5話 帰ってきた伯爵は目を疑う
一ヶ月ぶりに我が家へ帰ることになった。
胸の奥底に鉛が沈み込んでいるかのように気持ちが重い。
馬車の中で、私は何度目か分からないため息をつく。どうせ家に帰ったところで、ギスギスした空気が満ちているに違いない。
あの貧乏貴族の継母は、すでに逃げているだろうか? 逃げ出したのなら、まだマシかもしれない。
最悪なのは、アジュに敵対心を抱いていることだろう。
そしてアジュの方も荒れ狂っているかどうかが私の心配事だ。父親としてやれることはやっているつもりだが、どうやってもアジュの心は開けそうにない。
私は交渉相手の気持ちも、敵の心だって読むのは得意だ。なのに、わからない。
血の繋がった実の子の内面だけは……。
「旦那様、お着きになりました」
馬車の揺れが止まって、御者が声をかけてくる。
「もう……ついてしまったのか」
私は嘆息しながら馬車の外に出る。久しぶりの我が家を前にしても、やはり何も感じない。
ふと、庭の方から笑い声が聞こえてきた。
……侍女か?
無意識に私の足はそちらに向いていた。
「な……に……」
なんと庭にいたのは、ユミルとアジュだった。
傍らにはヨルズがいて、二人が走り回っているのを微笑みながら見守っている。
……なんだ、これは?
ユミルがアジュを追っているぞ。
怒りで追い回しているなどではなく、二人とも実に楽しそうにしている。
何よりアジュが笑っているのが、私には信じられなかった。
次に驚いたのは、ユミルの動きだ。アジュは魔法こそダメだが、身体能力は高い。そのアジュに対し、ドレス姿でありながら俊敏な動作で追い詰めていくのだ。
そして最後は壁際に追い込んで、アジュの鼻先を指でちょんと触る。
「はい、鬼交代ね。一分以内に捕まえられなかったらアジュの負けよ」
「絶対つかまえてやるもんね!」
アジュは悔しそうにはするが、それ以上に目が輝いている。
……私は夢でも見ているのか?
あのアジュが、普通の子と同じように無邪気に笑うなど。
「これは旦那様。お帰りになっていたのですね」
私にいち早く気付いたのは、ヨルズだった。
「ああ。いま帰ってきたところだ」
私はかろうじて平静を装い、三人の元へ。
アジュは私と目が合うなり、顔を背けた。ユミルの方は何とも言えない表情だ。怒っているようにも、受け入れているようにも感じるが、一応微笑んではいる。
「ランス様、お帰りなさいませ。ずっとお待ちしておりました」
そう言って、ユミルは恭しく頭を下げた。
「驚いた。二人は随分と仲が良くなったんだな」
「はい、アジュはとってもいい子なので、私も助かっています。母としてはまだまだ未熟ですが、これから精進していくつもりです」
母として未熟だと? 嘘をつくな。いままでどんな継母でも、アジュは笑顔にならなかった。ましてや庭で一緒に遊ぶなど。
どんな魔法を使ったらそうなる? 一点、私の中に懸念が浮かぶ。
もしやユミルは、人の心を操るような魔法を使えるのではないか。
「ヨルズと二人になりたい。大事な話があるんだ」
「はい。ではアジュ、私たちは中に入りましょう」
「じゃあ、僕に絵を教えてよ。ユミルさん上手だもんね」
「いいわよ」
手を繋ぎながら館に戻っていく二人は、本物の親子さながら。
「さてヨルズ。一体どういうことか説明してくれ」
「旦那様が驚かれるのも無理はありません。実はアジュ様は、かなりお変わりになりました。すべては奥様の教育の力です」
どういう流れでああなったか、私は詳細に教えてもらった。
ヨルズは嘘をつかない。それでも信じがたかった。
今までの継母の中には教育のプロだっていたはずだ。その彼女とて何一つできずに立ち去っていった。それをユミルは、いとも簡単に壁を突破した。
「一体何者なんだ、あの女は?」
「いままでの方とは、明らかに違うのは確かです」
ヨルズがいつになく穏やかだ。
この様子だと、かなり信頼を寄せているな。
ここで、中からユミルとアジュが戻ってくる。
「ランス様、一つお伝えするのを忘れておりました」
「なんだ?」
「アジュは、魔法を使うことができるようになったんですよ。ご覧になってください」
ユミルが合図を出すと、アジュは杖を持った腕を伸ばす。
以前は杖を持つことすら死ぬほど嫌がっていたのに。
直後、私は目を見開く。
信じられない威力の炎が噴出されたからだ。
「──っ!?」
アジュはまだ八歳だぞ、なんだこの威力は!
いや、それよりもこれを冷静にコントロールできていることが異常だ。
「これでも本気ではないんですよ」
微笑むユミルに、私は言葉が出なかった。
「この子は本当に天才なんです。努力もしましたし、褒めてあげていただけませんか?」
「……成長したなアジュ。今度は、私が直に氷魔法を教えよう」
「……あぁ、うん……」
なんとも心のこもっていない返事だった。
関わりたくないような。
他人ような。
ユミルを見るときの目とは大違いだ。
少なくないショックを受けつつ、私は書斎に戻る。
しばらくの間は、虚空を見ていた。
ノックがされ、ユミルの声がする。
「お時間よろしいでしょうか」
「ああ、入ってくれ」
彼女は入ってくると、一冊のノートを机の上に置いた。
「アジュの成長を記録したものです。お読みになりますか?」
「……是非、読ませてくれ」
私はノートを受け取り、彼女を見つめる。
「君は、一体何者なんだ?」
「私は、ただの子供好きの女です」
「最初、私は君を疑ってしまった。洗脳魔法でも使えるのではないかと」
「心外です」
ユミルは、私を真っ直ぐに見据えてきた。
「私はその魔法を使えませんし、使えたとしても子どもの心を操作するような真似は絶対にしません」
彼女の瞳には一点の濁りもなかった。
「これは失礼した。君を侮辱してしまったな。許してくれ」
こちらが謝ると、彼女は柔らかい表情に戻った。
「どうぞ、日記をお読みください。失礼します」
彼女の後ろ姿を、私はただただ見つめる。
ダメで元々という考えで妻にしたが、とてつもない逸材だったのかもしれない。
どうも落ち着かない胸中を無視するように、私はノートを開いた。
読み進めていく度、その情熱の強さに驚かされる。
アジュが何に喜び、何を恐れ、悲しむか。
そういったことが、事細やかに書かれていた。
初めて魔法を使えた日には、泣きじゃくっていたようだ。
そんな大切なことさえ、知らなかった。
私はアジュのために継母や教師を探してきたが、自分自身が息子と向き合うことは避けていた。
ユミルは違う。
悩みながらも、アジュを本気で知ろうとしている。
日記の最新の日付は今日だ。
血が繋がっていれば、いつか分かり合える。
そう漠然と考えていたが、それは間違いだと一冊のノートが証明してくれた。
「……すまなかった」
部屋には、謝りたい相手はいない。
それでも私は、口にせずにはいられなかった。




