第六九話 エーデルベルクの薔薇 一二 模擬戦開始
エーリヒが廃城前で学生たちをビビらせていたころ、ニクロス川対岸にある山の崖上、誰からも忘れ去られ、ただ朽ちていくままにたたずむ、もうひとつの廃城の中で……漆黒の魔人が暗い怒りに燃えていた。
頭部両側から巨大な角が天に向かって屹立し、全身を黒光りする甲殻で覆われた魔人の、クワッと恐ろしげに開かれた口には、黄金色に輝く一対の牙。
その口から、今まさに怨嗟の声が……。
「騙された……」
…………うん、まあぶっちゃけ、この魔人、正式名称を羅城門真綾という。
彼女は羅城門家伝来の甲冑、『黒漆塗南蛮胴具足』を身に纏い、現在この場所で待機中なのだ。
兜の角の片方に蝶々結びされた赤いリボンが、真綾の女の子らしい内面を物語っていると同時に、いささかシュールでもある。
それにしても、なぜ彼女はこれほどご機嫌斜めなのだろう? 主人公だというのに出番が全然なかったことか……いや違う。
『うふふ、エーリヒ様に一本取られてしまいましたね』
「先生用の食堂……」
脳内でやわらかく笑う熊野に、未練がましい声を返す真綾……そう、彼女はエーリヒにまんまと担がれたのだ。
今朝、真綾と一緒に宿を出たエーリヒは、なぜか学院ではなく市門のほうへ向かうと、市壁外へ出るなり召喚したゴルトに彼女を乗せ、この廃城まで連れてきたのであった。
教員食堂の豪華料理を楽しみにしていたというのに、真綾が昼食用にと渡されたのは、教員食堂用のパンとチーズにハム少々、あとは水代わりのワイン一本だけ……。たしかに嘘ではない、嘘ではないのだが……。
「この恨み晴らさでおくべきか……」
『あらあら、真綾様ったら。そうですね~、憂さは溜め込まず、スッキリと晴らすに限りますね~』
血の涙を流しそうな勢いの真綾に、明るい声で余計なことを言う熊野……。
食べ物の恨みは恐ろしいと言うが、真綾の行き場なき感情をぶつけられる者がいるとすれば、それはもう、不運だったと言うより他ないだろう。
◇ ◇ ◇
さんざん学生たちを焚きつけたあと、ゴルトに跨がり自陣である城へ悠々飛び去っていくエーリヒ。小さくなってゆくその背中を見送った学生たちは、興奮冷めやらぬまま――。
「さあみんな、エックシュタイン先生を落胆させないように、完璧な作戦を立てようじゃないか!」
「ああん!? ノイエンアーレ派が偉そうに仕切ってんじゃねえよ! それになあ、相手はふたりしかいないんだ、しかも、地上には手を出さないってエックシュタイン先生が言ってくれてんだぜ? そしたら俺たちの相手は大将ひとりだけじゃねえか。そんなもん一気に数で押せばいいんだよ、この腰抜けが!」
「そうでヤンス! チマチマ小細工考えるより、誰を大将にするかが重要でゲス! まあ、逞しいランツクローンさんをおいて他にないでゲスが――」
「異議ありブヒ! みんなを従えるのはフローリアンたま以外に考えられないブヒ! ぜひとも従えられたいブヒ!」
――いつものように醜い争いを始めた……。
さらには、両派のなかでも特に強い発言力を持つ城伯二名が、ここに参戦する。
「黙れ豚野郎! 大将はランツクローンさんに決まってるだろ、あ? ノイエンアーレみたいなのはなあ、ヒラヒラしたドレスでも着て舞踏会で踊ってるほうがお似合いなんだよ」
鼻血少年あらため、イグナーツと――。
「……たしかにそのお姿は、ぜひとも拝見したい…………いや違う! 貴様、その言葉は聞き捨てならんぞ! 気品や美しさはもちろん、戦士としての実力も将としての器も、フローリアン様の右に出る者など学院に存在しないのだ!」
フローリアンを溺愛する、ライナーだ……。
まあ、両派とも自分たちの推しを大将にしたいのは当然であり、こうなることは目に見えていたのだが……。この不毛な論争に、思わぬ人物が終止符を打つこととなる。
「大将はノイエンアーレに譲る」
それまで喧々諤々としていた学生たちが、そのひとことで一斉に後ろを振り向くと、そこに、長大なランスを肩に担いだレオンハルトが、不敵な笑みを浮かべ立っていた。
予想外の展開に学生たちがどよめくなか、レオンハルトに猛然と問うイグナーツ。
「……な、なんでですか!? 学院最強のランツクローンさんが大将やるのは当然じゃないですか!」
「イグナーツ、お前たちの気持ちは嬉しいが、よく考えてみろ……。伝説の英雄が大将やらずに空中戦だけやるって言ってくれてんだぜ? これで俺が大将やったら恥ずかしいじゃねえか。……俺はな、他のことは何も考えず、あの人と正々堂々、サシで勝負したいんだ」
「ランツクローンさん……」
レオンハルトが深い青の瞳を輝かせて胸の内を伝えると、イグナーツは……いや、ランツクローン派全員が何も言えなくなるのだった。
――もしも自分に伯爵並みの力があったなら、憧れの英雄を相手にどこまでやれるか試してみたい、そして叶うならば、彼に自分を認めてもらいたい――。それは、エーリヒの英雄譚を聞いて育った少年誰もが思い描く夢なのだ。
ともかくこうして大将が決まり、ただ、作戦のほうは一向に決まらぬまま時を迎え――。
「それでは諸君、戦争を始めようか。――スゥゥゥゥ…………。ウオォォォォォォ!」
――大きく息を吸ったヴォルフスヴァルト教授が獣の声で咆哮した!
とたんに空気はビリビリと震え、森の鳥たちが一斉に飛び立ってゆく。
はるか遠くまでこだましていくその声も消えぬうち、学生たちの周囲に続々と浮かび上がる召喚陣。
ここに今、貴族同士による、十七対二の戦いの幕が切って落とされたのだ!
チョコン……。
ちんまり……。
パタパタ……。
わらわら……。
ほどなく召喚陣から出現する、こぢんまりとした守護者たち……。
ここで少々説明をしておくべきだろう……。召喚能力を得られる者、すなわち貴族は、この国の人口比率からすると極めて少ない。
しかも、その希少性は爵位が高くなるほど増すばかりで、実は貴族のほとんどが最低位の男爵である。
ゆえに、ここにいる彼ら十七名の内訳は、伯爵二名(現在、奇跡的に多い)、城伯二名、そして男爵が十三名……。つまり、彼らによって召喚された守護者のほとんどが、ラタトスクやヴォルパーティンガー、カラドリオスやコーボルト、などといった非戦闘系なのだ……。
ちなみに、この世界のコーボルトは犬系ではなく、緑の服を着て赤い帽子を被った小人なのだが、彼らにゴブリンやレッドキャップのような邪悪さは微塵もなく、外見年齢は幼児から老人まで色々であるため、組み合わせによっては、一見、小人のおじいちゃんが孫連れで遊びに来ているようにも見える。
そんな、どこかホッとする〈ふれあい小動物園〉的様相を呈しているなか――。
「俺は好きにやらせてもらう!」
召喚したリントヴルムに颯爽と跳び乗るや否や、レオンハルトはその言葉だけを置き去りに、嬉々として上空へ駆け上がっていった。
そうやって一直線に敵城へと飛びゆく若き竜騎士の姿を、ライナーの冷たく整った顔が地上から忌々しげに眺める。
「野蛮人め、何を勝手に……。しょうがない、我々は連携して敵の大将を――」
「よし! 敵の大将は俺たちが貰うぞ! 根性のあるやつはランツクローンさんに続け!」
「オオッ!」
理性的に話し合おうとしたライナーを遮り、気勢を上げてイグナーツが駆け出すと、他のランツクローン派も鬨の声を上げ、我先にと続いていった。
その様子を眼前にして、ノイエンアーレ派が黙っていられるはずもなく――。
「クソッ、アイツら抜け駆けを! ――いいかみんな! ランツクローン派ごとき野蛮人どもの後塵を拝したとあっては、誇り高きノイエンアーレ派の名折れだ! 総員突撃! フローリアン様のために!」
「フローリアン様のために!」
――などと、口々にフローリアンの名を叫び、森の斜面を駆け下りてゆく始末……。もはや、戦術もヘッタクレもなかった。
その無謀なる突撃を、ただただ痛ましげに見送るライナー。
「なんと愚かな……」
彼の呆れとも諦めともつかぬ沈んだ声が、静けさを取り戻した廃城前に虚しく流れるのであった。
◇ ◇ ◇
当然ながら最も早く接敵したのは、猛スピードで空を飛ぶレオンハルトであった。
お互いリントヴルムに跨がり空中で対峙する、若き竜騎士と老齢の竜騎士。
その片方は、恵まれた体躯に若獅子のような気迫と力を漲らせ、深い青の瞳で真っすぐに相手を見つめ、もう一方は、痩せた長身に古竜のごとき泰然自若とした気を纏い、鋭利な刃を思わせる眼光で真っ向から敵を見据えている。
どちらも手に携えた得物はランス、それも、一般騎士のものに比べはるかに長く頑丈に作られた、竜騎士専用のものだ。
先に口を開いたのは老竜騎士エーリヒのほうだった。お互いリントヴルム並みの聴力を有し、このくらいの距離なら大声を出す必要がないため、むしろ穏やかなしゃべり口である。
「お前がランツクローン家の跡取りじゃな」
「はい、レオンハルトと申します」
若き竜騎士レオンハルトは日頃の粗野な態度を控え、別人のようにあらたまった口調でエーリヒに返した。伯爵家の御曹司として育った彼は、こういう一面も持ち合わせているのだ。
そんな彼の顔をまじまじと眺め、何やらひとり納得するエーリヒ。
「ふむ、親父によう似ておるわ……。あやつは息災か?」
「はい。父へのお気遣い、心より感謝いたします」
「そうか、それを聞いて安心したわい。――ところで小僧、わしは放浪生活が長かったゆえ、貴族の堅苦しいやり取りは落ち着かんのじゃ。お前も少し力を抜いてよいぞ」
若者の瞳に闊達な本性を見たのか、エーリヒは定型文で返してきたレオンハルトにそう言うと、片眉上げてニヤリと笑った。
すると、深く息を吐いてから、同じくニヤリと笑うレオンハルト。
「そう言ってもらえると助かります、俺も堅苦しいのは性に合わないもんで。――エックシュタイン先生、あなたのことは物心つく前から聞いてます。数々の武勇伝はもちろん、若いころの親父が死ぬほどしごかれたことも」
「あやつは最初、図に乗っておったからのう……」
打って変わって屈託のない様子で話し始めたレオンハルトに、おそらくこれが素の彼なのだろうと納得したあと、エーリヒは昔日を思い出すように遠い目をして答えた。
竜騎士の列に加わったばかりの生意気な青二才を、先輩として指導してやったのはいつだったか……。
「うちの親父、すっかり心をへし折られたそうですね。あなたの前で粋がったことを心から後悔してましたよ」
「そうかそうか」
後輩竜騎士の顔を思い浮かべたエーリヒが、カカカと愉快そうに笑い始めると、レオンハルトも釣られて笑い出す。
竜騎士たちの上げる笑い声が、秋の透明な空にしばらく響いたあと――。
「――さて、そろそろ殺るか」
エーリヒが鋭い眼光を光らせてそう言うと――。
「はい、殺りましょう」
――レオンハルトは、深い青の瞳を輝かせて応じた。
人竜一体となった竜騎士たちの戦いが、今ここに始まる。




