《六》戦の記憶、そして湯殿
慧を侍衛にする、と言い渡された時。
瀚黎戦の英王狙撃について、靖王、衍、思遠そして慧とで話をした。
「計都。瀚黎戦の銃撃事件について、まだ詳細を覚えているか。あの銃撃で二の兄が俺を庇って銃創を負い、後に兄の外戚の謀として追及される原因になった。」
「はい。武徳司から密かに援軍として派遣され騎兵として従軍しておりました。崖から駆け下りて挟撃を仕掛ける最中のことでした。」
「―――あの時は兄が世話になった。改めて礼を言う。」
靖王は軽く頭を下げた。
皇族に頭を下げられるなんて悪い冗談としか思えない。
「私などに頭をお下げになるなど。…もったいないお言葉でございます。」
慧は慌てて制止し、靖王の前に跪く。
「お止めください。当然のことをしたまでです。」
二の君の命が助かって本当によかった。ただ。
「英王殿下のその後のご境遇を思うと複雑です。隻腕となられ床に伏せがちとお聞きしました。もう少し早くなにか出来なかったかと思うと。」
「援軍は瀚黎本隊の伏兵に何度も妨害を受けていたし、お前は医者ではないのだから仕方がなかった。…あの状況は色々と不可解な点が多かったと思わないか。」
「…あの事件は近くにいた者なら、多くは変だと気づいたのではないでしょうか。少なくとも火器兵や騎兵は。」
靖王はゆっくり頷いた。
「我々武徳司も調査に協力し、かなりの所見を調書に添えたはずです。」
思遠は慧をじっと見ている。
余計なことを言わないか心配なのだろう。
「なのに、兄の外戚を咎める方向性は変わらなかったと。」
「結果を見れば現場にいた巡検の所見が何も反映されなかったのは明らかでした。」
慧は目を伏せて口にする。
責めるつもりで言っているのではない。
「なにか大きな力によって無視されたということだ。」
「…。」
それに同意することはできないから、沈黙を返事とした。
「俺は兄上のために真実が知りたい。」
「同感です。」
慧は榛色の瞳を光らせ頷いた。
耳環の玉がかすかな音を立てた。
ーーーーー
霊泉宮、靖王たちに割り当てられた湯殿。
「殿下ぁ。お湯加減はいかがですかぁ。」
思遠は桶で靖王の肩に湯をかけながら、侍女の鼻にかかった声真似をする。
衍は盛大に顔をしかめる。
「おい思遠、ふざけるな。変な声を出すな。くねくねした動きも不気味だぞ。誰の真似なんだ。」
「ええー。ていうか男ばかりむさ苦しいじゃないですか。」
そう言って思遠は湯船の中を泳ぎ出した。
衣を着ているときには細身に見えるのに反し、湯着が張り付いているその身体は驚くほど鍛えられ、百戦錬磨の猛者が驚くような古傷もあるのが分かる。
武勇で鳴らす風家の跡取りというのは嘘ではない。
「むさいのはお互いさまだと思うが。子どもか。静かに入れ。」
衍は呆れてぼやいている。
靖王も口を挟む。
「温泉なんだから仕方ないだろ。それに余計な気を遣いたくない。」
部外者がいれば、靖王は皇子として振る舞わねばならなくなる。
「計…いや慧児と韶音は楽しそうでしたね。」
衍はくくくと笑う。
「主に韶音がな。」
「どうしたらいいんだろうって、慧児の顔ご覧になりました?完全に韶音に呑まれてますよ。」
靖王はああ、と応えた。
「韶音が一方的に距離を詰めるからな。まあ人たらしな奴だから、計都…慧児も警戒のしようがないんだろ。」
「それにしても、つい呼び間違ってしまいますね。」
衍が笑って言い、思遠は悪巧みを思いついたような表情を浮かべた。
「そういえば、あいつ、家でなんて呼ばれてるかご存知ですか?」
「まだ他にも呼び名が?」
靖王は呆れた。
自分が今何者か分からなくならないのだろうか。
慧が夜珠だとわかったのはそれが原因だが、あれだけ呼び名を持っていればそれも当然かもしれない、と思った。
別の主ならそれを間諜として致命的な失敗と見るのだろうが、靖王にとっては大した問題ではない。
慧は嘘がうまくつけない性格で間諜に向いていない、それは承知の上だ。
「なんて呼ばれてるんだ?」
つい興味がそそられてしまった。
「『阿拙』です。慧の父上の"戒めに"、という願いを受けて、うちの父がつけたと。」
靖王はつい、声を上げて笑ってしまった。
「ある意味、洒落てるな。」
意味は、"不器用ちゃん"である。
名の『慧』は未来を見通すほどの賢さを表し、僧の名によく使われるが、あまり俗人の名につけることはない字だ。女が賢すぎれば、今のこの世を渡っていくのにかえって生きづらいかもしれないが、字で均衡を取っているらしい。
賢さをひけらかすなという戒めと、器用に何でもこなすが不得意なものにはとことん不器用、というところをよく表している。
衍は堪えきれず吹き出したあと、肩を震わせて笑いが止まらなくなっている。
めったに顔色を変えない最側近の彼が、近ごろ慧のことではよく笑っていることに靖王は気がついた。
「衍は慧児のことが気に入ってるのか?」
靖王は思遠にこっそりと聞いてみたのだが、爆笑された。
「そういうことじゃないんですよねぇ。殿下。」
「慧のことでよく笑い転げてるぞ、衍は。めったに笑わないのに。」
「単純に、子容のツボなんでしょ。」
正反対の性格の側近二人はなぜかそこで意気投合したようで何がおかしいのかまた笑い転げている。
結局よく分からなかったが、彼らが背負うものも多い中ひととき楽しいなら、まあ目くじら立てることもない。
靖王は鼻下まで湯に浸かると、岩にもたれた。
城下では、このような時間はそうそう過ごせない。
くだらないかもしれない話で盛り上がれるのはよいことだ。




