはやってきた衛兵に連れて行かれる。四人がかりだった。
「……アトゥーム様は」クリスティーナ女帝が痛みをこらえてラウルに話しかけた。
「陛下の思った通りです。統合失調症が悪化した」
「私は厳罰を望みませぬ。あの方は貴方同様この国に必要です」傷が痛んだのだろう。女帝は呻いた。
ラウルも痛みを消す魔法を女帝に掛ける。
自分たちを疎ましく思う勢力はこの一件を見逃さないだろう。神は本当に人に試練を与えすぎる――知恵と戦いの女神ラエレナを奉ずると同時に、彼女の計らいで唯一無二の全知全能神を信じるようになったラウルだったが神は非情だと感じる事はまだ克服できていなかった。
* * *
アトゥームを死刑にすべきだという意見と精神疾患の治療を優先すべきだという議論は激論になった。アトゥームの功績は多大でも女帝を殺す寸前だった、その罪は死で贖うしかないという意見はかなりの勢力を占めた。統合失調症という理解不能の病に罹った人間は一人残らず〝処分〟しなければならないと息巻く一派もいた。
しばらくの間、侃侃諤諤の議論が戦わされた後、アトゥームに対する処分は邪悪な龍を一人で退治せよというものになった。
三十年ほど昔に帝国を襲った恐るべき赤龍グラドノルグを冬が開けるまでに討伐せよ。出来なければ首をはねるということになったのだ。
処刑派もその沙汰には満足した。確実にアトゥームが生き残る道は無くなった。誰もがそう思ったのだった。
* * *
二カ月後、軟禁状態を解かれたアトゥームは愛馬スノウウィンドを連れ、赤龍グラドノルグ討伐を目指して北方の山岳地帯へと向かった。アトゥームがこの任務から逃げ出せばラウルも連帯責任を問われる。
単独行だった。酷い道で騎乗はできず、愛馬を引いて前進するので精一杯だった。吹雪の中でビバークすることも忘れるほど、アトゥームの統合失調症は悪化していた。 愛馬スノウウィンドがいななく。主人の様子が尋常でない事に当てられ、愛馬も半ば正気を失っていた。ホークウィンドにも去られ、クリスティーナに嫉妬し、ラウルの善意も無駄にした自分にふさわしい末路だとアトゥームは自嘲した。吹き付ける風に息が詰まる。乱暴に手綱を引っ張られ棒立ちになったスノウウィンドはアトゥームを振り払うと夜闇の中に駆け去った。
アトゥームは吹雪の中で哄笑した——愛馬にまで見捨てられた。大の字になって後ろに倒れ込んだ。俺は邪悪な赤龍グラドノルグに相まみえる事も無く死ぬのだろう。体は冷え、敏活な鋭気が脳を駆け巡る。四肢の先から冷たさが増し、指先から感覚が無くなっていく。
このまま死ねばラウルにとっても世界にとっても——。そんな思いが身体中を巡る。
「「「このまま死ね」」」今まで聞いたことのある声全てによる幻聴が心地良く聞こえた。
〝それは赦されぬ〟今まで聞いたことのない幻聴が頭に響いた。途轍もない声だった。
吹雪を破って黒い大きな影がアトゥームを覆った。風が遮られる。
「傭兵アトゥーム=オレステス。そなたが今死ぬ事は赦さぬ」長い首の先に光る赤い目が有った。
夜闇をつんざいて咆哮が響く。巨大な赤龍の姿がそこに有る。まさかとアトゥームは思った。
「お前は――」
「そう、われが始原の赤龍グラドノルグ。そなたが来るのを待っていた」
自分を殺しに来たと知っているのか——それにしては。アトゥームは息を詰まらせながらそれでもグラドノルグに呼びかけた。
「ならば俺が何の為にここに来たのかも知っているだろう——俺は、お前、始原の赤龍グラドノルグを殺しにきた」
「人間如きにわれが殺せると——神に匹敵するわれを——?」赤龍は大笑した。
「油断していれば」
「われを殺せるなら殺してみるがいい。そなたには出来ないだろうが」
アトゥームはカッとなった。龍を睨む。赤龍の口の端にはまだ笑みが残っている。
「賭けをしよう。われが寝ている時でもいい。一撃入れられたら血を飲ませてやろう」
アトゥームも龍の血については聞いたことがあった。飲めば万病を癒やすと言われる、伝説の万能薬だ。
「そなたはわれを殺さなければ帝国に処刑されるというのだろう。われが帝国を滅ぼしてやる。それで問題あるまい」
「有り過ぎる」
「義理立てするほど帝国はそなたを信頼しているのか」
アトゥームは反論しようとしたが、言葉が出ない。
「われについてこい。拒否するなら——」グラドノルグの笑みに獰猛さが加わった。
「分かった——」アトゥームは降参した。どうしようもない。どのみち自分には未来が無いのだ。
赤龍のいる方へと歩き出す。
——死神の騎士、黒騎士と呼ばれる傭兵アトゥーム=オレステスは自らの運命を大きく変える出会いを果たしたのだった。




