閑話:茶箱と、四十五分の外側
谷口和樹は、茶箱を股に挟んで座っていた。
自室の床。メトロノームは、父の書斎から借りてきた三角形の古いやつだ。振り子が左右に振れるたび、カチ、カチ、と乾いた音を立てる。
六十。いちばん遅い方の目盛りに合わせてある。
二拍目と四拍目。そこを掌で叩く。
ドンッ、パシッ。
箱の裏に張られた弦が、ジャラ、と余分に鳴った。
――ずれてる。
自分でも分かる。振り子が右端に達した瞬間に叩いているつもりなのに、音は必ずその後ろに来る。ほんの少しだけ遅い。指摘されるまでもない。耳が勝手に気づいてしまう。
二週間、これを毎晩やっている。
ドラムセットに触れたのは、あの日の入部審査で一度だけだ。週に四十五分という部室の割当は、まだ和樹たちには回ってきていない。丸山先輩と麻耶先輩に基礎を教わり、家では茶箱を叩けと言われている。
叩いている。
だが、これは太鼓ではない。
「和樹ー、うるさいー」
妹の声が壁の向こうから飛んできた。
和樹は掌を止めた。振り子だけが、カチ、カチ、と鳴り続けている。
* * *
次の週の火曜、和樹は忘れ物を取りに学校へ戻った。
六時を回っていた。日はまだ長い。校舎の中は、部活の音があちこちから漏れている。吹奏楽部の音出し。体育館のボールの音。廊下の蛍光灯は半分しか点いていない。
二階の教室で数学のノートを回収し、階段を降りようとしたところで、和樹は足を止めた。
上から、音が降りてきた。
ピアノだ。
三階には音楽室がある。誰かが弾いているのだろう。和樹はピアノに興味がない。妹が習っているのを横で聞かされているくらいで、それも発表会のたびに同じような曲が並ぶだけだ。
通り過ぎようとした。
その瞬間、音が変わった。
和樹の足が、階段の途中で止まった。
――何だ、今の。
高いところから低い方へ、音が転げ落ちていく。速い。しかも、途切れない。
和樹はドラムを叩く人間だ。ピアノの良し悪しは分からない。だが、リズムのことなら分かる。あの左手は、一度も休んでいない。
人間の手には限界がある。速く動かせば動かすほど、どこかで必ず力を抜く場所が要る。呼吸と同じだ。それがない。最初から最後まで、同じ密度で走り続けている。
和樹は、上りかけていた足を戻した。
三階まで、階段を三段ずつ上がった。
* * *
音楽室の扉は閉まっていた。
小さな窓がある。和樹は身を屈めて、その下から中を覗こうとして、やめた。見つかったら、たぶん止まる。
扉に背を預け、床に座った。
廊下は冷たかった。
この距離だと、音の粒が違って聞こえた。ペダルを踏み込む鈍い音。鍵盤が底に当たる、木のような音。それから、時々混じる息の音。
右手が、短く叫ぶように和音を打ち込んでいる。
和樹は、自分が拳を握っていることに気づいた。
――これ、怒ってる。
根拠はなかった。ただ、家で毎晩茶箱を叩いている自分の中にあるものと、同じ種類のものが、この音の中で暴れている。
振り子に合わせて、ずれた音を出し続ける。うるさいと言われる。ドラムには触れない。四十五分は回ってこない。ギターの奴らはもう楽器を買ってもらっていて、自分だけがまだ親を説得できていない。
その全部を、誰かが代わりに叩きつけていた。
中ほどで、一度だけ、音が細くなった。
嵐が遠のいたように、高いところで数小節だけ、歌うような旋律が流れる。
和樹は目を閉じた。
怒っている人間が、疲れて一瞬だけ手を緩める。そういう音に聞こえた。
そして、また戻ってきた。さっきより速く、さっきより激しく。
最後は駆け下りて、叩きつけるように終わった。
* * *
静寂が来た。
和樹は、動けなかった。
中で、椅子を引く音がする。
立ち上がる時間はなかった。扉が開いた。
和樹は見上げた。
学生鞄を提げた二条アキラが、そこに立っていた。
「……あっ」
声が漏れた。
二条先輩は、廊下に座り込んでいる和樹を見た。
驚いた顔をしなかった。怒った顔もしなかった。ただ、そこに人がいたという事実を確認しただけの目だった。
和樹は慌てて立ち上がろうとして、ノートを落とした。
「すみません、あの、俺、忘れ物取りに来て、それで」
二条先輩は、落ちたノートを見た。
それから、和樹を見た。
「茶箱は」
和樹は、一瞬、何を訊かれたのか分からなかった。
「え」
「叩いていますか」
「……叩いてます。毎日」
「そうですか」
それだけだった。
二条先輩は鞄を持ち直し、和樹の横を通り過ぎて、階段の方へ歩いていった。
「あの、先輩」
和樹は、背中に向かって声を出した。
「今の、なんて曲ですか」
足音が、止まった。
二条先輩は振り返らなかった。廊下の途中で、背中を向けたまま立っている。
しばらく、何も言わなかった。
「……知らない曲です」
そう答えて、階段を降りていった。
* * *
和樹は、開いたままの扉から音楽室を覗いた。
アップライトの蓋が上がっている。椅子が少し斜めにずれている。
譜面台には、何も載っていなかった。
――譜面、なかったのか。
あの音数を、あの速さで、何も見ずに弾いていたということになる。
和樹はドラム志望だ。楽譜はまだろくに読めない。それでも、それがどういうことかは分かる。
鍵盤の上に手をかざしてみた。
わずかに温かかった。
* * *
その夜、和樹はまた茶箱を股に挟んだ。
メトロノームを六十に合わせる。カチ、カチ。
二拍目と四拍目。
ドンッ、パシッ。
やはり、少し遅い。
和樹は掌を止めて、天井を見た。
あの人は、あの箱を作った人だ。博士先輩の実家から茶箱を持ってきて、裏に弦を張って、これを打楽器にした。そして今日、和樹たちの前でそれを叩いてみせた。
あの時は、嫌がらせだと思った。ドラムを触らせてもらえない代わりに、木の箱で我慢しろと言われているのだと。
違ったのかもしれない。
あの人は、部室の四十五分の外側にいる。鍵を管理して、割当を決めて、自分は現場から手を引いた。丸山先輩たちに基礎指導を丸投げして、より高い場所から全体を見ている。
その人が、誰もいない音楽室で、譜面もなしに、あんなものを弾いていた。
――あの人にも、あるんだ。
鳴らす場所が要る。
和樹は、もう一度メトロノームを見た。
振り子が右端に達する。
その瞬間に、掌を落とす。
ドンッ。
合った。
一回だけだった。次はまたずれた。その次も。
構わなかった。
和樹は叩き続けた。妹がまた壁を叩いてきたが、今夜は止めなかった。
* * *
翌週、和樹は父を説得した。
高校三年間、部活を続けること。成績は今の順位を維持すること。中古で構わないこと。そのかわり、スネアとスタンドだけは自分の物が欲しいこと。
父は渋い顔をしたが、最後には頷いた。
その報告を部室でしたとき、丸山先輩は「よくやった」と肩を叩いてくれた。麻耶先輩は自分のことのように喜んでくれた。
長机の端で、二条先輩が手帳から顔を上げた。
和樹の方を見て、それから、また手帳に視線を落とした。
何も言われなかった。
だが和樹には、それで十分だった。
――あの曲の名前は、まだ知らない。
訊いても、たぶん教えてくれない。
いつか、自分の音で、あの人に何かを言わせてやろうと思った。




