第2章ー⓪ 防音室の夜
『君はとても辛い思いをしたね。でも大丈夫だ。いつかまた、元通りにピアノを弾ける日がやって来るよ。』
両親の死亡が確認された後、俺の元へやって来たのは当時通っていた音楽院の教授だった。
流星災害により孤児が溢れかえっていたあの頃。両親の死後、俺は避難所から臨時で設置された孤児院へと生活の場を移された。まだ生まれて間もない赤ん坊、死が理解できず家族が自分を迎えに来ると疑わない少年、手垢まみれのぬいぐるみを一日中抱き締めて泣いている少女。ある日突然放り込まれた孤独な世界に対する反応は様々だったが、そうなった経緯が同じだからだろうか。次第に打ち解け合って互いに仲良くなる孤児も多かった。『地球も人類も滅亡するのではないか』と世間で漂う厭世的な空気を突っぱねるように、と言えば聞こえはいいかもしれない。でも実際は、耐えられなかっただけなのだろう。俺も、周りも。
だから孤児院に馴染めない理由を、音楽が、ピアノがないせいだということにした。しばらく休んでいた音楽院の教授が里親になると申し出てくれた時は、ようやくこの苦しみを忘れられるのだと安堵もした。俺に向けたその笑顔の裏に、何があるとも知らずに。それが、本当の地獄の始まりだとも気づかずに。
『例の生徒の様子? ああ、あの休学中の天才少年か。残念だが、あれはもう無理だ。ずっと様子を見てきたが、曲どころか音一つ出すことすらできてない。』
『いくら両親の死がショックだったとはいえ、もう三か月だぞ? 私だって暇じゃないんだ。見込みのない子供をタダで家に置く余裕はない。』
『両親の死という人生最大の悲しみを経験した彼がどんな演奏をするのか、一度聴いてみたかったんだが……仕方がない。』
孤児院に慣れてきた矢先に引き取られたせいか、不眠が再発していたのだろう。目を閉じても訪れない眠気に痺れを切らしてリビングに向かおうとした時、それは聞こえてきた。ピアノに近づくだけで血の気が引いて、鍵盤に触れることすらかなわない俺を励ましてくれた優しい師は、そこにはいなかった。いや、厳密に言えば最初から優しい師なんていなかったのだろう。でも当時の俺には、それがわからなかった。わからなかったから足音を殺して、ピアノのある防音室へと向かった。
教授も普段使っている黒塗りのグランドピアノ。眩暈でふらつく脚に歯を食いしばって力を入れ、どうにか鍵盤蓋を開く。規律を保って整列した白鍵が暗闇の中、網膜を焼くように輝いていた。おそるおそる、そのうちの一つに指を伸ばす。突き立てた右手の人差し指の先が鍵盤に触れると、悪寒が全身を駆け巡った。冷たい雨に晒された体の震えが、傷ついた手の痛みが、あの日のまま蘇る。同時に左手の感覚がストンと抜け落ちた。朽ちてしまったのではないかと、慌てて左手に目を向ける。闇に包まれたその左手はまるで、炭のように黒かった。
気づけば俺は壁に背中をつけ、倒れ込むようにうずくまった。止まらない涙と共に声を上げても、防音室だからか教授は気づかない。ピアノに楽譜にメトロノーム。望んだはずの音楽に囲まれた狭い防音室で、俺はいつの間にか泣き疲れて眠っていた。
絨毯には程遠いフェルトのような硬い繊維の布で覆われた床に、意識が吸い込まれていく感覚。どこまでも続くような地獄の中、俺はそんな夜を繰り返した。




