具材
――王都の屋敷。
「……わたくしの体をまさぐらないでくださいまし」
「もう、人聞きの悪いことを仰らないでください。そんなことは致しませんよ」
「どうだか。あなたがおねえさまにしたことを思えばわたくしも恐ろしいですわ」
「あ、あのですね……」
ベッドからクレシェンタを抱き起こしたベリーは困ったように頬を染め、それから、はぁ、と嘆息した。
あの一件からクレシェンタの口撃はこのようなものである。
ベリーとしても何とも言い難く、反論しづらい厄介な弱みである。
お姫さま抱っこなクレシェンタはそんなベリーの様子を愉しげに眺め、その首に手を回しつつふふんと笑う。
ぎゅうぎゅうとベリーの女らしい体に抱きつき、身を擦りつけながら非常に上機嫌――なぜなら彼女はお昼寝明けなのである。
ぐっすりと日頃の疲れを抱き枕、ベリー=アルガンを使って解消した彼女は元気いっぱい、充填完了状態である。
寝起きにクッキーをつまみ、ここからの予定もないとなれば、有り余る元気が向かう場もなく――出来の悪いクリシュタンドの使用人長ベリー=アルガンの教育に力を注ぐのは当然のことであった。
「あ、ベリー様、馬のお世話が……」
二人が廊下に出たところでちょこちょこと小走りに現れたエルヴェナは、クレシェンタを抱き上げるベリーを見つめ、ベリーは苦笑すると告げる。
「ありがとうございます。わたしはクレシェンタ様と夕食の準備を……しばらく休憩してもらって構いませんよ」
「そーですわ。アルガン様は添い寝だなんて言いながらサボってばっかりですもの、少しは休憩をなさいませ」
「……はい」
エルヴェナはベリーに抱きつく愛らしい女王陛下の姿を眺め小さく笑い、失礼致します、とその場を後に――彼女達と入れ違いにクリシェの部屋に入った。
シーツを整えてくれるのだろう。
エルヴェナは細かいところの気配りがよく出来ていた。
「それで、今日は何を作りますの?」
「んー、そうですね……」
ベリーは少女のような顔で天井を見上げて考え込み、
「挽肉とタマネギをこねこねして、ハンバーグなどいかがでしょう?」
クレシェンタに柔らかく微笑んだ。
アルベラン側もエルスレン側も特に何かをすることはなく、戦場清掃に関して問題はなかった。
戦場清掃自体は特に珍しいことではない。
死者の弔いのため、と理由をつけることが多いものの、実際的には極めて衛生的観点からの習慣であった。
腐敗した死体は正しい埋葬をされなければ邪気を放ち、生者を呪う。
太古からアルベラン周辺地域では伝わっていた教えではあるが、数百年前、時の女王グラバレイネは様々な記録から戦争と流行病の因果関係を突き止め、適切な処置が行われなかった戦死者の死体が病の温床となることを大きく広めた。
単に戦場の兵士が死ぬだけならばともかく、伝染病は無関係な街まで広がり猛威を振るう。
時と場合によってその拡大度合い、被害は異なるものの、流行病は国家そのものを揺るがす災禍となり得る。これを放っておくことは出来ず、戦争中であっても戦場清掃に関しては互いに協力しその始末をつけるというのが慣習となっていた。
小規模の戦いであれば夕暮れに行われることもあるが、この戦いのように大規模な戦いとなれば丸一日をそれに費やすことも珍しくはない。
流行病は一度発生すれば止めることの出来ない災禍。
その被害に遭うのは兵士だけではなく指揮官も含まれるとなれば、よほどの状況でない限りこれを断るものもいない。
秋や冬であればともかく、気温が上がった春――死体が腐敗する前に片付けて置きたいと考えるのは当然で、特に風下に当たるエルスレン側はこれへの対処は急務であった。
二日の時間をアルベラン側に与えてしまったのは問題であったが、今後半月から一月、彼等はウルフェネイト攻略に費やす必要があると考える。
その期間を腐敗する死体を無視し踏み越え、ウルフェネイトを攻めるという考えは存在せず、この決断は妥当なものであった。
大きく掘った穴に死体を放り込み、積み重ね、油を撒いて火を付ける。
これだけの数となると丁寧な作業などは行えず、生焼けの死体が多く出るが、気にする者はそれほどいない。見たくもないのだ。
肉の焼ける匂い――油の弾ける音。
穴の中は挽肉を捏ねて作られたハンバーグのようだった。
思わず口中に唾液が滲み、倒錯的な感情に胃液を吐き出すものもいる。
ただでさえ『解体された人体』に接する彼等の心理状態は劣悪であった。
単なる戦場の死体であれば損傷も少ないことの方が多いが、ここにある死体は人の一部――損壊した死体を取り扱うのでは気持ちの上で大きく違う。
ウルフェネイトの城壁内から捕虜によって運ばれてくる死体も損傷していないものの方が少なく、彼等に生じるのは怒りよりも恐怖であった。
文字通りぐちゃぐちゃになった死体と臓物の感触。
人であった挽肉。
北区画に入り込んだもの達の姿を見た彼等は、埋葬とは名ばかりの死体処理に精神状態を悪化させていく。
バズラーやリンカーラの考えとは真逆――戦友であったものの死体を見て、アルベリネアに対する憎悪を浮かべるものはごく僅か。
死体を切り刻み、投石機で放り投げる彼女に対して感じるのは怯えでしかない。
そしてその光景を城壁上から眺める男達も同様であった。
『埋葬』を行う敵兵士達を遠目に眺め、胸の内に生じるのは安堵。
生まれた国が違えばあるいは、あそこに自分達も混じることになっていたのだろう。
荷車に載せられ運ばれる死体の山を眺め、こぼれ落ち引きずられる内臓を眺め、自分達がアルベランに生まれたことを何より感謝した。
少なくとも自分達は、あのアルベリネアを敵に回す立場の人間ではない。
バズラー=ルーカザーンの言葉はこの東壁にある兵士達の多くが聞いた。
彼の言葉が全くのでたらめではないと知ってはいる。
これが正しいことか否かで言えばあまりに冷酷な仕打ちだろう。
とはいえアルベリネアがそのような怪物であるからと言って、彼女に逆らうつもりなど毛頭なかった。
敵に回せば誰より恐ろしい存在ではあるが、どうあれ彼女は救国の英雄――味方としてはこの上ない存在であった。
個人の武によって投石機を破壊した彼女への畏敬は消えた訳でもなかったし、今なお敵は倍の戦力を有する。
この精神的、状況的優位は彼女が作り上げた事を誰もが正しく認識していた。
『下らない建前ばっかりですね。戦争は勝つためにやるものです。そして多くを殺して士気を崩した方の勝ちです。……死者への敬意がどうだとか、秩序がどうだとか、それを言うなら今からでも、一対一でクリシェと戦って終わりで良いのでは?』
彼女は冷酷無比な殺戮者に違いなく、けれどその言葉にはある面での真理があった。
戦場とは、彼女のような存在が求められる世界である。
戦場で欲するのは情け深く優しさに満ちた指揮者ではなく、残酷で狂っていても、強き指揮者。
道理を語って負けるよりは、非道でも勝利を手にするべき――その考えは正しく、そして彼女はまさにそれそのもの。
そんな彼女の狂った正しさを、アルベリネアとの正々堂々たる勝負を避け、負けを恐れて逃げ帰ったバズラー自身が証明していた。
負けるよりは遥かに良い。
彼等が行う自分達への言い訳はそのようなもの。
城壁上の兵士達は背後に目をやり、塔の上に現れたアルベリネアに目を向けた。
「結構綺麗になりましたね、順調そうです」
「うっへぇ、これは酷いなぁ……」
塔の上の翠虎とクリシェ。
その隣にある女は、馬の尾のように束ねた黒い長髪を風に棚引かせ、穴に放り込まれて焼かれる死体を眺めて眉を顰めた。
「……まぁ、これなら問題はほとんどなさそうかな」
「そうですね。戦わず二日は何よりです。死体の使い方としては効果的でしょうか」
「効果的すぎてお姉さんちょっと引いちゃうけど、まぁ確かに」
カルアは呆れたように言って、クリシェを見上げた。
「ふふ、まぁ元気そうで良かった。ハゲワシたいちょーもガイコツ元帥補佐もうさちゃんが無理してないか心配してたからね。お姉さんはちょっと安心かな」
「心配?」
「そ。うさちゃんが寂しくしてないかって」
その美貌に優しげな笑みを浮かべ、ぐるるんの上に飛び乗ると、クリシェの頭を優しく撫でた。
人間二人程度は軽いもの――ぐるるんは気にした様子もなく欠伸をする。
腹が減れば起きるものの、夜行性の彼女に取って日中は眠気の強い時間であった。
王都の生活でいくらか慣れても、長年の生活リズムとの差異は中々慣れるものではない。
「えへへ、ちょっと寂しかったかもです……」
「よしよし、前と比べれば素直になったね。お姉さん嬉しい」
華奢な体を抱いて微笑み、クリシェも笑みを――それから指を立てて、どこか自慢げにカルアに言った。
「ふふん、クリシェは前と違うのです。ちょっとは成長したのです」
「……? はぁ、成長……」
カルアは腕の中の少女を眺め、首を傾げ。
ちょっとくらい背が伸びたのだろうか、と適当に解釈する。
精神的にも肉体的にも全く変化のないように見えるクリシェであるが、極めて微細な変化も捉える彼女の事。
髪の毛ほど背が伸びただけでも成長と言い張りそうである。
「そーなんだ。言われて見ればちょっとばかりうさちゃんが立派に見えるかも」
「そうですか? えへへ……」
適当に話を合わせて褒めると、クリシェは頬に手を当て嬉しそうにふりふりと。
この小さな姫君に全く変化はなかったが、喜んでいるなら良いのだろう。
「何かやる事あるの?」
「んー、特に。じゃらがしゃの調子を見て終わりですね。後はお料理でもしようかと……」
「おお、いいねぇ。久しぶりにうさちゃんの手料理か。何作るの?」
「んー、そうですね……」
クリシェは少女のような顔で、死体が放り込まれる穴を眺めて考え込み、
「挽肉とタマネギをこねこねして、ハンバーグなんてどうですか?」
カルアに柔らかく微笑んだ。
彼女の視線の先――穴の中の『ハンバーグ』に目をやったカルアは、頬をひくつかせて「それは勘弁」と首を振った。
二日の休戦が終わり、5000人近くの捕虜がエルスレンへと戻される。
しかし彼等はそのほとんどが、精神に深い傷を負っていた。
仲間の死体を処理し、その解体作業に従事していた彼等はアルベリネアに強く怯え、兵士として使い物にならなくなっていた。
バズラー=ルーカザーンは彼等をもはや戦力とは考えず、戦闘ではなく輜重の護衛や荷物の運搬といった後方作業に従事させることを決める。
士気の落ちた兵達は味方の士気も落とす。
無理矢理突撃させたところで戦果を挙げることもない。
少なくともウルフェネイト攻略まで、彼等は使い物にならないだろう。
神聖帝国軍は再び明朝からウルフェネイトへの攻撃を再開。
ただ、これは単なる圧力――バズラーは北部と同様、夜間、精鋭部隊による突破奇襲を考えていた。
北部では確かに失敗に終わった。
とはいえ、突破自体が失敗した訳ではない。
敵が使うものは魔水晶を利用した爆発物――かろうじて北壁から逃げだした兵士や捕虜が手にした情報、不発の魔水晶に刻まれた精緻な魔術刻印。
危険性から詳細を調べてはいないものの、バズラーは少なくともこれが大量生産には向かない代物であると考えた。
爆発の損害は凄まじいものではあったが、仮にあの規模の爆発を何度でも繰り返せるのであれば敵はもう少し待っても良かった。
北部の軍だけではなく、バズラーのいる東部が中に入ってからでも構わなかったはず。
こちらは一切あれを予見してはおらず、不意打ちとしては絶好の機会だっただろう。
しかしあちらはそれを選択せず――敵を城壁内に誘うリスクを恐れたか。
いや、そのリスクを鑑みてなお、それでこの本軍を壊滅させる利益は大きい。
それを選択しなかったのではなく、選択出来なかった――そう考える方が道理に適っていた。
故に、二回目の突破は成功する。
彼はそう確信していたし、事実そうであっただろう。
精鋭による強行突破、開門――あれ自体は悪くない策であった。
これを防ぎきることは中々に難しい。攻城戦は攻め手が主導権を握るからだ。
少なくともその混乱に乗じてある程度の兵力を城壁内に送り込み、敵を乱すことは出来るはず。
相手は二日時間を稼いだ。
これを無意味だとは思わない。
時間を稼げば勝算があるとあちらは考えているのだ。
だからこそ、その前にウルフェネイトを陥落させる。
彼は果断かつ勇猛な将であった。
愚将が持つ優柔不断さなど、彼には存在しない。
だが、日暮れ。
様々な報告を聞いていたバズラーは眉を顰めた。
「……輜重が届いていない?」
「は。この時間になってもまだ……」
リンカーラは考え込みながら答え、バズラーは目を細めた。
輜重の往復に使っている街はここから二日の距離。
五日前に輜重は滞りなく送られており、そして予定では今日再度往復の馬車がここに輜重を届けるはずだった。
二日で戻り、一日を使って休息と積み込み、再び二日で戻ってくる。
「伝令は?」
「今のところないようですな」
サイクルが狂うとすれば、物資の積み込みに何らかの問題――例えば必要量が集まらない――があった場合か、天候の悪化。
もしくは街で反乱や暴動が起きたか。
とはいえ、どちらの場合であっても早馬の伝令が来る。
しかしそれが来ていない――明らかにおかしかった。
「……ひとまず誰か後方へ送って確認をさせろ」
「は。……アルコサース、騎馬数名で確認してこい」
呼ばれた男は敬礼し足早に表へ。
それを見送りリンカーラはバズラーに目を向ける。
「北のアーナ、南のガーカ、どちらからも攻撃の報告すらありません。静かなものです」
「……後方の担当はナートリアスだったな」
エルスレンは法王庁主導の聖戦――その際には巨大な兵站軍というべきものを作る。
此度はミヌオス=ナートリアス、皇帝の次男が法王庁から指名され、その指揮を担当していた。
政治的なパワーバランス、ルーカザーンがアルベラン打破の手柄を独り占め出来ないようにするための、そういう都合上の配置。
とはいえ、所詮は兵站軍。
武功を挙げるのはルーカザーン。
それをナートリアスが面白くないと感じるのは当然で、これも何らかの策謀である可能性がある。
神聖帝国は大きく、人材も多い。
正面から敵う国などなし――だが、そんなこの国が大敗を喫するときは、決まって身内のいざこざ、政治であった。
それをよく知っているバズラーもリンカーラも、必然そちらに意識を向ける。
――彼等が事情を理解するのは、それからほんの少しのこと。
「伝令!! 会議中失礼します閣下!!」
「……何事だ?」
「は! 敵城門が開きました」
「開いた? 突破したのか?」
「いえ、それが様子がおかしく、まだ城壁の攻略も――」
バズラーは報告を無視して立ち上がり、天幕の外へ。
リンカーラ達も同様、バズラー=ルーカザーンの後に続く。
――聞いたとおり、ウルフェネイトの門が開いていた。
そこから現れるのは兵士――ではなく、黒塗りの巨人。
北区画で暴れまわったと噂の化け物だった。
それと同時に後方へ確認へ向かっていたはずの偵察騎兵が馬を全力で走らせバズラーの前に。
「閣下!! 2万規模の敵軍が東から――」
表に現れた敵将を眺め、手に取ったパンを上下に裂いた。
城壁上の翠虎の上、少女――クリシェ=クリシュタンドの周囲には、黒塗り鎧の兵士達。
そして甲冑を着込んだノーザン=ヴェルライヒの姿もそこにある。
「パンで挟んで具材は挽肉。えへへ、ヴェルライヒ将軍、食べますか?」
「いえ、遠慮しておきます」
苦笑して断ると、クリシェは彼と反対。
カルアに食べます? とパンの片方を差しだした。
じゃ、もらおうか、とカルアはそれを手にとって、地平線へと目を向ける。
城壁は三十尺の高さ――随分遠くまでを見渡せた。
――神聖帝国軍が視認出来る距離より、遥か遠くまで。
「予定通りで何より。……おじいさま達も来ましたし、状況は整いましたね」
夕暮れ――藍に染まった向こうから現れるのは黒い影。
そして、空へと飛び立つグリフィン達。
「ヴェルライヒ将軍」
「は」
ノーザンは手を挙げ、鳴り響くのはラッパの音色。
昼と夜の狭間――不確かに混じり合う空の下。
翼と狼の描かれた無数の旗がウルフェネイトのあちこちで振り回される。
「……全軍出陣、終わりです」
――アルベリネアは王国北部から軍を大きく迂回させ、前回の対サルシェンカ戦と同様、ミクナの山中を進ませた。
2万の精鋭は神聖帝国の侵攻軍、その後方を一手に遮断し物資を手にすると西へ。
獅子鷲騎兵の機動力を活かし、敵伝令を処理しながらウルフェネイトへと迫った。
神聖帝国の敗因は欲を掻いたこと――アルベリネアが現れたタイミングこそ、彼等が生き延びる最後の分岐路であったと多くの戦史家は語る。
アルベリネアはまさしく当時、竜に等しき存在であったのだ。