善悪彼岸
――人は何を持って人と呼ぶのか。
人格はどこに宿るか――それは一つの思索であった。
いくつかの試行の果てに、脳を移せば良いと考え、そして新たな体を完全な形で用意すればそれで解決するものと考えた。
けれど魔力によって創造した肉体は、完璧であるにも関わらずに自壊した。
クリシェは己の能力を疑わない。
少なくとも時間と材料さえあるならば、自分が理解し想像しうるものを己が創造出来ないなどとは思っていない。
誤りがあるとすれば知識の他なく、失敗はつまり、己の無知でしかないと断定する。
自身が生み出した『完璧』に、間違いなどはあり得ない。
自分の知らない『欠け』があるだけ。
それは彼女に取って、当然と言うべき論理の帰結。
その『欠け』が何かを知らないままに、それがあるものと確信する。
多くの者にとって、それは傲慢と呼ぶべき思考だろう。
しかし彼女に取ってはそうではない。
彼女は少なくとも、驕るという感情からは誰よりも遠く離れた存在であった。
己の無知と未熟を許さない、自虐的で、自傷染みた客観性。
あらゆることは出来て当然――それを満たして初めて彼女に取っては最低限。
そこにあるのはそんな狂った美意識でしかなく。
彼女は誰より、卑屈で臆病な生き物であった。
決して満たされることなく、永遠に己という存在を肯定できず。
だからこそ彼女は、そんな自分を受け入れてくれる相手に対し蕩けるほどの依存を示した。
――観測できる法則、原理の全てを解析し、掌握し、演算する。
それはそんな彼女に取って、数の少ない最低限。
『出来ない事』など『ありはしない』し、『出来る』からこその『最低限』。
彼女の中にあるのは驕りではなく、疑う余地なき一つの単なる事実であった。
――この世界にはまだ、自分の知らない法則が存在する。
確信を持ってそう考えた彼女はただ、それからそのことだけを考えた。
あらゆる不確かを改めて検証し、己の考える世界の法則と異なる部分を探ることに没頭し、並列であらゆる事象を並べ立て、実験しながら演算し。
そしてその果てに行き着いたのは、己の頭脳がどうしてこれほど思考できるのかという疑問であった。
思考を組み立てるのは脳であり、あらゆる計算、命令は脳が下すもの。
彼女は疑問の余地なくそう考えていたものの、考えるほどに疑問が浮かぶ。
脳は信号を発する。神経がそれを伝達する。
けれどその仕組みでは当然、限界が存在していた。
少なくともその信号よりも早く、脳が物事を計算処理することなどはあり得ない。
信号の速度より短い時間で何かを考えることなど不可能であるし、脳の容量を考えれば思考処理を行うには当然限界があった。
疑問の余地なく当然のように、莫大な演算処理を己が行ってきたこと。
それがまず何よりも、彼女が知る物理法則からは外れていた。
時間の停止、空間の切除――そこに刻み込む夥しい術式。
その膨大さは己の頭脳が処理するにはあまりに大きく、その緻密さはあまりに高度に過ぎたのだ。
そしてふと、魂、という言葉が浮かぶ。
クリシェはそれを見たこともない。
半信半疑というよりも、その実在を本気で信じてはいなかった。
何故ならば誰より人を殺したクリシェが、その魂とやらを見たことはなかったのだから。
けれど真実がどうであれ、信じることが大事なのだとベリーやガーラは言っていた。
信頼する二人が信じるならば、信じてみるのも悪くはない――クリシェに取って魂とはその程度のもので、しかしここに来てその存在が強く輝き。
魂という名前などはどうでも良かった。
脳ではなく、意識を生みだし思考を行う何かがこの世界にあるのではないか。
少なくともその仮説は、欠けていた何かの間にぴたりと収まった。
世界各地で、まだ人が原始的な生活を営んでいた頃から伝承され、今なおあらゆる宗教でそれに近しいものが信じられていた。
信仰に呼び名は違い、それを持つ生物の定義、範疇も違う。
けれど、語るものは皆同じく。
それは生物としての肉体を超越した、その本質と言うべきものを示す言葉。
そしてその本質とは意思であり、意識であり――それがあるからこそ、人は人たり得るのだと。
――人の肉体は、魂無くして存在し得ないのではないか。
作り上げたベリーの肉体は疑う余地なく完璧で、けれど足りていなかったとすればそれは、魂と呼ぶべき何かなのではないか。
魔力は意識の影響を受け、そして意思によって操られる。
意思とは何か――意識とは何か。
それはクリシェに取って、小さな頭蓋に収まった脳ではない。
少なくともクリシェには、自身の体は人形のようなものだった。
信号と神経、肉と反応で操るのではなく、魔力で全てを操作する。
そしてその魔力を操っているのは、思考しているのは脳ではない。
少なくとも、眠っていても魔力は常にこの体を包み、維持しているのだから。
あるいはそれは、魂がこの世界で過ごすための入れ物のようなもの。
目があるから物を見られるように、舌があるから味を確かめられるように――脳はそれら全てを処理するため、この物質世界を感じ取るための受容体。
そして半物質の存在、魔力がそれを、完全なる霊質と呼ぶべき魂へと繋いでいる。
この世界には物理的な法則だけではなく、別な法則に基づく世界が重なっているのだ。
そして肉体に頼る限り、その重なり合う世界は見ることができず、感じ取れもしない。
何故ならば、肉体とは物質を感じ取るための受容体なのだから。
だとすれば、肉体の死は死たり得ない。
魂が死なぬ限りは――魂を維持できれば、単に魔力で肉体を再構築すればそれで済む。
バラバラに、あやふやに浮かんでいた全てが繋がり合ったような感覚。
その仮説は、半ば結論。
そしてそれを確定させるためには、一つの検証が必要であった。
肉体としての思考を完全に停止させ、自分という存在を魂の状態へと移すこと。
少なくとも肉の体では、観測すらが出来ていない。
観測出来ねば解析できない。
解析出来ねば掌握できない。
魂なるものを操るには、何よりもまず観測が行えなければ話にならない。
液化魔力に裸体で浸かり、肺の内側までそれを入れて、浸透させ、自分の肉体を維持できるよう式を刻み。
――本当に、大丈夫だろうか。
一瞬恐怖が芽生えた。
もっと入念な準備を行った方が良いのではないか。
あらゆる状況に対処するため、考えつく限りの対応策を講じた方が良い。
けれど、苦痛に顔を歪めるベリーの姿を思い出す。
時間はなかった。
明日には、次の瞬間には死んでいるかも知れない。
迷う時間は無かった。
「ぁ……」
「……おねえさま」
目覚めればベッドの上。
ベッドに腰掛けているのは、白いワンピースドレスを身につけたクレシェンタ。
薄ピンクのネグリジェ姿で眠っていた、クリシェの額を優しく撫でた。
ベリーのいるクリシェの部屋ではなく、セレネの部屋。
クリシェは少し混乱したが、すぐに記憶を覗き、状況を理解する
「クレシェンタ。クリシェ、どのくらい……」
「三日ですわ。お体は?」
「ん……」
クリシェは魔力を用いて腕を持ち上げ、拳を作り開閉する。
両手足をそうして身を起こし、問題なしです、と微笑んだ。
「えへへ、ありがとうございますクレシェンタ。クリシェ、今度は失敗しません。ようやくクリシェ――」
「おねえさま、そのお話は後に。今はちょっとまずい状況ですの」
「……まずい、って――」
ベリー、と立ち上がろうとしたクリシェを手で押さえ、そっちじゃないですわ、とクレシェンタは言った。
「セレネ様の方です」
「……セレネ?」
「えぇ、エルデラントで蜂起した勢力がこちらに攻め入ってきましたの。西部一帯を制圧され、カーナリウス将軍は持久できず命からがら撤退――キースリトン前将軍は殿となってくれたそうですけれど、恐らく戦死ですわね」
クリシェは眉を顰めた。
「どうして、エルデラントが?」
「わたくしが聞きたいですわね。先の大戦の交渉が始まったところですもの。……どうあれ、その蜂起軍は各都市を占領しつつ、本軍は6万相当。西部方面軍は壊滅。セレネ様はおねえさまの軍を率いて西へ」
「セレネが……」
クレシェンタは頷き、続ける。
「……女王として、おねえさまに向かって頂きたいですわ。状況はわたくしでもきちんと掴めている訳ではないですし、セレネ様も準備の時間がなかったですから。おねえさまの軍は優秀ですけれど、連れて行けた兵力は2万少し。もし6万の敵が一気に中央へ押し込んできた場合、絶対に大丈夫とは言い切れません」
クリシェは目を泳がせ、考え込む。
アルベリネア軍は精強――それは確かであった。
しかし倍の兵力を相手にして、容易に勝てるということはない。
クリシェが倍の敵を相手にして勝利できるのは、あくまで『絶対に負けない自分』という駒を使って、自ら首狩りを行うから。
多少の無茶をしてでも戦列に一つ穴を開け、クリシェはクリシェという駒さえ敵本陣に到達させれば、それだけで勝利が出来る。
しかし少なくとも軍同士の戦いにおいて、軍の兵数は本来、絶対的な一つの指標。
精強な兵は、あくまで精強というだけ。
一万の精強なる兵士は、同数の兵士に優位、一万数千の兵士に対して対等になれる場合もあるが、だからと言ってそれだけで二倍、三倍の敵を相手取れる訳ではない。
それが出来るならば、ボーガンとアレハの戦いに策など必要なかった。
セレネは指揮者としてそれなりに優秀であるし、コルキス達も十分以上の能力を持っている。
相手が無能であればそれで圧倒できるのかも知れないが、とはいえ相手がまともな将ならやはり、それは絶対的なアドバンテージとはならない。
「……敵将は?」
「レド=ラーニ。前回おねえさまが殺した敵総大将、シェルナ=ヴェーゼの子飼いだったそうですわ。戦後はアーカズに鞍替え、現エルデラント王の腹心として内戦を戦っていた所を見るに、随分な野心家だとは思っていたのですけれど……」
クレシェンタは視線で尋ね、クリシェは首を横に振る。
聞いたことのない名前だった。
その護衛は粗方殺したものの、その取りこぼしかも知れない。
「レーミン公爵は前の大戦で、そう名乗る男に本陣まで踏み込まれたとか。噂を耳にする限り、内戦中も王の片腕として大層な戦果を挙げているそう。……単なる蜂起でそれだけの兵力を集める手腕も含め、侮るべき相手ではないですわね。セレネ様とおねえさまの軍だけで安心、という相手ではないでしょう」
ですから、おねえさまに、と。
「無論、南北は既に動いているでしょうし、もう少しすればレーミン公爵も軍を率いてその援護に向かいますけれど……おねえさまが動けるならば、おねえさまに行ってもらえる方が安心出来ますわ」
「…………」
クリシェは枕を抱いて、目を伏せる。
確かに、話を聞く限りは問題だった。
何もなければ、今すぐにでも向かっている。
けれど――
「……その、ベリーは」
「変わらずですわ。良い方向には向かってませんけれど」
クレシェンタは目を細めて、そんな姉の頬を撫でた。
「おねえさまがアルガン様のため、時間を惜しんでおられるのはわかりますわ。でも今、時間がないのはこっちも同じ。もし万が一にでも失敗して手こずれば、落ち着いているエルスレンとの状況にも変化が起きる可能性は高いですし、エルデラントも同様」
なだめるように、落ち着かせるように。
「……おねえさまとわたくしがアルガン様のために時間を取れているのは、あくまで王国周辺に平和が成り立つから。それはちゃんとおねえさまにもお分かりのはず」
クリシェは静かに頷いて、それから言った。
今度こそ本当なんです、と。
「本当に、あとちょっとで、少しだけ時間があれば、ベリーを――」
「おねえさま。わたくしはおねえさまの能力を疑ってませんわ。……それが本当に後少しで、今日にでも出来るならわたくしも何も言いません。でも、そうではないでしょう?」
「それ、は……」
クレシェンタは姉の唇に口付けて、囁くように。
「わたくしもやるべきことをやりますわ。……、おねえさまとアルガン様のために」
クリシェは長い銀の睫毛を震わせ、紫の瞳を揺らし、潤ませ。
それから静かに、もう一度頷く。
「……ベリーに挨拶してきます」
「ええ、アルガン様には軽く伝えてありますわ。わたくしはちょっとここで書類仕事がありますから」
クリシェは立ち上がると、そのまま扉の外に。
クレシェンタはそれを見送り、目を伏せて、そのままベッドに横になる。
「……おねえさまと、アルガン様のため」
苦笑して、枕を掴み、抱き寄せる。
目を閉じて浮かぶのは、毎晩のように顔を歪めるベリーの顔。
『……仮に持つとしても、あなたは何年待つつもりなのかしら?』
『もちろん、クリシェ様が望む限りに何十年でも』
『今より酷い生活が続いても?』
『考える余地もありませんね。……わたしは誓っておりますから』
痛みを取り繕えもしないくらいなのに、ベリーは言葉通りに躊躇無く。
そんなことを言って微笑んだ。
この一年でどれだけ苦しんできたかも、忘れてしまったかのように。
けれどクレシェンタは、一度目にしたものを、耳にした言葉を忘れない。
クレシェンタにはクリシェと同じく、何かを忘れるという機能がなかった。
「……ねぇ、アルガン様」
――あなたは今も、幸せなのかしら。
尋ねればきっと、彼女は笑って答えただろう。
不幸など知らないといった様子で、ええ、とても、といつもの顔で。
『――だから、せめて代わりにと、わたしはクレシェンタ様の罪を償おうと決めました。これから先、クレシェンタ様は幸せを手に入れることが出来るでしょう。ようやく、ゆっくりとお休みになることができるのでしょう。そうなれば、クレシェンタ様がこの先、罪を犯す必要なんてどこにもありません』
いつかの、ノーラの言葉が頭に浮かぶ。
『……ただ幸せに、罪を重ねることなく生きていくことが出来るとわたしは信じております。だからここでこれまでの罪を精算して、クレシェンタ様に罪無き姿で幸せを得て頂きたいと思うのです』
そんなことを言って、彼女は自分で命を絶った。
馬鹿だと思う。
きっと、どうしようもなく頭が悪いのだろう。
子供でも分かるような、そんな損得勘定すら出来ないのだ。
その望みが果たされる保証なんて、どこにもないのに命を絶って。
「ノーラ」
一人残された部屋の中。
「……あなたは馬鹿ですわ」
少女は静かに呟いた。





