思い出せる!
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夕暮れの街を駆け抜け、ついに梨夏ちゃんを見つけたとき、もう残り時間はとっくに一時間を切っていた。
血まみれで、それ以上に汗まみれのひでえ格好で、俺は二人の前に立った。
公園のベンチ。
そこで梨夏ちゃんは、ヒロキに膝枕をしていた。
優しい表情で、何かヒロキと話している。ヒロキも穏やかな表情で、腕を上げて彼女の髪を撫でていた。
すごく幸せそうなカップル。そうとしか見えなかった。
俺たちがいつも仕事で邪魔をして、出会いのきっかけを作ったり互いの感情を確認させたりしている、あのたくさんのカップルと変わらない二人に。
さまになってる。
絵になってる。
これが二人の本当の物語だったなら、どんなに良かっただろう。
このままこの物語が、二人のためだけに進展していってくれるなら。
だったら俺も、喜んで身を引いただろうに。
この期に及んでまだそんなことを考えちまう俺は、きっと根っからのモブなんだろう。
仕方ない。
身に付いた習性は、そう簡単には変えられない。
でも、今回だけは流れに身を任せるわけにはいかない。
俺は、モブの枠をはみ出さなきゃならない。
「梨夏ちゃん!」
俺は叫んだ。
「そいつから離れろ!」
顔を上げた梨夏ちゃんは、俺の姿を見て息を呑んだ。
それは俺のことが分かっているというよりも、いきなりとんでもねえ格好で現れた男に声を掛けられて驚いているだけという感じだった。
ヒロキの捻じ曲げた物語に支配されかけているんだ。
「また来たのか。しつこいクズだ」
そう言って、ヒロキがゆっくりと身体を起こした。
「ヒロキ、あの人怪我してるよ。救急車呼ばないと」
「大丈夫だ」
ヒロキは心配そうな梨夏ちゃんを優しく振り返った。
「あれは、そういうのじゃないから」
「え?」
ヒロキがこちらを見たとき、その目が光ったように感じた。
次の瞬間、俺は吹っ飛んで地面に倒れていた。
「うぐっ……」
いってえ。
自分のテリトリーだけあって、力がハンパねえ。さっきまでの比じゃねえぜ。
だけど、いずれにしたってここは物語の中だ。
ここでどんなに傷ついたって、現実で死ぬことはない。
痛みをこらえて立ち上がると、叫んだ。
「梨夏ちゃん! 目を覚ませ!」
ヒロキはベンチから立ち上がると、ゆっくりと俺に歩み寄ってくる。
余裕綽々の表情だ。
「物語に介入するな。悪いモブだな」
ヒロキの言葉を、俺は無視した。
「梨夏ちゃん、俺だよ! さつきだ!」
俺は声を振り絞って叫んだ。
「君が名付けてくれたんだ! 皐月駅で出会ったからさつきって! 初めて会ったときに、君は水無月駅と間違えて皐月駅に下りた。そこで俺と出会ったんだ!」
「何が出会っただ、モブの分際で」
ヒロキは笑った。
「身の程を知れ」
「……さつき、さん」
梨夏ちゃんがぽつりと呟く。
「えっと……なんだろう。思い出せない」
「思い出せる!」
俺は叫んだ。
「いるか屋! ショッピングモールの骨折! 退院祝いのイタリアン! 初詣!」
「……何を言ってるんだ」
ヒロキが不快そうに顔を歪めた。
「それは、何の話だ」
「梨夏ちゃん!」
こいつは知らない。
俺と梨夏ちゃんだけが作ってきた思い出。
それは、こいつに歪められたものじゃないはずだ。
「今度こそ、次の日のことなんか気にしないで一緒に飲もう! いるかさんサワーを!」
「はあ?」
ついに俺の前に立ったヒロキが、胸ぐらを掴んできた。
「訳の分からないことばかり、いいかげんに――」
「さつきさん?」
ヒロキの背後で、梨夏ちゃんがベンチから腰を浮かしていた。
「いるかさんサワー、飲みました」
梨夏ちゃんは言った。
「飲まない方がいいって言われたのに、私、気になっちゃって、あの店に一人で行って、いるかさんサワー飲んでみたんです。頭が、がつーんって殴られたみたいにすごい味でした。それを思い出しました」
独り言みたいにそう言って、梨夏ちゃんは立ち上がった。
「ああ、そうだ。どうして忘れてたんだろう。あの味で思い出しました。さつきさん。私、何でこんなところに」
ありがとう、いるかさんサワー!
ありがとう、いるか屋の店長!
「梨夏」
ヒロキが梨夏ちゃんを振り返った。
「お前、何言ってるんだ。こんなやつ、知らないだろ」
「……あなたは、ヒロキ。それは知ってる」
梨夏ちゃんは言った。
「でも、それ以上は知らない。あなた、誰なの? どうして私の頭の中に入ってくるの?」
「ははは」
ヒロキが笑った。ひび割れたような声だった。
「どうしてこんなしょうもないやつのことを思い出して、俺のことを忘れるんだよ」
その声が歪む。
「なあ、梨夏ぁ!!」
今だ!
俺はヒロキの背後から組みついた。
「逃げろ、梨夏ちゃん! こいつからできるだけ離れた所へ!」
今、この物語を作り出してるのはこいつだ。こいつから離れれば、今の梨夏ちゃんなら物語を抜けることができるかもしれない。
だが、ヒロキは今度はそれを許さなかった。
「ふざけるなああぁぁ!!」
ヒロキの全身から衝撃波のようなものが発されて、俺はなすすべなく吹っ飛んだ。
「ぐぎっ!」
いてえ。けど、まだ大丈夫。身体が動く限りはいける。
それに、何発も食らって分かった。こいつの攻撃力は、それほどでもない。
現実世界でもこの力を振るえるのは確かにすげえけど、俺をばらばらにしたり消し炭にしたり、ユキシマが持ってたようなそこまでの力はない。だから、耐えられる。
俺が立ち上がると、ヒロキは痙攣したように笑った。
「モブが。モブだから、物語の中では怪我しても大丈夫ですってか? え?」
「梨夏ちゃん、走って!」
今のうちに。こいつは俺が引き付けておくから!
「調子に乗るなよ、モブが」
ヒロキが右腕を上げる。
俺の周りから、物語の世界がヒロキの足元に収納されていく。
あっという間に、俺だけが現実世界に追い出された。
目の前で、ヒロキが掲げた右手に光を凝縮させる。
「現実世界でこれを食らわせてやるよ」
それはまずい。
死ぬほどじゃないかもしれないが、身体が動かなくなるのはまずい。
梨夏ちゃんを助けられなくなる。
とはいえ、ここでこいつをかわせるほどの力があるんだったら、モブなんかやってないわけで。
「くらえっ!」
ヒロキの叫び。とにかく耐えろ! 俺は歯を食いしばった。
「だめっ!!」
突然俺の前に立ちはだかった、華奢な背中。
「梨夏ちゃん!」
大きく両腕を広げて俺を庇うように立つ梨夏ちゃん。
今にも光を放とうとしていたヒロキは、焦ったように光をあらぬ方へと飛ばした。
誰もいない植え込みで、光が爆発した。
「梨夏、何でそいつを庇うんだ!」
「さつきさんをこれ以上傷つけないで!」
梨夏ちゃんはヒロキにも全く怯まなかった。
「私の大事な人なんだから!」
え。
思わず俺も動きを止めてしまった。
だけど、ヒロキの動揺の方が激しかった。
「大事な人だと? よくも、よくも俺の前でそんなことを……!」
頭痛でもこらえるかのように、ヒロキは両手で自分の頭を抱えた。
「梨夏……俺を裏切ったんだな…!」
その整った顔に、ピシピシとひびが入っていく。
「うっ……!」
思わず息を呑んだ。
ヒロキの顔が、取り立てて特徴のないおっさんに変わっていた。
もう四十代だろうか。髪も、頭頂部が薄くなりかけていた。
引き締まっていたはずの身体も、心なしかたるんでいるように見える。
「それがお前の本当の姿か」
ヒーロー気取りのヒロキが、ヒーローの仮面を脱ぎ去った本当の姿。
「もういい」
ヒロキは言った。
声だけはそれまでの若い声のままだった。それが異様だった。
「俺に惹かれない女なんていらない。こっちが助けてやったってのに、恩知らずの女が」




