何だか、やばい予感がする。
深度3。
闇堕ち深度の中でも災厄クラスの4を除けば、それは最悪の堕ち方を意味する。
モブは、物語の中で超越的な力を発揮することはできない。
そもそも、モブというのはそういう存在だ。
だが、闇堕ち深度が3にまで達してしまうと、そのモブは徐々に主要キャラ並みの特殊能力を発揮するようになる。
物語に絡みつき、自らも主要キャラ、あわよくば主人公にさえなってしまおうという、モブにあるまじき邪悪な意思が、モブには決して持ち得ないはずの力を発現させる。
それが闇堕ちという現象の恐ろしいところだ。
アイビーは、今俺の目の前でまさにそんな力を発揮した。
金切声を上げて身をよじるだけで、大の男二人を含む四人の大人を吹き飛ばしてみせた。
おそらくこの程度で済んだのは、この物語がオフィスを舞台にした現実世界寄りの設定だからだ。
もしも、これが火力の高い異世界ものだったら。考えただけで、ぞっとする。そのときは、俺も含めてどうなっていたか分からない。
そしてこの負傷は、物語の中の仮のものではないのだ。
現実着を着た俺たちの怪我は、そのまま現実の肉体を傷つける。
ピンヒールの足音高くアイビーがオフィスの中に姿を消すと、俺は森井さんたちに駆け寄った。
「大丈夫っすか」
「倉井さんが見誤ったんだ」
森井さんは前回確認に来た社員の名前を苛立たし気に呟くと、苦しそうに立ち上がる。
「想定外の事態だ。応援を呼ぶ」
そう言って、懐からスマホを取り出した。
「……森井だ。緊急事態発生、こっちの案件は深度3相当に変更」
森井さんが会社に連絡している間に、俺はおっさんと女性二人を助け起こす。
「くそ、とんでもねえ女だ」
おっさんは呻いた。
「こりゃあ久しぶりの大物だぞ」
「いたたたた」
「腰打っちゃった」
三人とも痛そうにはしているが、まだまだ元気なようだ。さすがモブは頑丈だ。
「応援は呼んだが、いつになるか分からない」
会社との通話を終えた森井さんが、スマホを懐にしまいながらそう言った。
確かにスマホから漏れ聞こえてきた通話の相手は寺井君だった。
今頃盛大にテンパっていることだろう。
応援はいつ来るのか。そもそも人数をかき集めることができるのか。
寺井君が担当ではそれさえも怪しい。
「こっちはこっちで、できるだけのことをしよう」
そう言って、森井さんは懐から何かを取り出した。
……何だ、これ。
それは、蛍光イエローの野暮ったいデザインのリストバンドだった。
高齢者が早朝に散歩するときなんかに、交通事故防止のために目立つように巻いてるバンドみたいな。
俺の見たことのない代物だった。
「それ、使うんですか」
おっさんがすぐに反応した。
「何年ぶりかな」
「念のため、持ってきておいてよかった」
森井さんはリストバンドを三人に一本ずつ渡し、自分でも一本を持つ。
「これ、何ですか」
L香が不思議そうにバンドを見つめて尋ねる。俺も知りたい。
「闇拘束バンド」
森井さんは答えた。
「これを対象者の手首や足首に巻くんだ。それが難しければ、髪の毛に巻き付けたっていい。とにかく対象者の身体に巻くことで、闇堕ちの力を押さえることができる器具だ。その隙に、もう一度現実着を巻いて確保する」
そんなアイテムがあるのか。すげえ。
「力仕事だな」
H川のおっさんが言う。
「俺が対象者の注意を引き付けるから、あんたら二人で横からぱっと巻いてくれ」
なかなかの男気ある発言。K子さんとL香が頷く。
森井さんは床に落ちていた現実着を拾い上げた。
「弾き飛ばされたが、対象者の肩の辺りにまだ一部が残っている」
そう言って、服の破れた部分を俺たちに示す。
すげえパワー。
こんな異常な闇堕ちの力を目の当たりにするのは、初めてだ。
だけど、現実着がまだぎりぎりアイビーの肩に巻かれてるってことは。
「じゃあ、あの子の存在は、今この物語では認識されてないってことですね」
俺の心を読んだかのようなK子さんの言葉に、森井さんは頷く。
「うん。だけど対象者がそのことに気付くのも時間の問題だろう」
自分が誰からも気付かれていない。
それに、あれだけ自意識を歪に膨らませてしまったアイビーが気付かないはずがない。
そうしたら必然、アイビーは自分の肩に残った現実着の切れ端にも気付くことになる。
アイビーだって長いことモブをやってる女だ。現実着の存在を知らないわけがない。
俺は自分の巻く安物の腕時計を見た。
もうすぐ、関連企業のイケメン社員が来てしまう時間だ。そうしたら、物語の本編が本格的に動き出す。
その前にアイビーを確保しなければならない。
あいつが何か決定的なことをして、この物語を壊してしまう前に。
「B介君。最悪の場合、試薬は省略して対象者の確保と搬送を優先する」
「はい」
どっからどう見てもアイビーは闇堕ちモブだ。
いくら手続きとはいえ、試薬で確認なんてするまでもない。むしろ、省略してほしかった。
あんな状態のアイビーの額に、試薬シールなんて貼りたくなかった。
おっかねえのが半分、悲しいのが半分だ。
「骨折が悪化してもまずいから、B介君は離れたところで見ていてくれ」
森井さんは俺のギプスを嵌めた腕を見てそう言うと、他の三人を振り返る。
「よし、仕切り直しだ」
森井さんを先頭に、廊下からオフィスを覗き込む。
すぐにアイビーは見付かった。
自席らしきデスクに座り、何やらパソコンのキーボードを叩いている。
仕事をしているつもりなんだろうか。
オフィスで一人だけ、明らかに浮いた格好のアイビー。
その肩にわずかに残る、現実着の切れ端。そのおかげで他の社員たちに彼女の存在は認識されていない。
動くなら、今だ。
俺たちは静かにオフィスに足を踏み入れた。
森井さんとH川のおっさんが、アイビーの左側から。
K子さんとL香は、右側から。
足音を忍ばせ、慎重に。
それに気付いているのかいないのか、アイビーはひたすらにキーボードを叩いている。
かたかたかた、という軽快な小気味いい音。ブラインドタッチってやつだ。
俺にはできない。俺はスマホのフリック入力専門だからな。
あいつ、あんなにできるようになったんだな。
モブの仕事の幅を広げたいからって言って、アイビーがキーボードの練習をしていたことを、こんなときだっていうのに思い出す。
この変わり果てた女があの頃のアイビーと地続きの存在であることを感じて、何だか知らないが少し涙が滲んだ。
いや、そんなこと考えてる場合じゃねえぞ。
真剣な表情で近付いていく森井さんたちに、俺も気持ちを切り替える。
アイビーはモニターから目を離さない。そこにするすると四人が近付いていく。
よし、いけ。
K子さんとL香が十分に近付いたところで、反対側のH川のおっさんが声を掛けた。
「おい、アイビー」
だが、アイビーは顔を上げない。一心不乱にキーボードを叩いている。
「おい」
もう一度、H川が呼びかける。
「お前、アイビーっていうんだろ」
アイビーは答えない。
H川が森井さんを振り返る。
もうこのまま、リストバンドを巻いちまいますか。多分、そう尋ねている。
だけど、俺は気付いてしまった。
アイビーのキーボードを叩く音が、どんどんでかくなってきている。
かたかたと軽やかな音を立てていたはずなのに、今はばちばちと、まるで指を叩きつけるような音が響いている。
何だか、やばい予感がする。
森井さんもそう感じたようだ。いけ、と目配せした。
H川が無言でアイビーの手首を掴んだ。
同時に、反対側からも女性二人がアイビーの手首を掴む。
三人が蛍光イエローの闇拘束バンドを巻きつけようとした。その瞬間だった。
ばしゃん、という落雷のような音が響いた。
オフィスの照明が全て落ち、パソコンのモニターも消える。
オフィスは一瞬で真っ暗になった。
その中で、二度、三度と稲妻のようなものが閃き、低いうめき声と人の倒れる音がした。
「えっ」
「何、停電?」
「やばくない?」
物語の登場人物たちが騒いでいる。
それはそうだ。
いくらアイビーのことを認識できなくても、オフィスが停電になれば気付かないわけがない。
幸いまだ昼間のこの時間に、停電したからといって完全な暗闇になることはなかった。
電気が消えた瞬間は、暗闇に包まれたかのように感じたが、目が慣れると窓のブラインド越しにこぼれてくる光でオフィスの様子は見えた。
「うわ、まじかよ」
「最悪だ」
社員たちはみんなパソコンを覗き込んで、苦々しい顔をしている。
バックアップがどうとかサーバーがどうとか、俺にはよく分からない言葉が飛び交っている。
「みんな、怪我はないか」
そう言ってデスクの間をきびきびと歩くのは、物語のメインキャラの一人、イケメン課長だ。
「課長こそ大丈夫ですか、大事な仕事のデータ……!」
そう言って駆けよった可憐なOLさん。
すごい美人ってわけじゃないけど、性格良さそうな感じの。何というか、好感が持てるタイプ。
きっと彼女がこの物語の主人公だ。
「分からないが、まずはみんなの安全確認だ。小さな爆発のような音もしたし、漏電か何かかもしれない」
課長が答える。
まずいな。完全に、アイビーの行動が物語に影響を与えてしまっている。
こんな停電の場面、作者さんが想定していたわけはない。
今頃、何だこれはって頭を抱えてるんじゃないか。
薄暗がりの中で、アイビーがゆっくりと椅子から立ち上がった。
その足元に、森井さんたち四人が倒れ伏していた。
アイビーの手首には、リストバンドが巻かれて……いない。
ばちん、と音がして、アイビーの肩に残っていた現実着の切れ端が飛び散った。
アイビーがゆっくりと両腕を広げる。
その身体に絡みつくみたいにして、電流が走る。
ときどきアイビーの身体の上で蔓草みたいな電気がぱちりぱちりと爆ぜた。
「え……?」
「なに、あれ」
現実着が完全に剥がされたことで、アイビーの姿が物語の登場人物たちからも認識されてしまった。
彼らが唖然として見守る中、アイビーは暗いオフィスの中の唯一の光ででもあるかのように電流の蔓草で自らを輝かせ、妖艶に微笑んだ。




