第三問 ~鉄塔の上のパフェ~
以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。
【鉄塔の上のパフェ】
「海外赴任!?」
喫茶店のマスター、木嶋は、常連客である舟木 俊彦の言葉に驚きの声を上げた。俊彦は二十代も半ばを過ぎ、海外赴任の話があったとしてもおかしくはない。だが、マスターにとってその話は信じがたいことだった。コーヒーを俊彦の前に置き、マスターは確認するように言った。
「本当に?」
「……受けようと、思ってる」
コーヒーカップを手に取り、しかし口を付けずに、俊彦は揺れるコーヒーの表面を見つめている。一般的に見れば栄転だろう。しかし俊彦の顔に喜びはなく、むしろ迷いとためらいがあった。
「美也ちゃんは、知ってるのか?」
マスターの言葉に俊彦は首を横に振る。
「美也は今、おこもりの最中だよ」
カップのコーヒーにさざ波のような波紋が広がった。
橘 美也と出会ったのは大学の文芸サークルだった。二つ下の後輩として入部してきた美也は、あまり社交的なタイプの人間ではなく、独りで黙々と作品を書き続けていて、サークル内でも浮いた存在だった。その文芸サークルはプロを目指す本気勢と楽しむことを優先する趣味勢に二分されており、本気勢は本気勢同士で作品を読み合い、趣味勢は趣味勢で互いの作品を楽しんでいたため、そのどちらにも属さず自分の作品とだけ向き合う美也は『変わり者』のレッテルと共に距離を置かれていた。
一方の俊彦は趣味勢に属しており、しかし内心ではあわよくばと密かに期待している『隠れ本気勢』だった。本気勢に作品を見せて辛辣な批評をもらう勇気はなく、公募への挑戦は『記念に』とうそぶきながら、落選の報に肩を落とす日々を送っていた俊彦は、ある日偶然に美也の書いた原稿を目にする。そこに書かれていた言葉は、俊彦を別世界へと連れ去った。
「すっげー面白かった! これ、続きどうなんの!?」
置き忘れた原稿を取りに来た美也にそう興奮気味に話しかけて目を白黒させたのが、俊彦が美也に言った最初の言葉になった。美也は顔を真っ赤に染め、原稿をひったくってそのまま逃げ去ってしまい、俊彦は「失敗したな」と頭を掻く。でも、本当に面白かったのだ。今まで自分が読んできた数多の物語と比べても、一番と言えるくらいに。続きを読ませてはくれないだろうな、とため息を吐いた数日後、俊彦の前に現れた美也は彼に原稿を押し付け、やはり無言で逃げ去っていった。
それから二人は書き手と読み手の関係になった。定期的に美也の書いた原稿を俊彦が読み、感想を伝える。正確に言えば、俊彦は「面白かった」「ここが好き」「この次どうなるか気になる」という、漠然としたことしか伝えなかった。それは具体的な論評など望むべくもない自身の語彙の乏しさである以上に、美也の創造性を歪めたくないという思いだった。自分の言葉が彼女の世界を歪めてはならない。奇妙な義務感と共に、俊彦は読み手としての領分を守り、ただ美也の執筆をそっと後押しすることに努めた。
二人の関係は俊彦が大学を卒業し一般企業に就職してからも、美也が市の臨時職員として働きはじめてからも続いた。俊彦は卒業と共に執筆を諦めたが、美也が書くことを諦める様子はなかった。公募には落選続きだったが、「見る目がない」と憤る俊彦に笑って、美也は新たな物語を創り続けている。
揺れるコーヒーの表面を見つめながら、俊彦の瞳はどこか寂しげだった。美也は執筆する時は外界との接触を断ち、いかなる連絡も受け付けない。俊彦はそれを『おこもり』と呼んでいた。彼女の紡ぐ物語にある独特の揺らぎ、不安定さはおそらく、その独りの時間が生み出しているのだろう。それは彼女の作品の本質的な魅力の源泉であり、同時に万人には受け入れがたい作品になっている原因でもある。しかし俊彦は確信していた。彼女の作品は必ず世に受け入れられる日が来る。このか細い糸を手繰るような不確かな未来を生きなければならない、今の世界に、必ず。
「ちゃんと話し合ったほうがいい。じゃなきゃ後悔するぞ」
マスターは真剣な表情で俊彦を見据える。俊彦は少しだけ虚ろな笑みを浮かべた。
「彼女を、愛してる。でもそれは、きっと、違うんだ」
初めて彼女の物語に触れた時、心臓を掴まれたような気がした。自分がずっと求めていた物語。それを、自分以外の人間が書いたのだと、その事実が俊彦を打ちのめした。自分が書く必要などない。自分が書けなかった物語を、自分よりはるかに素晴らしい形で創る誰かを見つけてしまったのだから。あの瞬間に、俊彦は心の中で筆を折ったのだ。
一人の女性として、彼女を愛している。しかしそれは彼女の才能を潰すこと。そしてもしかしたら、俊彦の醜い嫉妬の現れなのかもしれない。愛してる、共に幸せになろう、そう甘く囁いて、彼女の人生を凡百のものにしたいだけなのかもしれない。自分が届かなかったものに彼女が届くことが許せず、愛を騙っているだけなのかもしれない。ただひたすらに執筆に打ち込む彼女の傍らでそう葛藤することに、俊彦は疲れていた。
「……彼女はきっと、鉄塔の上のパフェ、だったんだよ」
重いものを全て吐き出すように息を吐き、口を付けなかったコーヒーを残して、俊彦は喫茶店を後にした。何も言うことができず、マスターは俊彦の背をただ、見送った。
行きつけの喫茶店に向かう道を、美也は息を弾ませて駆けていた。すれ違う人は皆、何事かと眉を寄せる。大人が全力に近い速度で道を走る姿などなかなか見るものではない。しかし美也は周囲の視線など気にも留めず、喫茶店を目指していた。
彼女の手にはたった今書き上げたばかりの原稿がある。この物語を最初に読んでもらう相手は一人しかいない。休日のこの時間、彼はきっとあの喫茶店にいるに違いないのだ。美也は想像する。彼がこの物語を読み終えたとき、いったいどんな顔をするのだろう。この、あなたへの恋文のような物語を。
「マスター! 俊彦、いる?」
喫茶店の扉を開け、美也は弾む息のまま、わずかに頬を赤く染めてそう言った。来客を告げるカランというベルの音が店内に響く。マスターは驚き、そして複雑な表情で美也を見つめた。
大好きだけど、届かない。
届かなかったんだよ。