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第八四話 エーデルベルクの薔薇 二七 宮中伯からの招待状


 ショートスリーパーにしてワーカホリック気味であるウルリヒは、夜遅くまで仕事をしていることが多い。

 孤児院が燃えた夜も仕事をしていた彼は、火災の発生を知るや否や、シュナイダー商会の従業員から選抜した消防チームを自ら率い、可能な限り迅速に火災現場へ急行した。

 しかし、彼らが勇んで到着してみれば、燃える建物はどこにもなく、月明かりの下、漆黒の魔人を前に片膝ついて頭を垂れる学生たちと、それを囲んで拍手喝采を送る住人たちという、奇妙な光景がそこにあった。


「……これはいったい、どうしたことだ……」

「おや、シュナイダー商会の旦那、わざわざ応援に来てくれたんですかい? 相変わらず頼りになる旦那だ、恩に着ますぜ。……しかし、せっかく来てもらったのに申しわけねぇが、火事なら建物ごと消してくれましたぜ、あそこに立っている黒いお人が、なんと一瞬で! それだけじゃねぇよ、さっき空に現れていたでっかいやつも、あのお人が召喚したんじゃないかって噂でさ」

「なんと!」


 ――などと、住人から状況を聞いて驚くウルリヒに、件の漆黒の魔人(真綾)が気づき、彼に向かってコクリと会釈したことで、現場への道すがら巨大守護者の出現を目撃していた彼は――。


(アレ絶対、マーヤ姫殿下だ……)


 ――と、漆黒の魔人の正体に思い至り、都市を救ってくれた異国の姫君にエーデルベルガーの心意気を見せる時は今! とばかりにムチャクチャ張りきった。

 夜中にもかかわらず、ウルリヒは瞬く間に数軒の宿を押さえ、火災で帰る場所を失った者の避難場所として提供したのだ。

 彼が被災者たちにそれを伝え、どうですかと言わんばかりにイイ笑顔を真綾へ向けた時、残念ながら、当の真綾は熊野に体を任せ、スヤスヤと夢の国へ旅立っていたのだが……。


      ◇      ◇      ◇


 そして、火災の夜が明けた――。

 色々とあったエーデルベルクとも、ついに今日でお別れである。

 そんなわけで、長らく世話になった宿をあとにしたエーリヒと真綾であったが、カール一家への土産を物色すべく通りを歩いていると――。


「………………い…………まち……さい……おーまーちーくーだーさーいー!」


 何やら急接近してくる声が……。

 通りのずっと向こうからドドドドドと馬よりも速く走って来る声の主を、よくよく見れば、ヘッケンローゼ帝立学院の教授、ヴォルフスヴァルトではないか。


(前にもあったなー)


 ――などと、小学校の校庭を爆走して来る剣道着姿を思い出し、真綾が遠い目をしているうちに、ヴォルフスヴァルト教授はふたりの前で急ブレーキをかけた。

 さすがに伯爵だけあって、あの速度で走っても教授は息ひとつ切らせていないが、よほどの急用なのか心底ホッとした様子だ。


「よかった、間に合った……」

「なんじゃヴォルフスヴァルトの倅か。朝っぱらから騒々しいのう」

「申しわけございませんエックシュタイン卿、実は学院長から、至急この手紙を渡すようにと言われたんですがね……」


 生温かい目で見てくるエーリヒに教授が差し出したのは、便箋をそのまま畳んで封蝋をしたものではなく、高価な紙封筒に入った手紙である。


「ああそれで、足の速いお前さんがのう……災難じゃったの。どれ、見せてみい……うん? 封蝋に宮中伯の印璽が押してあるぞ、しかも、わし宛ではなく、カタストローフェ宛になっておるのう」


 ヴォルフスヴァルト教授から渡された手紙を見て、たちまちエーリヒは白い片眉を上げた。


「はい、宮中伯閣下から緊急の手紙だそうです。……しかし困ったことに、カタストローフェ先生へ渡そうにも居場所がわかりません。それで、カタストローフェ先生と唯一連絡可能なエックシュタイン卿にお預けして――ああっ!」


 しゃべっている自分の目の前でエーリヒが無造作に封筒を開けたため、ヴォルフスヴァルト教授は思わず声を上げた。……にもかかわらず、当の本人は、大声上げた教授を逆に責めるような目で見る始末……。


「なんじゃ?」

「……いや、カタストローフェ先生宛、では……」

「ああ、構わん構わん、ちゃんと渡しておくから、お前さんは帰ってよいぞ」


 言いづらそうに常識的な指摘をする教授であったが、エーリヒのほうはといえば、非常識な言葉で返すと、犬でも追い払うように手をヒラヒラさせた。傍若無人、ここに極まれり。


「えー…………」


 あまりの理不尽に言葉を失う教授……。


「……おや? ところでエックシュタイン卿、こちらの美しい女性は?」


 ここへきてようやく彼は、エーリヒの伴っている女性が絶世の美女であることに気づき、(おっ、いい女!)などと一瞬思ったものの別に下心もなく、ただエーリヒに尋ねただけだっだのだが……。


「なんじゃお前、うちのマーヤに色目使うなら殺すぞ」

「…………」


 理不尽な殺気でブッスリ刺され、ふたたび声を失った……。


「…………。ああそうだ! 忘れていた! 講義の資料をまとめなければ! ――それでは、私はこれにて」


 取って付けたように急用を思い出したらしく、ふたりに会釈すると帰ってゆく教授。これ以上踏み込めば命がないとでも思ったか……。

 そんな彼の背中を見送ったあと、エーリヒは宮中伯からの手紙に目を通し始めたが、読み進めるにつれ、眉間の皺がどんどん深くなってゆく。


「……フム、そうきたか……。久々に孫たちの顔が見られると思うて楽しみにしておったのに、ゾフィーアめ、妙な知恵が働くのは親父以上じゃな……。マーヤ、残念じゃが、レーンガウへ帰るのは延期になったぞ」

「どうして?」


 手紙を睨んで何やらひとりごとを言っていたエーリヒから、いきなり予定変更を告げられると、真綾の首が少しだけ傾いた。

 そんな彼女に説明し始めるエーリヒ。


「表彰式じゃ。例の火災からエーデルベルクを救った英雄を表彰するとかで、消火に尽力したレーン団員、及び、その両親、そして……功績多大なるヘッケンローゼ帝立学院臨時教師カタストローフェを、後日、エーデルベルク城ヘ招き、盛大に式典を執り行うのじゃと……」


 ここまでは比較的冷静に語っていたエーリヒの手が、気の高ぶりとともにワナワナと震え始める。総身に鬼気すら纏いながら……。


「……常ならば、表彰するか否かを決めること自体、功を立てて幾日も経ってからであろうに、ましてやこんなもの、そこからさらに時を経て届くのが当たり前よ。……それをゾフィーアめ、火災のあった夜が明けてまだ数刻じゃというのに、さっそく招待状を送りつけてきおった。わしらがここを出る前に!」


 表彰式典への招待状をグシャリと握り潰すエーリヒを前に、なぜ彼がこれほど興奮しているかピンとこない真綾の首が、もう少しだけ傾いた。


「……実はなあマーヤよ、わしはお前さんが権力者どもの道具にされんように、睨みを利かせておったのじゃ。『下手にこの娘と接触しようものならエックシュタイン家が敵になるぞ!』とな。聡い宮中伯ならばそれを察し、下におる貴族どもを抑えてくれるであろうからのう……」

「おじいさん……」


 エーリヒの言葉を聞いて、ようやく真綾は知った、彼が密かに自分を守ってくれていたことを。


「……それをゾフィーアめ、わしの守るマーヤ・ラ・ジョーモンではなく、学院の臨時教師カタストローフェを、しかも、表彰するという形で呼び出すとは! これではわしも口出しできぬし、呼ばれておらぬゆえ同行もできぬ。……さりとて、貴族連中を呼び集めての表彰式典ゆえ、カタストローフェが出席を拒否しようものなら、宮中伯の顔に泥を塗ったとして、その身元保証人であるわしを、いや、エックシュタイン家を糾弾する者が出てくるやもしれぬ。ぐぬぬ……」


 しかも、呼ばれる貴族はレーン団員の両親、すなわち、宮中伯の配下とも呼べる連中だ。宮中伯は老獪なエーリヒから引き離したうえで、配下の貴族たちと協力して上手く真綾を言いくるめ、強力な手駒にでもするつもりなのだろう……。

 真綾を狡猾な権力者たちから遠ざけたいエーリヒは、宮中伯ゾフィーアの策略に奥歯を噛みしめた。

 そんな彼の痩せた手を、真綾の白い手がそっと握る。


「マーヤ……」

「行く。私なら大丈夫」


 目を丸くしたエーリヒにそう言うと、真綾はしっかりと頷いてみせた。

 その決断、エックシュタイン家に累が及ぶのを慮ってのことか、はたまた、式典ならば豪華料理にありつけると踏んでのことか、それは不明だが、謎の臨時教師カタストローフェの表彰式典出席が、こうして決まったのであった。


      ◇      ◇      ◇


 火災から数日後――。

 帰る家を失った者は孤児院勢を除けばほんの少数で、その被災者たちも親戚知己を頼れたため、今では、大所帯で行き場もない孤児院勢だけが、シュナイダー商会提供の宿を仮住まいにしていた。

 宿とはいっても、真綾たちが宿泊しているような高級宿ではなく、さりとて貧民宿よりはずっと上等な、ごくふつうの宿だ。その一階には広い食堂があるのだが、シュナイダー商会が宿を丸ごと借りきっているため、現在は食事のとき以外、チビっ子たちの遊び場と化している。

 その食堂の隅に今、テーブルを挟んで向かい合う院長先生とエーリヒの姿があった――。


「――本当に驚きましたわ、まさかこのようなところに、タウルス=レーンガウ伯閣下がお見えになるとは」

「マーヤに頼まれては嫌とも言えぬでな、こうして罷り越したというわけよ。――ああそれと、タウルス=レーンガウ伯はやめてくれぬか、もはや隠居した身ゆえ爵位号はいらん、ただの老いぼれエーリヒでよい」


 そう言って一度ニヤリと笑ったあと、真摯な眼差しを院長先生に向け、エーリヒは続ける。


「――さて、本題に移らせてもらうぞ。院長殿、差し障りなければ、孤児院丸ごとヴァイスバーデンへ移ってはいかがかな? あそこにも孤児院はあるが、もうひとつ増えたところで問題はないし、なんなら施設を広げ合併してもよかろう。いずれにせよ、移転から今後の運営資金援助まで、エックシュタイン家が責任をもって世話させてもらおう」


 院長先生の目を真っすぐ見ながら、エーリヒは孤児院の移転を提案した。

 実は、孤児院の今後を心配する真綾に相談されたことで、こうして彼が院長先生を訪ねてきたのだ。

 すぐにそう思い至った院長先生は、気遣ってくれた真綾のことを考えると、子供から笑いかけられたときのように胸が温かくなった。


「マーヤ様は本当に……。閣下、勿体ないお申し出、心より感謝いたします」


 しばらく思案したあとエーリヒに感謝を述べ、やわらかく微笑む院長先生。しかし、それから彼女が続けたのは意外な言葉――。


「……ですが、エーデルベルクから孤児院がなくなるのでは、この先に孤児となる子が不憫でございますし、もし新たな孤児院が開かれたとしても、その院長が子供たちをどう扱うか、ちゃんと運営していけるのか、神ならぬこの身にそれはわかりません。――閣下、ご厚意はたいへん嬉しく存じますが、わたくしはこれからも、このエーデルベルクで孤児院を続けていきたく存じます」


 背すじをピシリと伸ばして言い切った姿の、なんと凛々しいことよ。

 子供たちを心から想い守護しようとする強さをそこに見て、思わず目を見張るエーリヒであった。


「なんとも尊き心意気じゃ、賢しらに浅はかな口出しをした自分が恥ずかしいわい。――院長殿、この慮外者を許してやってはもらえまいか」

「そんな! いけません閣下、勿体のうございます。どうかそのようなことは、およしになってくださいませ」


 いきなり胸に手を当て頭を垂れたエーリヒに、たちまち顔色を変え慌て始める院長先生。貴族家の出とはいえ下級貴族の家族だったにすぎない常人が、数々の伝説を残す伯爵本人に謝罪されたのだから、さぞや落ち着かないことであろう。


「……うーむ、エックシュタイン家がエーデルベルク内で目立った援助をすれば、宮中伯の顔を潰すことになるし、邪推する者も出てくるであろうのう……。やはり、都市内のことは都市の主に任せるのが筋というものじゃな。……しかし、ゾフィーアは昔から金にうるさいところがあるからのう……。宮中伯家とのしがらみがなく、文句を言わせぬほどの力を持つ者が……と、なれば…………フム」


 頭を上げたとたん何やらひとりごとを言い始めたエーリヒだったが、ポンとひとつ手を打ったと思ったら――。


「マーヤよ、楽しんでおるところを申しわけないが、ちと、こちらへ来てくれんか、クマノ様と話がしたいのじゃ」


 ――と、声をかけた。食堂の真ん中でチビっ子たちに水芸を絶賛披露中の真綾に。……そう、エーデルベルク滞在が延長されたため、彼女はこうして毎日、仮設孤児院の慰問に訪れていたのだ。慰問というか、カワイイ成分補充のために……。


「『わたくしをご指名とは、エーリヒ様、いかがなさいました?』だって」


 院長先生のとなりに真綾が腰掛け、熊野の言葉を完璧な声真似で伝えると、同一人物とは思えぬ口調で彼女が話したことに院長先生の目は丸くなる。


「まあ」

「おや、院長殿は初めてであったか。なかなか上手いものであろう? マーヤは守護者であるクマノ様の言葉を、こうして声真似で伝えることができるのじゃ。わしならゴルトの真似など死んでもできぬわい」

「マーヤ様の、守護者様……」


 なぜか自慢げにエーリヒが説明すると、真綾の守護者であるからには神なのではと、院長先生は居住まいを正した。


『エーリヒナンカニ、マネサレタラ、コッチガ、ハズカシクテ、シンデシマウヨ』

(うるさいわ!)


 ――などと、脳内でゴルトにひとこと文句を言ったあと、エーリヒは熊野を呼んだ理由を語り始める。


「さてクマノ様、いよいよ明日は表彰式典でございますが、ご存じのとおりわしは同行できぬゆえ、クマノ様だけが頼りでございます。何せマーヤのことじゃから、放っておけば食い物に釣られて宮中伯の手駒にされかねん……。そういうわけで、クマノ様と打ち合わせておきたいのと……もうひとつ、このまま黙って宮中伯の策に乗ってやるだけでは、いささか芸がないゆえ――」


 エーリヒの皺深い顔に、悪魔のごとき笑みが浮かんだ。



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