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第六七話 エーデルベルクの薔薇 一〇 謎の老貴族


 学生食堂に謎の三人組が現れた日の翌朝――。


 真綾とエーリヒは発注していた服を受け取るために、散歩がてらシュナイダー商会を再訪していた。


「いかがでございましょう……」


 真綾たちを前回も迎えた特別応接室の中、戦々恐々といった様子で顔色を窺うウルリヒに、エーリヒは軽く腕を曲げ伸ばししてから言葉を返す。


「うむ、着心地は申しぶんないな。――マーヤ、どうじゃ、似合うか?」

「うん、いい感じ」


 椅子に座り来客用の高級菓子を貪っていた真綾が、エーリヒに感想を聞かれてビシッとサムズアップすると、ウルリヒの口から安堵の息が漏れた。

 今、エーリヒの身を包んでいる衣装こそ、一昨日ここで発注していたものである。色合いは渋くまとめられ派手さはないが、着る者の気品と威厳を引き立てるデザイン、素人目にもわかる上質な素材と丁寧な仕事……。短期間でよくもここまでと感心せざるをえない、素晴らしい作品であった。

 そして、それを着ているのは、真綾たちのおかげで気力を取り戻し、ゴルトとの再契約により力を取り戻したエーリヒである。それも、昨夜は宿で念入りに全身を洗ったうえ、先ほどシュナイダー商会で髪とヒゲを整えられたばかり。

 長年にわたる厳しい放浪生活のせいで、すっかり老け込み痩せこけてしまってはいるものの、そこにあるのは、睨まれただけで跪きそうになるほどの威厳に満ちた、レーン宮中伯領の重鎮の姿であった。

 この姿なら、もう彼のことを浮浪者などと思う者は、ひとりもいないだろう。


「ウルリヒよ、見事な仕事じゃ」


 真綾からのお墨付きを貰い満足そうに頷いたエーリヒは、ウルリヒの顔を真っすぐ見据えて称賛した。

 そのひとことを聞くや否や、ウルリヒは弾かれたように跪いて頭を垂れる。


「ははあっ! お褒めに預かり、恐悦至極でございます!」


 彼の目に浮かぶ涙を誰が笑えようか、エーリヒが褒めてくれたこの服は、父の最も尊敬していた人物に認めてもらうことこそが最高の手向けになると信じ、彼率いる今の商会の誇りを懸けて仕上げた作品なのだから。

 ようやく本当の意味で商会を継げたと、跪いたまま目頭を押さえるウルリヒ。

 その様子をしばらく眺めてから、もう一度満足げに頷いたエーリヒは、最後の菓子へ手を伸ばしている真綾に向き直った。


「さてと、これでひとまず準備はよいか……。マーヤ、わしはこれから学院を少し覗いてから城へ行くのじゃが、場合によっては明日からしばらくの間、マーヤにも学院へ行ってもらうやもしれん。よいかの?」

「…………」


 エーリヒからの頼みに、ただ沈黙で返す真綾……。学院と聞き、苦手な勉強でもさせられるのかと警戒したようだ。

 断固として勉強を拒否しようとする真綾の態度に一瞬怯むと、エーリヒは慌てて説得を始める。


「…………。いやいや、そう身構えるな。何も学生になれというのではないぞ、わしの手伝いを頼みたいのじゃ。それにのうマーヤ、教授陣の大半は当主を引退した貴族じゃ、つまり、年若い学生などより舌が肥えておる。当然ながら教員専用の食堂は学生食堂よりも――」

「手伝う」

「…………う、うむ、それでは頼むぞ……」


 食堂と聞いたとたん快諾した真綾に、またもや怯むエーリヒだったが、どうやら帝国最強の竜騎士は、そろそろ彼女の操縦にも慣れてきたようだ。


      ◇      ◇      ◇


 グリューシュヴァンツ帝国の次代を担う貴族を養成するだけあって、ヘッケンローゼ帝立学院の施設はどれも立派な造りをしている。

 勉学の場ということで宮殿のような派手さはないものの、細部にまで手の込んだ装飾を施された二階講義室に、朝一番の講義を待つ学生たちがたむろしていた。

 彼らがいったい何を話しているのか? 無論、昨日の午後から学院中の話題をさらっているといえば、ひとつに決まっているではないか――。


「そんなに美人だったのか?」

「美人? そんなひとことで片付けられるモンじゃねえよ。――なあ」

「――ああ。……光の加減で青みがかって見える黒髪、東方の白磁のように艷やかで白い肌、エルトリアの女神像もかくやという完璧な美貌……ああ、また来てくれないかなあ、学食の女神様……」

「だよなあ……」

「くそう! 混んでる時間を避けようなんて考えた俺がバカだった!」


 友人たちの恍惚とした表情を見て心底悔しそうに机を叩いたのは、昨日の昼に学食へ降臨したという女神様を見そびれた学生だろう。……どうやら真綾には、新たな呼称が加わったようだ。

 そんな感じで学食の女神様のことを語り合う彼らの耳に、すぐ後ろから高く澄んだ声が――。


「ねえ、その女の人って、スラッと背の高い人じゃなかった?」

「そうそう、この学年の誰よりも高いんじゃ――フローリアン!?」


 きれいな声の問いかけに振り向いて答えた学生と、同じく振り向いた仲間たちは、そこにアッシュブロンドの髪と可憐な顔を見つけると、仲良く揃って息を呑んだ。

 ところで、皆に一目置かれるレオンハルトを家名で呼ぶ者が多いのに対し、フローリアンはファーストネームで呼ばれることが多いのだが、これは気さくで親しみやすい人柄ゆえであろう。


「そうか……。ありがと、じゃあね」


 ひとり納得したらしいフローリアンがニコリと笑って席へ戻ると、近距離で可憐な笑顔を見せられた学生たちは、揃いも揃って頬を染め、華奢な背中を見送るのであった。

 そんなクラスメイトたちの眼差しなど露知らず、席で待っていた長身痩躯の学生に話しかけるフローリアン。


「やっぱりあの人で間違いないね、あんなにきれいな女の人、そう何人もいるはずないから……」


 そう言いながら、尋常ならざる真綾の美貌と、彼女に屈託のない笑顔を向けていたレオンハルトを思い出して、フローリアンの胸は少し苦しくなった。


「フローリアン様……。それにしても、あの女性、いったい何者なんでしょう。昨日目撃した者らの話では、部外者立ち入り禁止の学生食堂へ堂々と入り、あまつさえ食事……それも、おかわりまでして悠々と帰っていったそうですが……」


 フローリアンに話しかけられた学生、ライナーは、可憐な顔が曇ったことに心を痛めつつ、学食の女神様と呼ばれる謎の女性について思考した。


(学生たちのなかには、規則にうるさい者もいれば特権意識の塊のような者もいる。にもかかわらず、あの女性が食事を終えて帰るまで、誰ひとりとして注意することができなかった。……いったいどういうことだ? 美しいから……などというだけでは説明がつかない。……まさか、気圧された? 守護者を持つ者まで含めた学生全員が? その場には伯爵位にある者も居合わせたと聞くぞ……)

「ところでライナー」

「……あ、はい」


 思考の海を漂っていたライナーだったが、高く澄んだ声に引き揚げられると慌てて返事をした。

 そんな彼に、フローリアンは残酷な現実を突きつける。


「部外者といえばね、さも当然のような顔でライナーはここにいるけど、いいのかな? きみは最上級生だよね?」

「フッ、何かと思えばそのようなことですか。……フローリアン様はマルクト広場で野蛮なランツクローンめを見かけた時から、いささか元気を失くしていらっしゃるご様子……。そのような状態のあなたを、この私が放っておけるはずがないではありませんか。私のことでしたらご心配なく。留年すればもう一年長くフローリアン様とご一緒できるのです、むしろ本懐と言っても過言ではございません」


 過保護ここに極まれり……。ライナーの常軌を逸した発言に、近くの席で聞き耳立てていた学生たちもドン引きだ。


「こら、ライナー! さらっと留年なんて言っちゃダメだよ! ほらほら、早く自分の講義に戻って」

「ハア……。残念ですが、フローリアン様のご命令とあらば……」


 フローリアンに追い立てられ、後ろ髪引かれる思いで講義室を出ていくライナーと、そんな最上級生の背中を形容しがたい表情で見送る学生たち……。もはや日常の光景である。


「……ホントに留年しそうで怖いよ……あれ?」


 心配そうにライナーを見送ったあと、なんとなく窓の外へ視線を移したフローリアンは、見かけない人物の姿を地上に認めて小首をかしげた。

 髪とヒゲが白く高齢らしいその人物は、遠目にも立派な出で立ちから、有力貴族であることが一目瞭然だ。

 彼を案内しているらしい副学院長の緊張した様子からも社会的地位の高さが窺えるし、何より、レオンハルト並みの長身に纏っている鬼気が――尋常ではない。


「うわぁ、おっかなそうな人だな~、新しい教授かな? でもあの人、どっかで会った気がするんだけどな~」


 ふたたびフローリアンが小首をかしげていると、副学院長に連れられたまま、件の人物は視界から消えていった。


 だがしかし、それは序章にすぎなかったのだ――。


「あれ、誰だ?」

「知らん、新しい教授じゃないか?」


 講義の最中、講義室の隅を気にしつつ、ヒソヒソと話し合う学生たち。

 そして、校舎前にある学院広場での剣術訓練中も――。


「おい、あのジイ様、こっち睨んでるぞ……」

「なんて凄まじい眼光なんだ……」


 広場の隅を気にしつつ、青い顔で剣を振るう学生たち。

 さらには、昼時を迎えた学生食堂でも――。


「おい! もう一度言ってみろ!」

「ああ何度でも言ってやるさ、きみたちのような小心者は誇り高きレーン団の面汚しなんだよ!」

「てめえ! 人のことが言えるのか、この腰抜けが!」

「ヒヒッ、まったくそのとおりでヤンス。コイツら口ばっかりで、学食の女神様と目も合わせられなかった臆病者でゲスよ」

「学食の女神様? ハハッ! たしかに彼女は女神のごとき美しさだったが……背が高すぎる! 小柄で可憐なタイプだけを偏愛する僕らにとっては、フローリアン様こそが至高の存在さ」

「そそ、そうだ! お前らには嗜好の多様性というものがカケラもわかってないブヒ! たしかに学食の女神様が美しいのは認めるけど、崇拝の対象としてしか見られないブヒ! ぶっちゃけクール系長身女子は僕の守備範囲外ブヒ! イマイチ食指が動かないブヒ! 明るくてあどけないフローリアンたまこそが正義ブヒ、あ、あの華奢で小さい手を見るだけで、ペロペロ……いや、守ってあげたいと思え……る…………」


 変態か……。

 相変わらず醜い言い争いをしていたレーン団の面々だったが、色白ぽっちゃり系学生が業の深い発言の途中で何かに気づいたらしく、徐々に声のトーンを落としていくと、彼の視線を追って……今日も固まった。


「あ、……あのジイさん、講義中にいたやつだ……」

「たしか、僕らの剣術訓練中にもいたよね……」

「あれは人殺しの目ゲス……」

「ブ……ブヒ……」


 開け放っている窓の向こうに彼らが目撃したもの……それは、悪鬼のごとき形相で自分たちを覗いている老貴族の姿であった……。

 こうして、朝から学院各所で目撃された謎の老貴族が、学食の女神様の話題に取って代わったこの日の夕刻、とある講義室の中で――。


「――以上の者は、明朝六時に学院広場へ集合するように」

「教授、どうして僕たちだけなんですか?」


 教師生活二十年を数える老教授からの急な通達に、名を呼ばれた学生のひとりが質問した。

 彼……いや、指名された全員が困惑していたのだ、二十人いる同級生のうち、どうして自分たち三人だけが、と……。


「君たちは特別に選ばれたのじゃよ、喜びたまえ、これは名誉なことじゃ。それに、きみたちだけではないから安心したまえ、今ごろは他の学年でも同様に指名されておるはずじゃ」

「……じ、じゃあ教授、そんな朝早くから集合して何があるんですか?」


 老教授の今ひとつ答えになっていない答えに困惑を深めつつ、さらに質問を重ねる学生。

 すると老教授は、指名された学生ひとりひとりの顔をゆっくり見回したあと――。


「楽しい楽しいピクニックじゃ」


 ――そう答え……ニタリと笑った。




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