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カモメが飛ぶ日  作者: Tohna
苦闘の始まり
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第46話 欠けたパズルの残響

 サマーブレイクが明け、JSLリーグの後半戦が幕を開けた。


 しかし、ガビアータ幕張の練習場に漂う空気は、かつての昂揚感とは程遠いものだった。日向がミュンヘンへと去り、中盤の要であった坂上が横浜へ移籍した事実は、選手たちの心に消えない「不信」という名の痣を残していた。


「……あいつ」


 中野朝道が、ピッチの中央でボールを足元に収める少年に冷ややかな視線を送った。


 横浜クルセイダーズからレンタル移籍で加入した奈良崎蒼汰。


 高校生ながらプロ契約を勝ち取った「怪物」は、坂上が抜けた穴、インサイドハーフの位置に立っていた。


 須賀川監督の戦術は、坂上の献身的なカバーリングとパスワークを前提に構築されていた。


 代わりに入った奈良崎は、坂上とは対極の存在だった。彼は守備のバランスを顧みず、自らの直感に従って前線へと飛び出していく。


「奈良崎! 戻れ! 坂上なら今のスペースは埋めてたぞ!」


 中野の怒号が飛ぶが、奈良崎は振り返りもせず、ただゴールだけを見つめていた。


 同時刻。ドイツ、ミュンヘン。


 BVミュンヘンの戦略分析室は、最新鋭のホログラムディスプレイが青白く輝く、静寂に満ちた空間だった。


 日向は、超一流のアナリストたちに囲まれながら、無機質な表情でタブレットを操作していた。


「ヒュウガ、このアルゴリズムの修正は完璧だ」


 同僚の賞賛にも、日向は「当然だ」と言わんばかりの頷きしか返さない。


 彼の目の前のモニターの隅には、密かにガビアータの試合データがリアルタイムで流れていた。


(……奈良崎、お前の『異常値』が、この停滞した組織を壊すはずだ。坂上の代わりになどなるな)


 日向は誰にも気づかれぬよう、小さく唇の端を上げた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 リーグ戦、第十八節のアウェー、エイグル仙台戦。


 ガビアータは、坂上の不在による守備の不安定さを露呈していた。仙台の鋭いカウンターを浴び、前半だけで二点のリードを許す。


「なんだよ、坂上を出した意味、全くねえじゃねえか!」


 スタンドに駆けつけたカモメボーイズの木下祐誠は、そう吐き捨てるとただ呆然とピッチを見つめていた。


「やっぱりこれからダメに逆戻りなのかよ……」


 その絶望を切り裂いたのは、誰からも孤立していた「借り物」の少年だった。


 後半二十分。中野が苦し紛れに放ったクリアボールを、奈良崎がセンターライン付近で収めた。


 通常なら、ここはバックパスを選択してビルドアップをやり直す場面だ。しかし、奈良崎は迷わず反転した。


「……邪魔だ」


 立ち塞がる仙台のボランチ二人を、物理法則を無視したようなステップで抜き去る。


 尹龍玄やヘンネベリがパスを呼び込むが、奈良崎はそれすらも「囮」として利用した。


 ペナルティエリア手前。奈良崎は、西宮戦で見せた尹のヘディングを彷彿とさせるような、魂の乗ったミドルシュートを放った。


 弾丸のような一撃が、ゴールネットを突き破らんばかりに突き刺さる。


 一対二。静まり返るスタジアムで、奈良崎は中野を指差し、こう言い放った。


「……坂上さんなら、今のボールはキープしてましたよね? 僕は、点を取るためにここに来たんです」


 その言葉が、凍りついていたガビアータの歯車を、無理やり回し始めた。


「……生意気なガキが」


 中野が吐き捨て、笑った。


 日向が去った喪失感。坂上を失った痛み。それらを全て「勝利」という暴力的な肯定で塗り替える。それこそが、日向が残した毒薬の真意だった。


 終盤、奈良崎の変幻自在な動きに翻弄された仙台のディフェンスラインが崩れる。


 尹の落としを村雨が叩き込み、同点。


 さらにアディショナルタイム、奈良崎のコーナーキックを、上がってきた中野が頭で押し込み、逆転。


 三対二。奇跡のような逆転勝利に、カワアリのボルテージは最高潮に達した。


 試合後、町島は震える手でツイキャスの配信を開始した。


「……皆さん、見ましたか。これが、日向さんが残した『遺産』です」

 リスナーからのコメントは、依然として日向への怒りに満ちていたが、その中には「奈良崎、やるじゃねえか」「トモのヘディング最高」という、希望の種が混じり始めていた。


 ミュンヘンの夜。


 日向は、タブレットに表示された『3-2』の結果を見届けると、そっと画面を閉じた。


「……ようやく、パズルが組み合わさったね」


 日向は、窓の外に広がるバイエルンの街並みを見つめた。


 彼が背負った「裏切り者」の十字架。それは、ガビアータ幕張が親会社である川島製鉄の手を離れ、真の意味で自立するために必要な、最後にして最大のコストだったのだ。


 しかし、日向の戦いはまだ終わっていない。ドイツの地で、彼はすでに「次のフェーズ」を完了しつつあった。


「待っててよ、山際さん。……カモメが本当に高く飛ぶのは、ここからだ」


 日向の孤独な賭けは、残された者たちの熱狂を糧に、未だ誰も見たことのない結末へと加速していく。


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