分かりました。飲みます。
前にした約束では、今日は梨夏ちゃんの選んでくれた店に行くことになっていた。
「ここです」
そう言って梨夏ちゃんが振り返る。
そこはちょっと洒落た感じのイタリアンだった。
「おお、うまそうじゃん」
と言いながらこっそり、店の前に出された立て看板に書かれているメニューの値段を確認する。
大丈夫だ、そこまで高くない。
さすがに酒は行きつけのいるか屋よりも高いが(っていうかこの界隈にあそこより安い店はそうそうないが)、それはまあ、馬鹿みたいに飲まなきゃいいだけの話だ。
普通に飯食うだけなら、なんとかなる。奢れるだけの金はある。
「大丈夫ですか、この店で」
梨夏ちゃんはちょっと心配そうに俺の右腕を見る。
「利き腕が使えないから、きっとお箸を使うお店よりもこういうところの方がいいだろうと思って」
「そんなこと気にしてくれたの」
「はい。本当はその辺のことをちゃんとさつきさんに確認したかったんですけど、電話が繋がらないから勝手に決めちゃいました」
「いや、嬉しいよ」
こんな可愛い子が、俺が食いやすいかどうかまで気にしてくれるなんて。
女性からこんな優しい気遣いを受けるのなんて、俺の人生で母ちゃん以来のことじゃなかろうか。
思わずほろりとしそうになる。
「俺ももう、ずっとこれだから」
すっかり固定され慣れた右腕を上げてみせる。
「まあ左手で箸使うのも、慣れてきたっちゃ慣れてきたんだけど。でもやっぱりちょっとイライラするからな」
「そうですよね」
「うん。その点、ピザなら手づかみで食えるからな。助かるぜ」
俺の言葉に、梨夏ちゃんはくすくすと笑う。
「さつきさんって全然気取らないから、ほっとします」
「え? そうかな」
何か変なこと言っただろうか。イタリアンって言ったらピザだし、ピザって言ったら手づかみだよね。
「じゃあ、入りますね」
「あ、うん」
「こんにちはー」
梨夏ちゃんが明るい声でそう言いながら、店内に入っていく。
俺はその後ろにしずしずとついていく。
「いらっしゃいませ」
「すみません、二名で予約の能勢です」
「はい、能勢様ですね。お待ちしておりました」
いるか屋と違って治安の良さそうな店員が笑顔で出迎えてくれた。
「どうぞ、こちらへ」
明らかに店の雰囲気とミスマッチしているヤカラな男性客に、女店員の笑顔が一瞬引きつった気がしたが、まあ気にしないことにする。そういう視線は仕事ですっかり慣れてるんでね。
俺たちは奥まったテーブル席に案内された。
暗めの照明。何かムードあるな。
ほんとにデートみたいじゃん。
柄にもなくそんなことを考えてドキドキしている俺に構わず、梨夏ちゃんは手前の席に腰を下ろす。
「奥の席の方が広いから、さつきさんそっちにどうぞ」
「おう、ありがとう」
中途半端な笑顔を浮かべて、俺は腰を下ろす。
「ええと、メニューは」
「あ、これです」
梨夏ちゃんが広げてくれた二つ折りのメニューを、ふたりで覗き込む。
ええと、飲み物は……ビール、ビール。……高いな。
「本日のおススメはあちらにも書いてありますので」
水を持ってきた店員が、壁に掛けられた黒板を手で示す。
「あ、はい」
ほんとだ。手書きのメニューが色々書いてある。
いるか屋にも昔掛けてあったな、黒板。
あれって何でなくなったんだっけ。
客がケンカで相手の頭をかち割るのに使って真っ二つに割れたんだったかな。
「さつきさん、お酒飲んでも大丈夫なんですか?」
梨夏ちゃんの顔が近い。
もう何度も言ったし、今さら繰り返す意味もない気はするが、もう一回言っておこう。
可愛い。
「梨夏ちゃん、飲みたいんでしょ?」
からかい気味にそう聞いてやると、梨夏ちゃんは真剣な顔で首を振る。
「今日はさつきさんの退院祝いなので、さつきさんが飲めないのなら私も飲みません」
ありゃ。
「そんなに気を使ってくれなくてもいいよ」
ありがたい話だけど。
「大丈夫、飲めるから」
「ほんとですか。無理してないですか」
「その代わり、一杯だけね。あとは水でいいかな」
それは腕がどうこうということではなく、俺のケツポケットに刺さっている財布の中身の問題なのだが。まあ、腕のせいにしておこう。
「じゃあ私もそうします」
神妙な顔で梨夏ちゃんが言う。
「さつきさんとご飯に来ると、いつも私飲んでばっかりいるから、なんだかすごく飲む女だと思われてそうで怖いです」
「え? 梨夏ちゃんはすごく飲む女でしょ?」
「ほら、やっぱり!」
梨夏ちゃんは俺の顔を指差して悲鳴を上げる。
「そうだと思いました。違うんです、いつもそんなに飲むわけじゃないんです」
「そうだったかな。結構飲んでた記憶しかないぜ」
「ああ、もう。やっぱり私今日はミネラルウォーターにします」
「ええー? つまんないよ、せっかくだから飲もうよ」
「だって」
「俺の退院祝いなんだからさあ。乾杯で祝ってよ」
「うう。そう言われると」
梨夏ちゃんは諦めたように眉を寄せて微笑んだ。
「分かりました。飲みます。ごめんなさい、お酒大好きです」
「おお、認めたね」
「だって、飲みたいですもん」
二人で顔を見合わせて笑う。
何これ。楽しい。
え、今日って俺の人生のクライマックスなのかな。
俺このまま死ぬのかな。
いや、マジでこんな楽しいのなら、腕の一本くらい折ってみるもんだぜ。
俺たちは店員を呼んで、前菜を二品とピザ二枚、それからハイボールとカクテルを頼んだ。
頭の中で値段を必死に計算する。
大丈夫だ、これくらいならいける。明日からのことを考えなければ、もう少しいける。
じきに運ばれて来たハイボールのグラスを、梨夏ちゃんのカクテルのグラスと合わせる。
「さつきさん、退院おめでとうございます!」
「ありがとう、かんぱーい」
「かんぱーい」
グラスに口を付けて、思わず「ふごっ」と鼻を鳴らしてしまう。
「ど、どうしましたか」
「いや」
何だこれ。すげえ。このハイボール。
「このハイボール、ちゃんとウイスキーの味がする」
久しぶりに思い出したぜ。
「そういえばハイボールってウイスキーのソーダ割だったっけか。消毒液じゃなくて」
「何言ってるんですか、さつきさん」
梨夏ちゃんはころころと笑う。
「おもしろいー」
「いや、ほんとにびっくりしたんだって」
もう一口。うまっ。
「梨夏ちゃんのカクテルは何だっけ」
「カシスウーロンです。最初はウーロン茶で割ってるって聞いてびっくりしたんですけど、飲んでみたら甘すぎなくてすごく飲みやすいんですよ」
「へえ」
「さつきさんも飲んでみますか?」
「ああ、そうだね」
でも、一杯って決めてるしな。
それ以上はお金がな。
無理して頼むにしても、カクテルって量少ないからなあ。
とか考えていたら、梨夏ちゃんがカクテルのグラスを俺の前に差し出してきた。
「どうぞ」
「え?」
「あ、全部飲んじゃだめですよ。一口だけにしてくださいね」
「え、あ、お」
え? 飲むってそういうこと?
いやいや。
これは間接キス……にはならないか。
わざわざ梨夏ちゃんが口付けたところに俺が口付けたら別だけど。
あんまりモガモガしてるのも変なので、何食わぬ顔で一口飲む。
「どうですか?」
「うん。うまい」
「ですよね!」
梨夏ちゃんが嬉しそうに笑う。
ごめん。本当はよく分かってない。
甘かった。
それ以外の味は、もうドキドキしてたから分かんなかった。
「カシスの後からウーロン!って感じだね」
「なんですか、それー」
そんなことを話していると、料理が運ばれてきた。
あれ、なんかこのピザ、値段の割にちっちゃくねえか……もっとこう、顔が隠れるくらいのやつを想像してたんだけどな。
とか内心で思いながら、梨夏ちゃんが切り分けてくれた一切れを口に入れる。
「うまっ!」
「よかった!」
梨夏ちゃんが手を叩く。
うめえ!
いるか屋のミックスピザはケチャップの味しかしないけど、これは違うぞ!
「うまいね、これ。一枚独り占めにして、顔に乗っけて真ん中から食いたい」
「なんですか、それ」
梨夏ちゃんが笑う。
「ああ、お酒が進んじゃって困ります」
梨夏ちゃんはもう中身が半分になったグラスを揺らして、微笑む。
「そうか。私、さつきさんと一緒だと安心できるから、お酒どんどん飲んじゃうんだ」
「え?」
「あ、すみません。迷惑なこと言っちゃった」
「いや。迷惑じゃねえよ」
こんな貧乏ヤカラモブに、嬉しいこと言ってくれるじゃないかよ。
そう思ったときだった。
ざわり、と世界が揺れた気がした。
……あれ?
その感覚を、俺はよく知っていた。
だけど、それはこんなときに感じるはずのないものだった。
なんでだよ?
今、俺は何かの物語世界に入った。




