《八》宮城にて 後
「母には顔を見せているのか。」
ここで父は意外なことを言い出した。瑜を通常より早く後宮から出し、叔父に預けた後、独立させたのは父である。
「…いえ。」
瑜には母が二人いる。生母は既に亡くなっており、以降は同族出身である皇后に育てられた。
だが後宮を出てから、私的には数えるほどしか会っていない。
「まあ気が向いたら、たまには訪ねてやってくれ。弟たちの武芸の師を探しているようでな、相談に乗ってやるといい。」
「…はい。」
自分から母を遠ざけたのは父なのにおかしな事を言うと思った。
帝は眉間に憂いを刻み、小さくため息を漏らす。
「お前に頼みたいことがある。…近頃、東宮の方が何やら不穏な様子。」
「とおっしゃいますと。」
「東宮付きの者から彼が聞いたところによるとな。」
言って帝は傍らに侍る老爺か老婆かよくわからない者――老宦官を示す。
瑜が子供の頃から父に仕える忠義の者だ。
去勢の影響で骨が弱っており、足腰の悪い彼は座って主に侍ることを特別に許されていた。
「東宮はどうやら体調が悪いらしい。しばらく朝賀や朝議でも見ない。東の少陽院の政務にも出てこず、寝所に引きこもりがちだそうだ。」
兄の病弱は今に始まったことではないが、政務のことごとくに出てこずとは。
既に別口から、東宮が政務に出てこない、とは耳に入っていたがそこまでの詳細は知らなかった。
瑜やすぐ下の弟は国子監在監中のため学業優先で朝議にはあまり出席できていないが、長兄は聴政の為、父から朝議に出るよう申し渡されている。確かに瑜が国子監が休みの間出席した朝議に兄は来ていなかった。
冬至と元旦の朝賀の際も、確かに含元殿のどこにも長兄の姿はなかった。夜の宴にも、だ。
これまでにも体調悪化で長期に欠席していることがあったから瑜はさほど気に留めておらず、見舞いに使いをやったきりだった。
「俄なご病気でしょうか?」
「いや…朝昼間から人払いして妃を召しているようでな。」
父は濁しかけたがはっきり言った。
「…は。」
兄弟のそのような話、ましてや父から聞くとはとてもいたたまれない気分になる。
要するに長兄は、明るい時間から政務もせずに妃と閨事に耽っている、と思われたとしても構わない、と思っているということか。
――いや。もしくは何も考えられなくなっている。その行動にどんな影響があるか判断できなくなっているのだ。
兄はそのような怠惰でも色呆けでもぼんくらでもなかったというのに。妃にそこまで絡め取られるとは。
それにしてもどの妃だろうか。
帝の表情はさらに曇っている。次兄もあの戦場での負傷から病を得て、長らく伏せっている。
皇子たちのうち上二人がそういう状況のため、皇帝として父として落ち着かぬ思いではあるのだろう。
「皇后からも別の話を聞いた。」
「それは…。」
「東宮妃とは定期的に茶会などしているが、頻繁に怪我をしているようだ、と言う。また随分と痩せ、眠れていないらしく、会うたび悪化している様だと。」
もちろん東宮妃は、その事を隠している。それでも分かるほど、ということだ。
「東宮だけでなく東宮妃もですか。心配ですね。」
なぜ父はこの様な話を自分にするのだろうか。
長兄は東宮に封じられているが、皇位を狙うものによって廃位されることなど過去に何度もあったことだ。
瑜は怪訝に思う。
皇帝は瑜の様子を感じ取ったのか珍しくなだめるように笑った。
「そう警戒しなくていい。お前たちの力を借りたいだけだ。…今、東宮の件については詳細を説明させる。」
帝は老宦官に目配せをした。彼はまたぎこちない拱手の後、語りはじめる。
「ちょうどご成婚の後からでしょうか…太子殿下は体調を崩されることが増えていました。」
確かに、その頃からときおり兄は寝込んでいた。
子供の頃はそれほどではなかったはずだ。
「侍医に診察させても原因は分からず、体質からくるものということでした。」
瑜は相槌の為に頷き、先を促す。
「私が直接聞き取りしましたところ、顕著な異変を側仕えの者らが感じ始めたのは一年ほど前の事にございます。…まず、些細なことでお怒りになることが増えました。何か不安に思っておいでの事がお有りなのか落ち着かれないご様子でしたが、それでも単に気分の問題かと思われていたのでございます。陛下には都度、お耳に入れてはございました。」
老宦官は言葉を選びながら話を進めていく。
部屋の中は妙にしんとしている。
「それが、近ごろはぼんやり幸せそうな表情を浮かべていらっしゃることも。この時の表情が特に尋常ではなく、恐ろしく感じられる、というのが耳に入れてくれた者の感想でございました。これは本当に病んでおられる、ということで私のところまで上がってきた話にございます。」
幸せそうな顔が恐ろしいとはどういう事か。薄気味悪さを感じる。
「また、殿下がお通いになるのは、以前からご寵愛の己良媛《第二側妃》が一番多く、次いで東宮妃だったわけですが、現在良娣《第一側妃》の賀氏に偏りつつあります。己良媛や東宮妃にもお通いになりますが、賀良娣を朝から夜まで寝所にお召しになるのです。…さらに、近頃、東宮妃に対し酷く…苛立っていらっしゃるご様子。」
老宦官はここまで一気に話して疲れたようで、むせたようだった。
養子が背を擦っている。
では、長兄を絡め取り堕落させているのは賀良娣、ということだ。
そして皇太子妃の怪我はおそらく長兄のせいだ。
「ゆっくりでよいぞ。水でも飲め。」
皇帝のその言葉に養子は甲斐甲斐しく水を持ってきて飲ませている。ほぼ介護だが、老宦官は父に忠実かつ思考することについては問題がない。
「…陛下のご厚情に感謝いたします。…いえ、あれほど子煩悩でいらしたのに、最近では御子さま方に対しても苛立ちを抑えることがお出来にならないとか。」
思っていたよりも事態は深刻だ。聡明だった東宮は一体どうしてしまったのだろうか。
瑾は帝と二人、しばし言葉を失ったまま向き合っていた。
妙に喉の渇きを覚え、酒杯の中身を干す。
そう強くない酒なのに、余計に喉に焼け付く感じがした。
「…それから、朕の妃の一人が懐妊したが、一月ほど前から体調を崩している。」
帝は、声をひそめたまま続ける。
「懐妊が周りに知られるようになった頃、呪詛の札が温美人の宮から見つかってな。呪詛が先か体調を崩したのが先かわからぬが。」
よくあることではある。
「…温美人ですか。心根の優しい女性ですから誰かに呪われていると知り大きな衝撃を受けたのでは。」
後宮は皇帝の子を産み育てる場所。
だが、寵愛の有無、子の有無が妃嬪たちの存在意義を左右すると言っていいだろう。
閉ざされた空間、主たる皇帝から何らかの沙汰があるのをひたすら待つ中で性格を歪めていくものも少なくない。
何も得られなかった者、何かを得たい者が、妬み、恨み、呪い、殺意をぶつけ合う所でもある。
「…懐妊すると色々不測の事態に陥ることはある。温美人は多少出産するのに年齢が高いが、健康でこれまで何の問題もなかった。この件も調べてもらいたい。」
「かしこまりました。…ですが、何故私にお話に?」
「様子を探ってほしいが、家族間の事ゆえ近しいもののほうが良い。まだ他のものに知られてはいけない。」
ふと皮肉な笑みを漏らしそうになる。
なるほど、だから後宮に母を訪えと言うのだ。
「皇后さまにもですね。」
「そうだな…。東宮の件も温美人の件もまだ調査のことは伝えるな。」
生母の薨去以来、父は内心、母に対してわだかまりがあるようだ、と瑜は感じ取っていた。
「私などに任せて宜しいのですか。」
「つまらぬ事を言うな。お前に更々余計な気がないことは分かっている。…悪い癖だ。」
「申し訳ございません。」
父の不興を買うのは本意ではないので素直に詫びる。
「寧王にも言ってあるが協力して調べて欲しい。解決できるとよいのだが。」
なるほどそれで武芸の師を探していると。
「我々が下手に絡んで陥れられたら父上に助けていただかないと困ります。」
渋面でそう言うと父は笑った。
「勿論、後宮の要の者には別に話してある。入り込むものの邪魔をするなと。」
「私には男しか手駒がありませんので後宮の調査には不向きです。そのためだけに去勢させるわけには参りませんので…。己衍は後宮に近づけたくありませんし…困りましたね。」
「場合によっては彼の養子を使え。」
帝は老宦官と入口にいる若い宦官を指し示す。
老宦官は曲がった背を屈めて座ったままぎこちなく礼をとる。
宦官とは、男性の象徴そのものを取り去っている者である。
これを浄身といい、人ではないものに生まれ変わるのだ。
彼ら宦官は皇帝の血筋を正しく継いでいく為に、後宮がある限り必要とされてきた。
老宦官は若いうちに浄身したために子は無く、宦官の中から優秀で忠義に篤い者を養子としていた。
「承知いたしました。」
「…玉座にあると、人の本質が見えにくくなることがある。」
「父上は十分に慧眼でいらっしゃいます。」
「ふん。そう見えない主では誰も従わぬ。何でも見えるわけではない。」
そう見せているだけだ、と皇帝は鼻で笑う。
「瑜よ。お前も気をつけろ。宮殿にいるだけでは目に入らぬもの、耳に入らぬもの、気づけないものにこそ価値がある。つかむ情報が多いほど判断を正しくできる。」
「父上…?」
「幅広く意見を聞け。他者の意見を聞かせようとしない者は遠ざけろ。」
皇帝は瑜の視線を離さず、諭すように言った。まるで遺言のようだ。
瑜は首を振る。
「肝に銘じますが、国事は兄上方がしっかり関わっていかれるでしょう。私は取るに足らない四男ですよ。もちろん全力で東宮をお支えしていくつもりですが。」
「…何が起こるかわからんのが人生よ。」
倦んだようにため息交じりで皇帝は呟くが、瑜は内心穏やかではない。
兄たちがいるのにそんなことは口にしてはいけない。
「何ということをおっしゃいます。父上の御代、そして皇統を継がれる兄上の御代が、これからも平穏であることを私は望んでいます。」
父帝はまじまじと瑜を見つめた。
「瑾よ。…お前は母に本当によく似ておるな。」
「母、ですか?」
母とはどちらのことか。
生母である姒賢妃――諱して静懿妃。そして嫡母であり育ての母である皇后。
皇后に遠慮し、瑜は生母の事を静懿妃と諡号※で呼ぶ。
「…。映雪にな。」
では生母のことである。父は普段、后妃たちのことを名や字で呼ばない。だから瑜はそのことに少し驚きがあった。
「そうですか?靜懿妃が薨去※されたのは私が八つの時でした。物静かで優しい方だったと。」
だから、似ているとはどのような意味か取りかねた。確かに顔は似ているのかもしれないが。
皇帝は頷き、酒杯を傾ける。
「成長したお前の姿を見せてやりたかったものだ。」
瑜はこのような感傷的な父の姿をみたことはなく、なぜだか胸騒ぎがした。
「――もうすぐ命日ですね。」
「ああ、そうだな。また弟妹たちと蘭若殿に訪れてやってくれ。」
それは、嫡母、皇后の宮殿を訪れろという言葉と全く同じで全く違う感情を帯びている、と瑜は感じた。
※諡号
貴人に死後、功績や人柄をたたえて贈るなまえ。おくりな。
※薨去
(薨)…
(諸侯や高官が)死ぬ,薨ずる.
~逝shì/薨去する.
『中日辞典第三版』




