第1章ー⑧ 天使のアリア
自動ドアをくぐると、清涼な空気が肺へとなだれ込んでくる。人の出入りこそ活発ではないものの、院内の待合スペースには呼び出しを待つ患者たちが席を譲り合いながらひしめき合っていた。リング建設後に創立されたキルクス大学の附属病院だけあって大規模な施設に気後れしていると、マリはさっさと受付の方へと向かっていく。
「失礼します。以前ご連絡したイノウエ・マリです。院長先生はいらっしゃいますか?」
受付の事務員にマリがアポイントの確認をしている傍ら、周囲を見回してあの子がいないかと探してみる。しかし一階は完全に待合のためのフロアなのか、入院中の患者らしき影は見当たらなかった。それにもし目の届く範囲にあの子がいたとしても、特徴は髪の色くらいしか覚えていない。それだけで見つけ出すというのは、この大病院では困難だろう。
諦めて壁に背中を預けて息つくと、マリが受付を終えたのかこちらへと足早に歩み寄ってくる。その手に花束はもう握られていなかった。
「院長先生、ちょっと立て込んでるから少し待ってほしいだって。あと花束、院内に飾る花が足りてなかったみたいだから喜ばれたわよ。」
上機嫌に報告してくるマリの様子にホッとする。するとマリは受付の窓から見える庭を指差した。
「テオ、患者でもないのに受付にいるのは邪魔でしょうし外に出ない? アンタが探してる子、庭にいるかもしれないわ。」
「いや、マリ。もういい。俺は帰る。」
「え? ここまで来たのに、帰っちゃうの?」
マリは信じられないとでも言うように大きく目を見開いた。そのまま入ってきた自動ドアから外に抜けようとすると、すかさずマリが後を追う。ヒールの靴音が止まったかと思えば細長い指が俺の肩を引き留めた。
「病院の庭なら近所の人も散歩に来てるし、迷惑なんてかからないわよ。せっかく来たんだからやるだけやって帰ったら?」
「俺がわかるのはあの子の髪色くらいだ。顔もまともに覚えてないし、名前も声もわからない。それに、俺が今さら押しかけたところで向こうは意識がなかったんだ。覚えてなんてないだろ。」
「それは、そうかもしれないけど……」
マリの手の力が弱まった瞬間を見計らい、俺は自動ドアから病院の外へ出る。また追い付かれないよう早歩きでバス停の方角へ進みだすと、背後の彼女の口から『あ』と短く零れるのが聞こえた。
「ちょっと待ちなさいテオ!」
振り返ればマリとは大分距離が開いていた。これでいい。俺に助けられたことも、俺がもう一度会いたがっていたということも、あの子自身は何も知らなくていい。実感を伴わない相手に俺の存在を教えることは、恩を押し付けることに他ならないのだから。
もう一段階歩く速度を速める。病院と歩道を隔てるゲートにたどり着くまさにその時、鳴り響いていたマリのヒールの音が突如として止んだ。
「ねえ、テオ……何か聞こえない?」
脈略のない問いに思わずこちらも足が止まる。振り返るとマリは集音機の要領で耳に手を当て、キョロキョロと周囲を見回していた。
「どうした。サイレンでも聞こえるのか?」
「違うわよ。何かしらこれ……歌? どこかで聞いたことあるような……」
眉間に手を当てて真剣に悩むマリにつられ、自分も周囲の音に耳を澄ませる。行き交う車のエンジン音、人の会話、足音。その中に紛れる、微かな旋律。一流のソプラノ歌手でも出すのが難しい、跳ねるような高音の連続体。
「『夜の女王のアリア』?」
俺とマリの声が重なったまさにその時だった。マリの体がまるでその歌声に引き寄せられるように、俺から遠のいていく。好都合だ。今ならマリのお節介を被ることなく家に帰ることができる。そう脳は理解できているのに、なぜか足はバス停の方へは動かなかった。代わりに、つま先はおもむろにマリの背中に照準を合わせる。
モーツアルトが作曲を手掛けたオペラ『魔笛』の中でも高い知名度を誇る『夜の女王のアリア』。劇中では二曲あるこのアリアだが、有名なのは第二幕で歌われる『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』だろう。迫力のある低温ではなく、ソプラノ歌手も驚愕するほどの高音域の音を用いて表現される夜の女王の怒り。本当の意味で歌いこなせる歌手は世界でもごく数人だろうとも言われる超絶技巧のアリアを肉声で、微かとはいえ病院のゲートまで届く声量で歌うことのできる人物がいる。劇場で数多の歌手の歌を聴いてきたであろうマリとしては、駆け出さずにはいられなかったのだろう。しかしそれは、俺も同じだった。
両親が死んでから、ピアノには触れていない。聴いた音楽も基地で流れるBGMくらいだ。でもそんな地中深くに埋まり腐った感性が、今震えている。
「マリ!」
多くの患者やその家族が憩う庭を小走りで駆け抜けていくマリ。ヒールを履いた足でどうやって維持できているのか理解できない速度で音を追いかけていく彼女の後を追い、俺もいつの間にか走り出していた。
気づけば庭を出て、俺とマリは病院の裏の無人の駐車場にたどり着く。より大きくハッキリと聞こえるようになったその歌声は、やはり病院で聞こえてくるものとしては特異なものだった。ソプラノ歌手が入院しているのかとも考えたが、それにしては技術が拙すぎる。まさしく天性のものだけでどうにか楽譜をなぞっているという粗削りの歌唱は、頭上から聞こえてきていた。
天使が死者を迎えに来ていたのかと思った。白いパジャマを纏い、開いた窓に腰かけて歌うホワイトゴールドの髪の少女。その肩下ほどの長さの髪がその瞬間一斉に揺れ、歌唱が止まる。振り返ったその小さな顔に埋め込まれた瞳は、めいっぱいの星を湛えるようにきらめいていた。
「あ」
時間が止まる。少女が窓枠に下ろしていた手の平が外向きに滑り、彼女の体が静かに病室の外へと投げ出される。天使の衣のように波打つパジャマの裾。瞬きの間が永遠にも感じるその光景に、体はまたひとりでに動き出していた。
「テオ!」
マリの悲鳴と同時に感じたのは、鈍い頭の痛みと腹部に感じる重みだった。どうにか間に合ったらしい。俺の腹の上に腰を下ろした少女はキョトンと首を傾げて俺を見下ろす。その澄みきった瞳と目が合ったのを最後に、俺の視界は黒く塗りつぶされていった。