第八二話 エーデルベルクの薔薇 二五 救出
孤児院一階と地階を結ぶ長い階段の一階側と、地下室の入り口、合計二か所には、貴族屋敷時代から使っている厚い鉄張り扉があり、地下室自体も広いうえ地中深くにあるため、あらためて地上の異変に気づいたヘンゼルが様子を窺いに階段を上った時、すでに一階側にある扉の隙間からは煙が入り込み始め、金属部分も触れられないほど熱くなっていた。
「あつっ! 院長先生、火事みたいです!」
「その様子では、一階へ出ても危険でしょう……。ヘンゼル、降りていらっしゃい」
熱さのあまり鉄張り扉から離れるヘンゼルの様子を、階段の下から見上げていた院長先生は、しばらく思案するとヘンゼルを呼び戻し、地下室の厚い扉を固く閉じた。
熱と煙から少しでも遠ざかるため、広い地下室の最奥部にあたる場所で地面に座り、息を殺して寄り添う院長先生とヘンゼル。
「ヘンゼル、大丈夫ですよ。ここは地中深くにあるから上の熱も届きにくいし、これだけ空間が広いから空気も十分にあるわ、鎮火するまで我慢しましょう」
「……みんなは?」
「そちらも大丈夫。スタッフのみんなも子供たちもしっかりしているから、きっと無事に逃げ出せたはずよ、安心なさい」
「はい、院長先生」
できるだけ穏やかな声でヘンゼルを安心させ、頭を優しく抱き寄せる院長先生だが、実のところは心配でしょうがなかった。階段を下りてきた熱気で室温がどれほど上昇するか、鎮火まで地下室内の安全な空気は保つのか、上にいた皆は本当に無事なのか……。
(ああ神様、せめてこの子だけでも……あら?)
アホ毛の揺れる頭を愛おしそうに撫でていた院長先生は、ふと気づいた。ランタンの光が薄く照らし出している、奇妙な光景に。
作業机に置いてあったインク壺から、なんと、在庫チェック用の羽根ペンが勝手に浮き上がり、サラサラと紙に何か書いているではないか……。
やがてペンがインク壺に戻ると、その紙は静かに浮き上がり、彼女の前までフヨフヨと浮遊して来た。
その紙には、几帳面な文字で――。
『ひとりずつ助けます。地下室の扉が開いたら外へひとり出て、そこにいる男のマントにすぐ入ってください。もうひとりは男が帰ってくるまで待ってください。見えずとも私はここにいますので、準備ができたら教えてください』
――と、書いてあった。
「ヘンゼル、助けが来ましたよ」
「えっ?」
「いいですか、あなたは扉が開いたら地下室を出て、そこにいる方のマントへすぐお入りなさい。その方と一緒に行けば、きっと助かります」
「でも、院長先生は?」
「あなたが助かったあと、わたくしも出ます。――さあ立って!」
さすが貴族家の子女だけあって飲み込みが早い。院長先生はすぐヘンゼルに説明すると、有無も言わせず彼を立たせた。
「院長先生が先に!」
「いけません、こうしている間も生存確率が下がっているのです、早くお行きなさい! ――見えないお方、お願いいたします!」
ヘンゼルの背中を扉の前まで押していった院長先生は、彼の悲痛な頼みを珍しく強い口調で却下すると、すかさず謎の存在へ合図した。
その直後、ひとりでに扉が開き、彼女がヘンゼルを室外へ押し出したとたん、また閉まる。その重い音に院長先生との永別を予感し、ヘンゼルはとっさに振り向いた。
「院長先生!」
扉の向こうに叫び終わるよりも早く、ヘンゼルを黒いものが包み込む。サラマンダーの加護【高熱耐性】で守られたイグナーツのマントが――。
「あの人を助けたいなら時間を惜しめ! ――行くぞ、息を止めろ!」
それだけ言ってマントの中でヘンゼルを抱え上げ、イグナーツは一気に階段を駆け上がり、一度閉じていた鉄張り扉を押し開けると、そのまま炎の中を突っ切ってゆく。高温の扉に素手で触れ、炎にさらされても平然としていられることなど、サラマンダーを守護者に持つ彼以外の誰にできようか。
ここまでは上手くいっている、舎弟とライナーの守護者を通して急きょ決めた手筈どおり。
そして、ついに孤児院の玄関から飛び出した彼を、割れんばかりの歓声が迎えた!
ヘンゼルは――。
「あ、……にいちゃんは、あの時の……」
――無事だ。
「あん時は悪かったな……」
マントから出すなり自分を見上げて驚くヘンゼルに、何やらボソボソと謝ったあと、イグナーツは気まずさを隠すようにきびすを返し、燃え盛る孤児院の中へ飛び込んでいくのだった。
◇ ◇ ◇
地下への階段まであと少しというところで、イグナーツは不幸に見舞われた。
「うわっ!」
二階の床の一部が焼け落ち、彼を直撃したのだ……。
倒れているイグナーツのマントから、チューター(舎弟のラタトスク)がヒョッコリと可愛い顔を覗かせる。
『アニキ! アニキ!』
「うるせえ、聞こえて――グッ!」
舎弟の声で呼びかけるチューターに、威勢よく言葉を返そうとしたイグナーツだったが、その途中であまりの苦痛に顔を歪めた。
『アニキ! どうしました!?』
「……クソッ! 足が!」
……そう、頭や胴体こそ無事だったものの、彼の両足は今、落下物の下敷きになっているのだ。
チューターを通じ、その事故はすぐにライナーたちの知るところとなり、地下室前で待機中だったポルターガイストが現場へ急行して、イグナーツの救助を始めたのだが……。
◇ ◇ ◇
炎に包まれた孤児院を前に、ライナーが悲痛な声を響かせる。
「駄目だ! 重すぎて持ち上がらない!」
……そう、人間並みの力しかないポルターガイスト単独では、構造材や二階の家具など幾重にも重なり合った落下物を、イグナーツの上から除去することができなかったのだ。
いくら【高熱耐性】の加護を持つイグナーツといえど、煙を吸い続ければ無事ではいられないし、さらなる崩壊が起きれば、おそらく……。
「イグナーツ!」
「アインヘア、あとはお願い。――ボクが行くよ!」
危機に陥った仲間の名を叫び孤児院に駆け込もうとするレオンハルトと、破壊消防を守護者に託し持ち場を離れるフローリアン。
そんなふたりの前に、ライナーが大きく両手を広げ立ち塞がった。
「なりません!」
「行かせてよライナー!」
「イグナーツと院長先生を見殺しにできるか!」
またも食い下がるふたりだったが、ライナーは冷徹そうな顔に激しい感情を滲ませ、それを頑として拒む。
「なりません! 今、あなた方が行っても、死体が増えるだけです! 無駄死にさせるわけには――」
「どけ!」
不思議なことに不幸とは重なるものである……。強引に押し通ろうと、レオンハルトの手がライナーの肩を強く掴んだ――その瞬間、にわかに強い風が吹き始めた!
そのとたん、孤児院を包んでいた炎が一気に勢いを増し――。
「フローリアン様! マズいことになりましたぞ!」
――と、アインヘアが重低音ボイスを響かせた。
とっさにアインヘアの方を向いた人々は凍りつくことになる。なんと、強風に煽られた孤児院の炎が、隣家を破壊しているアインヘアの頭上をも飛び越え、風下の建物に次々と燃え移っていくではないか。
バケツリレーの効果は薄く、グラーネが運んでくる水やフローリアンたちによる破壊消防も、強風下の延焼速度にはとうてい追いつかない。このままでは……。
「エーデルベルクが、燃える……」
呆然とつぶやいたのは、レーン団の誰かか、バケツリレーをしていた夜警や住人だったか、あるいは、城や他街区からようやく到着し始めた援軍だったか……いや、この場にいる全員の心の声だったかもしれない……。
空気が乾燥するこの時期、都市住人にとって、強風に煽られた火事ほど恐いものはないのだ。
灰燼に帰すエーデルベルクを思い描き、誰しもが炎の前で背筋を凍らせた――その時。
「……アレ、なんだろ?」
ヘンゼルと寄り添い合っていたグレーテルが、沈黙する人々の作り出した短い静寂を破った。
グレーテルの視線を追い、まずはヘンゼルが空を見上げ、その行動は波紋のように人々へ広がってゆく――。
そこに彼らは見た、夜空に煌々と浮かび上がる二重の魔法陣を!
フローリアンがアインヘアを召喚した時と同じく垂直に、しかし今度は、地球の単位で二〇〇メートルほどの間隔を空けて平行に浮かぶそれが、それぞれ召喚と召喚解除の魔法陣であることは、守護者を持つレーン団になら理解できる。
だがしかし――。
「なんだ、あの大きさは……」
彼らは混乱した。小都市ぐらいならスッポリ覆いかねないほど巨大な、こんな馬鹿げた魔法陣が、果たしてこの人界に存在しているものなのか。
しかも、その巨大な召喚陣から現れ始め、召喚解除陣へ向け夜空を貫くように平行移動している、アレはなんだ……。
「召喚されたってことは、アレも守護者……なのか?」
「精霊学で習ったドラゴンよりもはるかに大きい。あんな守護者、いるはずが……」
すでに出現している巨大な姿でさえ一部分にすぎないことは、召喚陣から今も出現し続ける様子を見れば想像がつく。だとしたら、完全に召喚された時、その巨体はどれほどのものか……。
そうやって人々が呆然と見上げていた時間は、ほんのわずかなものであったが、彼らには実際よりもはるかに長く感じられた。……その音を耳にするまでの時間は。
ガシャン。
突然響いた硬質な音によって、人々は夢から覚めたように孤児院へ視線を戻し、一様に目を見張った。
轟々と燃え盛る孤児院の前、いつの間に現れたのか、漆黒の魔人が立っているではないか……。
「中に人が!」
誰もが固まるなか、真っ先に声を出せたのはフローリアンだ。それが真綾だと瞬時に判断するや否や、ひとことで彼女に現状を伝えた。
情報が少なすぎる? ……いや、そのひとことで充分。
真綾は一瞬で孤児院に接近すると炎に包まれている外壁へ手を伸ばし、なんら躊躇することもなくそこに触れ――。
「消えた……」
――そう、フローリアンが代弁してくれたように、真綾が触れた瞬間、孤児院は炎諸共に忽然と姿を消したのだ。しかも、地面の一部が深く抉られているところを見ると、どうやら地下室も一緒に消えたらしい。
膨大な容量の【船内空間】に収納されたと知る者がいるはずもなく、誰もが視覚情報を整理できないまま硬直しているが、その間も真綾は止まらない。
「おお、消えましたぞ!」
……そう、今度はアインヘアが代弁してくれたように、炎の燃え移っていた建物すべての延焼箇所を、彼女は同時に遠隔出現させた大量の泡でそれぞれ包み込み、なんと、瞬く間に鎮火してしまったのである。
この泡は熊野丸で一般火災用として実際に使われていた消火剤で、大まかに言えば水と洗剤からできている。
泡は冷却効果が高いうえ壁や天井にも留まれ、さらには酸素を遮断できるため、ただの水に比べると、はるかに高い消火能力を有しているのだ。
その泡を過剰なほど大量にかけられ、しかも、その泡は蒸発しても続々と補充されるのだから、燃え移ったばかりの炎が消えるのは当然であろう。
『どれどれ~、全部消えていますか~』
すでに全長の半分ほど召喚解除陣に突っ込んでいる本体を通し、熊野が抜かりなく空からの鎮火確認をしている一方、やはり真綾は止まらない。
孤児院跡からクルリときびすを返したと思ったら、ガシャリガシャリと歩き始めた彼女は、恐怖と緊張で凍りついている出っ歯の前でピタリと足を止めた。
(ひいぃ……。ア、アッシ、何か、カタストローフェ先生の気に障ることでも……)
などと汗ビッショリになっている彼の前でしゃがみ、黙ったまま地面に手をかざす真綾。
すると――。
「アニキィ!」
「イグナーツ!」
そこに出現したものを見たとたん、舎弟とレオンハルトが同時に叫んだ。
彼らが驚くのも無理はなかろう、孤児院の中で倒れていたはずのイグナーツが、マントからチューターの顔を覗かせたまま、キョトンとした表情で横たわっているのだから。
「す、すぐに治すでゲス!」
地獄の五日間は伊達ではない、出っ歯はすぐさま思考を切り替え、両足に重傷を負っているらしいイグナーツの治療にかかった。
その様子を見て次は自分と襟を正す白豚。彼にはわかっているのだ、このあと自分が何をすべきかを。
そんな彼の前まで真綾が歩き、今度は少し身をかがめただけで手をかざすと、そこに現れたのは、もちろん――。
「あら? ここは……」
「院長先生!」
「ね、念のため治療するブヒ!」
座ったまま目を丸くしているその人を見て、グレーテルとヘンゼルがピタリと揃った声を上げ、白豚が治癒魔法をかけようと動き始めると、ようやく硬直を解かれた人々から割れんばかりの歓声がドッと上がった。
こうして、魔法陣出現からのわずかな時間に起きた一連の奇跡によって、エーデルベルクは救われたのである。
喜びに包まれたその場所の上空で、熊野丸の船尾を呑み込んだ召喚解除陣が、静かに、そしてどこか満足げに消えていった。




