第1章ー⑨ 夜を越えるために
ズキリとした頭の痛みで反射的に顔に力が入る。目を開くと、最初に飛び込んできたのは泣きじゃくる小柄な少女の頭を撫でて慰めているマリの姿だった。
「大丈夫。大丈夫よ。先生だって軽い脳震盪だからもう少しで目が覚めるって言ってたでしょ。心配しなくても、きっとすぐに起きるわよ。」
聞いたこともないマリの優しげな声に鳥肌が立ったのも束の間、彼女の視線と薄く開いた俺の目が合う。するとその瞬間、マリの体が勢いよく桃色のソファーから立ち上がった。
「テオ! ようやく起きたわね!」
よく通るマリの声が脳天を叩くように響き、後を引く耳鳴りに起き上がりかけていた体が再びベッドに横たわる。医師か看護師を呼びに行ったのかマリはすぐさま部屋を飛び出し、残されたのは呆気に取られて涙も引っ込んだ少女と俺だけだった。
気絶する前の微かな記憶を手繰り寄せる。歌につられてその主を探しに行ったマリを追いかけて、病室の窓辺で歌うこの子を見つけて、彼女がまさに目の前で窓から落下するところで記憶は途切れていた。マリが脳震盪と言っていたし、この子を庇ったことで頭を強く打ったのだろう。マリの遠ざかっていく足音を聞きながら体を起こし、すぐ近くのソファーに腰かけた少女に目を凝らす。白いパジャマの裾が多少黒ずんでいるが、目立った怪我や手当の痕跡は見当たらない。
「怪我、なかったか?」
俺が声を発した瞬間、少女の肩がビクリと跳ねる。彼女は強張った顔を上げて俺と目を合わせると、風の音が聞こえるのではないかというほど激しく首を縦に振った。
「そうか、ならよかった。でも怖かっただろ。これに懲りたら、もうあんな危険なことするなよ。わかったな?」
少女はバツが悪そうに目を伏せ、今度は小さく頷いた。
「ごめんなさい。」
変声期を終えているものの、まだ幼さが残る声が涙を堪えたように震える。負傷したとはいえ、こんな女の子に泣かれるのはこっちとしてもいたたまれない。
「別に骨も折れてないし、軽く頭を打っただけだ。そんなに心配する必要はない。」
「ううん。また、助けてもらっちゃったから。」
「『また』?」
彼女の言葉遣いが引っかかり、思わず声に出して反芻してしまう。すると彼女はついに溢れてしまった涙を拭いながら何度も頷いた。
「あなた、セオドア・エバンズさんっていうんでしょ? 私のこと、地球で助けてくれた人。なのに私、またあなたに助けてもらっちゃった。今度は私がお礼をするんだって、せっかく決めてたのに……」
しゃくり上げながら説明する少女の姿に、二週間前の記憶が蘇る。身なりが比べ物にならないほど綺麗になっていて気づけなかったが、よくよく見ればその髪色はあの日助けた少女のものと全く同じだった。マリの言っていた奇跡とやらは、どうやら実在したらしい。そんなまるで映画のような展開を受け入れきれずにいると、部屋の外からヒールの足音が聞こえてきた。
「先生呼んできたわよ、テオ……って、ナユちゃん泣いてるじゃない!」
意識が戻った俺なんかそっちのけでマリは彼女―ナユというらしい―の方へ駆け寄っていく。ジャケットのポケットからハンカチを取り出すとマリはそれを彼女の目元に当て、赤く腫れた瞼を優しく拭った。
「そんなに泣くと体の水分全部なくなっちゃうわよ? しばらく空けてたけど、テオとちゃんと話せた?」
「うん……また助けてもらっちゃってごめんなさい、って。」
その言葉にマリは特段驚く様子も見せず、安堵したように微笑んだ。
「そう。でも、そういう時は『ごめんなさい』より『ありがとう』って言った方がいいのよ。」
「そうなの?」
「ええ。特にこいつみたいなすぐ自分を卑下する奴にはね。」
俺の方をいたずらっぽい笑顔で見返し、マリは小さくウインクしてみせる。どうやら事情を初めて知ったのは俺だけだったらしい。自分に向けられたアドバイスにナユはしばらく不思議そうにマリを見上げていたが、数秒してソファーから立ち上がる。俺が座っているベッドの方へしっかりした足取りで数歩近づくと、彼女は頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう。」
彼女がそう深々とお辞儀をしたその時、マリがさっき呼んできたであろう医師が到着する。白衣を纏った温和な雰囲気の医師はネクタイを正し、軽く会釈しながら部屋へと足を踏み入れた。
「遅れてしまい、申し訳ありません。医師のヒューマ・マルタンです。気軽にヒューマとお呼びください。意識が戻られたということですが、どこか痛みを感じる場所はありませんか。」
「いえ、特には。」
「そうでしたら一安心です。念のため頭部の精密検査だけして帰っていただきたいのですが、それでもよろしいですか?」
「はい。この後もこれといって予定はないので、ゆっくりで構いませんよ。」
「いえ。院内の事故ですから、早急に対処させていただきます。」
医師―ヒューマ先生は丁寧に、しかしきっぱりと言い切りキャスター式の椅子に腰を下ろす。それからチラリとナユの方を見ると、手元のタブレットに何かを打ち込んだ。一方ナユは彼が訪れるなり背筋を伸ばし、何か言いたげに両手をいじって様子を窺っていた。それに気づいたのかヒューマ先生はタブレットから目を離すと、ナユに向けて小首を傾げる。
「どうかしましたか? ナユさん」
ヒューマ先生に尋ねられると、ナユはハッとしたように両手を体の横に持っていく。
「えっと、先生、部屋からあれ、持って来てもいい?」
外の廊下を指差しながらナユはヒューマ先生に確認する。するとしばらく考え込んだ後、ヒューマ先生はニコリと笑って首を縦に振った。
「いいですよ。エバンズさんはまだここにいますから、焦らず歩いて取ってきてくださいね。」
了承が得られると、ナユはパッと顔を明るくしてその場で小さく飛び跳ねる。初めて見た笑顔はまるで花屋で買ったガーベラの花のようだった。
「うん! 行ってきます!」
あの小さな体のどこにエンジンを積んでいるのか、ナユは忠告も忘れて駆け出していってしまった。その後ろ姿にヒューマ先生は手を伸ばして止めようとしたものの、ナユの姿は廊下へとあっという間に消えていく。
「ああ……行ってしまいましたね。」
「ふふ。あれだけ元気なら退院もすぐなんじゃないですか?」
ヒューマ先生の苦笑いにつられ、マリが冗談めかして聞く。しかしその瞬間、医師の顔はマリとは対照的に暗く曇っていた。
「そう、ですね。怪我の具合も良くなっていますし、じきに退院できると思います。ただ……」
「ただ?」
マリに鋭く聞き返され、ヒューマ先生は一瞬タブレットに下ろす手を止める。白衣に包まれた腕がタブレットをそっと包み込んだ。
「退院後の彼女のことが……少々気掛かりなんです。」
そう言ってヒューマ先生は画面を隠すようにタブレットを抱き寄せる。
「退院後、ですか?」
「はい。もうご存知のようですが、ナユさんは先日地球で保護されました。現場の状況からリングへの移住を拒んで山で生活していた可能性が高いです。家族らしき人物も見つかっていないので、一人だったのではないかと。」
「じゃあ、リング内で家族の捜索を?」
「はい。警察も調査を続けていますが、有力な情報はまだありません。」
心苦しそうに語るヒューマ先生の眼差しからは、医者が患者に向けるもの以上の思いが滲み出ていた。
精々十代後半の少女が家族の力も借りずに、山で一人暮らし? 幼い孤児が当時の支援の網からあぶれたのだとしても、些か現実離れした話に思えた。だが、現にあの子は山で一人だったところを発見されている。それは俺が一番よくわかっているが、それにしてもおとぎ話のようだ。
「ナユちゃん本人から家族や親しかった人の話は聞けないんですか? リングの中を闇雲に探すよりはその方が見つかりやすいと思うんですが……」
マリの指摘はもっともだったが、おそらく病院側はそうしたくてもできないのだろう。
案の定、ヒューマ先生は首を横に振ると悩ましそうに溜息をついた。
「そうしたいのは山々なんですが……彼女は、いわゆる記憶喪失の状態なんです。」
「記憶喪失⁉︎」
マリが口元を押さえて声を上げる。その悲鳴にも似た声に、ふと先ほど訪れたスーパーで聞いた噂話が頭を過ぎった。
『記憶喪失で何も覚えてないそうよ。』
話し相手の女性にそう零す憐れみと好奇が入り混じった顔。単なる噂だと思って忘れるつもりだったのに、あの時感じた嫌な騒めきが蘇ってくる。
「事故以前のことは、何一つ覚えていません。山でどう暮らしていたかも、家族のことも……名前だって、ようやく最近思い出したばかりです。」
そう言って悩ましそうに頭を掻くヒューマ先生。その姿からは一種のやるせなさのようなものも感じられる。
「彼女を追い込んでは意味がないと、私の方からも『焦って思い出そうとしなくていい』とは伝えているんですが……どうも本人は何かを思い出そうと必死なようで。よく歌うのも、もしかしたら逃避行動の一種なのかもしれません。」
一気に重苦しくなる部屋の空気に、窓を開けたくなる気持ちを堪えてベッドに座り直す。すると居心地の悪さを察したのか、ヒューマ先生が空気を一新するように朗らかな笑みを浮かべた。
「ああでも、エバンズさんのことを話す時はとても楽しそうなんですよ。」
ヒューマ先生が発した一言に、耳を疑った。数秒かけて脳内でヒューマ先生が言ったことを繰り返し、意味が確定した瞬間どうしようもない疑問が喉からせり上がってくる。
「俺、いや私、ですか? でも私が助けた時、ナユさんの意識はなかったはずじゃ……」
「どうやら地球の回収部隊の基地で保護されていた時に、エバンズさんの話を親切な看護師の方から聞いたそうですよ。危険を顧みず自分のことを助けてくれたんだって、よく話してくれました。いつか直接会ってお礼をしたい、とも。」
懇切丁寧に伝えられるごとに、胃の辺りがむずがゆくなっていく。地球の基地の親切な看護師とやらは、どうやら彼女に色々と吹き込んでいたらしい。俺が恩を押し付けていないかと心配する以前の段階で、彼女は俺のことを随分と慕ってくれていたようだ。
「ほら、アンタが思うほど世の中って冷たいわけじゃないのよ。」
マリがしたり顔で俺に振り向く。別に冷たいと思っているわけじゃない、と反論しようとしたその時だった。廊下からバタバタとした慌ただしい足音が聞こえてくる。
「エバンズさん!」
ドアを開け放ちながら叫ばれる俺の名前。息を切らしながら帰りも忠告を無視して走ってきたのだろう。彼女の腕の中には、久しく見ていなかった紺のブランケットが綺麗に畳まれて抱かれていた。
「このブランケットのおかげでね、怖くても、不安でも、何も思い出せなくても、私ちゃんと一人で眠れたの。本当はまだ持ってたいんだけど……元々はエバンズさんのものだから。」
名残惜しそうにブランケットを一度抱きしめるナユ。一呼吸おいてブランケットを俺に差し出す手は、微かに震えているようにも見えた。せっかく医務室で使うようにと言ったのに、横流しとは。自分では選びもしない肌触りの良いシルクのブランケット。でもそれが彼女の手に渡っていたことを、どこか嬉しく思う自分がそこにはいた。
「あら。ちゃんと使ってくれてたのね、私が送ったブランケット。てっきり開封すらしてないと思ってたわ。」
ブランケットを選んだ張本人が茶々を入れてくる。俺がこのブランケットをどうするのか、高みの見物を決め込むマリに反撃の一つでもしたくなったが、ナユとヒューマ先生の手前グッと堪えた。
「地球の冬は寒かったからな。」
「それに比べて、リングは暖かいでしょ?」
「ああ。だから、ブランケットはいらないんだ。」
ナユの方へ振り返り、できる限りの笑顔を作って伝える。ナユはブランケットを差し出したままキョトンと首を傾げていたが、すぐにヒューマ先生が何かを耳打ちした。するとその途端、その瞳が照明を受けて銀河のように輝いた。
「ありがとう、エバンズさん!」
ブランケットを再び胸元に抱え、彼女は部屋中を跳び回る。リングの重力装置が故障したのではないかと錯覚してしまうほど身軽な彼女に、マリは懐かしむような笑みを浮かべていた。
「ナユさん、そうやってうるさくしては他の人の迷惑ですよ!」
病院には些か相応しくない行動をヒューマ先生は即座にたしなめる。するとナユは大人しく両足を揃えて立ち止まった。
「ご、ごめんなさい……ヒューマ先生。」
ナユは肩を落として謝るが、その顔には隠しきれない喜びが木漏れ日のように滲み出していた。その視線はしばらくしてヒューマ先生から俺の方へ向く。
「エバンズさん」
抱き締めたブランケットに顔を半分埋める姿に、思わず聞いてやらなければと体が前のめりに動く。彼女は言うか言うまいか躊躇するように目を泳がせていたが、しばらくして控えめに俺の目を覗き込んだ。
「またお見舞い……来てくれる?」
そう尋ねながら俺を見つめる目には、見覚えがあった。頼れるものを、心の拠り所を、全て失って世界を彷徨う日々。悲しみから立ち直るのを待ってくれない世界を恨みながら、それでも流されるように歩かざるをえなかった毎日。両親と音楽を失った俺と、一時は自分の名前すら忘れた記憶喪失の少女。重なり合うその影をどうにかして払拭し、目の前の彼女のパジャマについた埃を払う。
「テオでいい。次会う時は、そう呼んでくれ。」




