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砂海の遺珠  作者: 秦 奈良鹿


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6/10

《五》はじまりの冬

 (フェイ)がその人物を見かけたのは、あと一月もせず新年という時だった。国子監(こくしかん)入監考試(しけん)の合格発表と手続きを終え、脇道に待たせてあった馬車に向かう途中。

 正門の『國子監』の扁額(へんがく)を満足した気分で見ていた時だった。


慧児(フェイアール)、早くな。」


 次兄に急かされ振り返って(すそ)(さば)き直そうとしていると、人混みを縫うように歩いてくる青年に気づいた。


「あれ…。」


 よく手入れされた(つや)のある黒髪に、通った鼻梁(びりょう)、切れ長の暗い琥珀色の瞳。最近知り合った人物によく似ている。

 だとしても向こうは慧のことなど分からないだろう。あくまで仕事上の薄い付き合いで詮索(せんさく)しないのがお互いの為。相手がどんな人間か詳しくは知らない。慧の知るその者とは雰囲気が違っていた。


 背が高い上に姿勢が恐ろしく良く、あたりを払うような空気を纏っている。使い込んだ分厚い書籍の束を抱え、衣服は高級なものではあるのだろうが、品よくこざっぱりとしている。


 貴族の子弟がほとんどの監内で、侍衛(じえい)らしき青年が付き従っているのであれば、相当に身分が高いのだ。


「兄上、従者をつれた方を見ましたか?」


 彼は前から歩いてきてすぐ、宿舎への路地へ曲がってしまった。ただ一瞬だけ端正な横顔が見えた。

 さあ、と面倒くさそうに路地を見やる次兄。


「皇族か名族か…少なくとも侯爵家以上の家格のお方だろう。」


 慧の家は名族に連なる貴族と言っても名ばかりで家格が低く、そのような上つ方と接する機会はほとんどない。


「それは分かりますけども。」


 慧は一度だけ、皇族に間近に接したことがあった。

 遠い記憶によぎるのは、鮮烈な赤。

 そこここに、毒々しい赤い花を散らしたような。血を流す若い男と、よく似た少年。夕暮れ時、夕照にたなびく旗。


「慧児?」


 兄の声で白昼夢からはっと我に返る。


「名族はともかく、皇族だとしたら聴講においでなのでしょうか。」

「いや…。」


 知り合いに似た青年に少し興味があって、聞いてみた。

 兄は、正規の監生だろう、と首を振る。


 国子監は官立の最高学府である。国子学(こくしがく)太学(たいがく)、四門学、律学、書学、算学に加えて後代になって加えられた武学、医学の二学、の八学と二|学館からなる。

 だが、かつての直系皇族は、国子監ではなく、特別に選出された侍読たちから宮内で教育を受ける者が殆どだった。


 だから、皇族が国子監八学で学ぶということがピンとこない。国子監は皇城の南、務本坊の西面にあり、全寮制である。警備など安全上の問題は大きい。これが最大の理由で国子監で学ぶ皇族は、少なかった。

 また当初、皇族は定員に関係なく、入監の為の考試(しけん)を受けずともよかった。聴講の形でしか講義に参加できず成績もつかず、もちろん科挙に進む資格も得ることもない。必要がないからだ。


「聴講という形でおいでになる方は色々問題がお有りだったから。今上の御代(みよ)になってからは一掃されたらしい。」


 次兄は声を潜めてそう言った。


 皇帝がまだ皇太子だった頃、先帝に制度の改正を請願したらしい。

 閉鎖された宮内ではなく開かれた場所で、能力の高い者達と若い頃から切磋琢磨して広く交流し意見を交わすべきだ、それこそが国力を底上げするはずだと。

 当然、自身の息子たちの、教育を見据えてでもあっただろう。


 学問の面だけでいえばむしろ翰林院や学館などの揃う宮内に軍配が上がるが、皇帝は外との接点を重視したのでは、と慧は思う。

 徒党を組んで謀反につながる恐れもあるにはあるが。

 建国当時と比べれば徐々に後宮の規模を縮小しており、そのため御子の数も少ない。後継者候補が不出来では困る上、皇位から遠い者も遊ばせておくわけにもいかないのではないか。


「以前の悪い例もあげ、入監を希望するなら、皇族も他の者と同じく選考を経るべし、と朝議でご進言なさったそうだ。」

「完全に匿名での受験になりますし、皆さま自信がお有りでないとできないことですねぇ。」


 なかなか辛い立場ではある。

 考試受験生の席は毎日くじ引きだ。誰か分からないよう、厳しく匿名性をもたせての選考になるため、忖度(そんたく)はほぼ存在しない。

 賄賂や買収が介在できない仕組みになっている。


「今上帝の御子(みこ)さま方はじめご兄弟の子息にも優秀な方が多いのは周知の事実だが国子監の官吏たちは落ち着かなかっただろうね。まあ蓋を開けてみたら、皆さまあっさり入監考試に合格されたそうで、めでたしめでたしだったわけだ。…監内ではご身分は伏されているが、漏れ聞こえる所によると老師(せんせい)方との問答や成績もなかなかのものだそうだよ。」


 揃いも揃ってそんなに優秀なのか。


「ふーん。」

「もし科挙が受けられたら揃って及第(きゅうだい)※できるだろうと言われているんだそうだ。」

「へえ。それは確かに優秀ですね。」


 なかなか胸の熱くなる話だが、若干尾ひれもあるかもしれない、と思っておく。


「ところがだ。」


 次兄はさらに声を潜めて続ける。


「四の君の(せい)王殿下なんかは、文武両道の誉れ高くも、全くご自身の評判に頓着(とんちゃく)なさらない。幼い頃は可愛い可愛いと大層後宮で人気があったそうだが、宦官(かんがん)粛清に関わったとかで死の君ともあだ名され恐れられている。」


 四は死に通ずる。

 なるほどなあだ名ではある。


「五の君、(けい)王殿下も文武両道、眉目秀麗、洗練された振る舞いで官民通じて人気だが、その実、女癖が究極に悪く、まだ加冠する前の後宮にいらっしゃる頃から、女官や宮女に手を付けてはまた新たな者に手を付けて、などという噂もあった。」


 慧の顔が一言ごとに崩れていくのに、そうだろうそうだろうと次兄はいちいち頷きながら続ける。


「ああ、そういえばもう卒業されたが、三の君は妓楼を渡り歩いてて、まだご正室もいないのに外妾を囲ってるそうだぞ。」


 慧はどっかで聞いた話だな、と思う。

 なるほど、優秀は優秀だが性格に難がある者揃いというわけか。


「お三人とも素行はあまりよろしくないというのが目下の世評なのだよ。お前、お会いすることがあってもあまり近づくなよ。」


 それが一番言いたかったらしい。

 知らなかったのか?と呆れた表情の次兄の言には抗議する。


「兄上、昨年私は仕事の上に勉強三昧、他のことを気にする余裕はありませんでしたよ。」

「そうだったな。まあ、お前の件も我が家ではそれなりの騒ぎだったよ」


 年の離れた次兄はくくく、とおかしそうに笑う。


「突然、国子監に進みたいと言うもんだから推薦状の依頼とか大変だったんだが。言い出したら聞かないしな。」

「急ではないですよ。ずっとそのためにやってきたんですから。準備を整えるのに時間がかかっただけです。」


 年齢だけで言えば、十四歳から入監資格があるのだから。


「なかなか一つ所に収まらないものよ。」

「収まりたくない場所であれば、ほかの場所を目指すのは当たり前です。」


 兄はぽん、と慧の頭を叩いた。


「それが出来ない者は多い、ということは覚えておくんだな。特に女達は。」


 この兄は一番長く一緒にいたから、慧の性格をよくわかっている。


「…そういえば確かフォン家の思遠スーユエンさまが靖王殿下の侍衛におなりだとか。」


 慧は話題を変える。

 風家の催しでごくたまに顔を合わせる、同い年の再従兄(またいとこ)を思い出す。

 母親が従姉妹同士なのだが、うんと幼い頃は、血縁が遠い割に思遠とよく似ていたと自分でも思う。

 身分というものが理解できないほどの小さい時は、一緒に遊んだりしたこともあるが。

 今ではこの思遠が慧は少々苦手だ。


「思遠さまは、殿下と同時に国子監に進まれただろ。」

「そうですね。」

「もともと皇子どなたかの侍衛に、と言うのは既定路線だったはずだ。今後出世していくためにも。加冠(成人)前から靖王殿下のお側に学友として召されていたしな。」

「名族に生まれるのも大変ですね。」


 子供ながら、貴人と四六時中一緒だなんてとんでもなく疲れそうだ。

 加えて第四皇子の靖王は評価が分かれる人物。

 次兄に聞くまでもない。慧は独自に情報網を持っている。

 ある人物は、計略を好み冷酷苛烈といい、また別の人物は思慮深く聡明という。

 情に厚く温厚だが毒にも薬にもならない、という者もいれば、周到に目的を達成する抜け目のない人間、主上でさえ暴れ馬のように御しがたい、という者もいて人物像が一貫していない。

 どちらにせよ慧などには関係ない雲の上の話である。

 途中で興味を失った慧に次兄は肩をすくめる。


「…今後お二人をはじめ皇族、名族方をお見かけすることもあるだろうが、失礼のないようにな。」

「心得ておりますが。」


 兄はそうか?と疑いの目を向ける。


「去年だか一昨年だかも、大立ち回りをやらかしただろ?お咎めなかったから良かったものの。もうやるなよ。」

「…。基本は上意に従ってますよ。」


 そう言われても、慧はその行動が最善だったと思っている。

 次兄に悪気があるわけではないのは分かっているが、想像力に欠けるらしい。

 彼の立場では一回死んで生まれ変わらないとわからないだろうから、黙っておいてあげよう。


「お前は目立たず、問題を起こさず敵を作らずつつがなく学業に専念してくれ。」

「はい。」


 待たせてある馬車の御者に合図する。

 慧が素直に返事したので次兄は表情を緩めたが、何か思案するように呑み込んだ。

 それこそが一番言いたいことなのだろう。


(どれだけ問題起こすと思ってるんだか。)


「まあ、お二人は学館でなければ国子学の方でしょうから務本坊でお会いすることもないのでは。」

「…そうかもな。さ、早く帰るぞ。(フォン)家にご挨拶にいかなくてはならないから。」


 風家は名族の一、慧の一族、(シュエ)家の主家にあたる。

 その縁戚の地方官に、慧の入監について推薦状を書いて貰ったので、その礼ということだ。ちょうど今、所用で都に出てきて風家に逗留(とうりゅう)しているらしい。


「阿…ああ、いや、慧兒。」


兄は呼び間違いかけて咳払いする。


「ところで、何だそのむさい髪は。前、見えるのか?」

「変装です。」


※科挙に及第

科挙に合格して官吏になる資格を得ること。

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