第二問 ~ハム造~
以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。
【ハム造】
小学校の帰り道、自宅と学校のちょうど真ん中にある小さな公園に足を踏み入れ、遠藤 翔太は警戒心も顕わに周囲を見渡した。誰かに見つかると厄介だ。誰にも隠しておきたい秘密が、この公園にはある。
懐に手を突っ込み、いつでも取り出せる準備をしておく。背を少し丸め、いつでも走って逃げることができるよう神経を尖らせながら、翔太はこそこそと公園の奥に進んだ。滑り台も砂場もブランコも眼中にない。翔太が目指すのは公園の奥の奥、あまり手入れのされることの無いこの公園の中で最も放置された場所、ぽつんと一本だけ生えているひょろ長い大木の陰だ。
翔太は慎重に、しかし迷いなく歩を進める。生い茂る雑草を踏むとガサリと意外に大きな音がした。木の陰に、何かがのそりと身を起こす気配が伝わってくる。逸る気持ちを抑え、翔太が背丈ほどもある雑草をかき分けると、そこには――
「わふっ!」
ぱたぱたとしっぽを振るのは一匹のゴールデンレトリーバー。大きさは翔太と同じくらいの、もう十歳をはるかに超えているであろうお年寄りだ。その老犬は翔太に飛び掛かり、押し倒し、うれしそうに顔を舐める。
「こら、やめろって! くすぐったい!」
笑いながら老犬を引きはがし、翔太は上半身を起こした。くぅん、と残念そうに老犬が鳴く。翔太は老犬の頭を撫でると、ずっと懐に隠していたものを取り出した。それはドッグフード、それもパテタイプのシニア用総合栄養フードだ。包みを開けて差し出すと、老犬はふんふんと匂いをかぎ、そして一心不乱に食べ始めた。
「大事に食えよ。それで今月のお小遣いがパァなんだからな」
おいしそうに食べている老犬を、翔太は満足そうに眺めていた。
翔太がこの老犬と出会ったのは、おおよそ一週間前の事。朝、お姉ちゃんとケンカをして負け、むしゃくしゃした気分で学校での時間を過ごした帰り道、そのまま家に帰る気にならずにこの公園に立ち寄った時だ。子供たちからほとんど見向きもされない小さな公園は、いつも静かで、まるで時間が止まっているかのようだった。誰にも会いたくない気分の時にはちょうどいいかもしれないな、そう思って足を踏み入れた翔太の耳に、ひどくか細い鳴き声が届いた。
――くぅん
それは悲しげな、寂しげな、まるで助けを呼ぶような声で、翔太はおそるおそる鳴き声の聞こえたほうへと向かった。それは雑草の生い茂る公園の奥から聞こえてくる。ガサリと音を立てて雑草をかき分けると、そこにいたのは、地面に伏してじっと何かを待っている、一匹の老犬だった。老犬は翔太の立てた音に反応して顔を上げ、そしてがっかりしたように再び身を伏せる。翔太は老犬を呆然と見つめた。
「……おまえ、捨てられたのか」
首に残る首輪の跡が、この老犬がつい最近まで誰かに飼われていたことを伝える。翔太を見ても警戒する素振りもないのは人慣れしているからだ。翔太はそっと老犬に近付き、その傍らに座って頭を撫でる。老犬は気持ちのよさそうに目をつむった。翔太の目から涙がこぼれる。
――この命を、救わなければ。
乱暴に涙をぬぐい、翔太は決意の眼差しを老犬に向けた。
翔太の住むアパートはペット不可で、自宅で飼うという選択肢はない。引き取り手を探すべくクラスメイトを当たってみたが、すでにペットを飼っていてこれ以上は無理だったり、両親が動物嫌いだったり、どうせ飼うなら仔犬がいいと言われたりして、うまくいかなかった。とりあえず食べる物だけはお小遣いで用意したが、それも今日で尽きた。完全な手詰まり。しかし諦めるわけにはいかない。これは、命の問題なのだ。
「父さんに相談してみるか」
ご飯を平らげて無邪気な瞳でこちらを見ている老犬を撫でながら、翔太は呟く。父さんは、こう言っては何だが、こういう時に役に立ったことがない。望みは薄そうだが、母さんよりはまだ話を聞いてくれる可能性があった。ごくまれに発揮される父さんの男気がこのタイミングに起こる奇跡に期待するしかない。どう話を持っていくか、翔太は目まぐるしく頭を回転させていた。だから――周囲を警戒することを、忘れていた。
「こら、遠藤! こんなところで何をしてる!」
急に後ろから声を掛けられ、翔太はびくりと身体を震わせて振り返った。そこにいたのは一人の中年――体育教師の郡山だった。いつもジャージ姿で、声が大きく、あれこれと口うるさく、すぐに怒鳴る。生徒から嫌われている先生ナンバーワンの地位を不動のものにしている男だ。そのいかつい顔から、生徒は皆、彼のことを『ゴリ山』と呼ぶ。
「ゴ……郡山先生。どうしてここに?」
さりげなく老犬をゴリ山の目から背に隠すよう身体の向きを変えながら、翔太は引きつった笑顔を浮かべた。あのゴリ山が、捨て犬に対して優しい態度を取るとはとても思えない。取って喰う、とは言わないが、通報したり、あるいは保健所に連れていくということは充分にあり得る。殺処分、という言葉がよぎり、翔太は慌てて首を横に振った。
「近所の方から学校に電話が入ったんだよ。『おたくの小学校の生徒が、公園で野良犬を餌付けしている』ってな」
ゴリ山は腕を組み、威圧的に翔太を見下ろしている。「余計なことを」と翔太は内心で苦々しく思った。誰にも見つからないように注意していたつもりだったが、周囲の目を完全に欺くことはできなかったのだ。しかし、よりによってゴリ山にそのことが伝わるなんて。人間の心を持っているかどうかも怪しい、この男に。
「野良犬にエサをやるのは禁止されている。ついでに下校途中で通学路から外れた場所に行くことも禁止だ。バカなことをしてないで、早く帰れ!」
……バカなこと? 威圧的に怒鳴るゴリ山の言葉は、翔太の心の深い場所を鋭く貫いた。バカなこと? 人の都合で捨てられた、この命を守ることが、バカなことなのか?
「……バカなことって、何ですか?」
翔太のつぶやきにゴリ山は眉を寄せる。翔太はキッとゴリ山をにらみ上げた。
「この子を助けることはバカなことですか? 捨て犬なんて死ねばいいってことですか? 誰かの勝手な都合で捨てられた命を、助けたいと思うのはバカなんですか!?」
ゴリ山は驚いたように軽く目を見張る。しかしすぐにフンっと鼻を鳴らし、冷めた目で翔太を見据えた。
「公園で一日一回エサをやることが、その犬を助けることか? そんなはずないだろう。助ける、とは、責任を持つ、ということだ。その犬が病気になったら、お前に何ができる? 真夏の暑さから、真冬の寒さからどう守る? そもそもエサにしたって、これからずっと毎日用意し続けることができるのか? お前が風邪でも引いたとき、高熱だろうが悪寒がしようが必ずここに来てその犬にエサをやり続ける覚悟があるのか?」
翔太の目が揺らぎ、反論が封じられる。この場所が老犬にとって良い環境ではないことは翔太にも理解できた。病気になった時、病院に連れていって、その治療費を払うことができるのか。風邪を引いた時、這ってでもここに来てこの子の世話をする覚悟があるのかと問われれば、ある、と答える勇気は翔太には無かった。ゴリ山はわずかに失望を示すと、事務的な声音で言った。
「下校中の寄り道は禁止だ。さっさと帰れ!」
そしてゴリ山は翔太の手を掴み、強引に公園の外へと連れ出した。翔太の背を軽く押し、ゴリ山は再び公園の中へと戻っていく。もしや、いやきっと、ゴリ山はあの子を『処分』するつもりなのだ。翔太はギリリと奥歯を噛んだ。
翔太には、あの子を守り続けることを誓う勇気はない。しかしあの子の命が失われることを、黙って見ているわけにもいかなかった。確かに、翔太ができることは少ないかもしれない。だからといって、すべてを完璧にできないならすべてを諦めろ、という主張は受け入れられない。それを受け入れてしまえば、その代償を払うのは翔太ではなく、罪のない一匹の老犬なのだ。
翔太は意を決し、気付かれぬよう注意しながらゴリ山の後を追った。気付かれさえしなければ、必ず隙を見せるはずだ。身を低くし、息を殺して、翔太はそっと公園の奥を覗き込んだ。ゴリ山は老犬の前に膝をつき、翔太の前では決して見せないような、柔和な笑みを浮かべていた。
「よし、じゃあウチの子になるか!」
そう言うなり、ゴリ山は老犬を軽々と抱きかかえ、鼻唄交じりに公園を後にした。その背を見送り、翔太は呆気にとられた表情を浮かべる。
「なんだよ、ゴリ山のやつ……」
信じられない、という気持ちが、翔太の口から思わずこぼれた。
「ジャガイモ野郎だって、ずっと、思ってたのに、ハム造だったんじゃん」
ゴリ山は最初から、あの子を助けるつもりだったのだ。翔太にできないことが自分にはできる。あの子の命と未来を守る意思と能力がある。その覚悟が、ある。
なんだか急におかしくなって、翔太は吹き出すように笑った。そして、早く大人になりたいと、強く思った。
「ちょっとアンタ、またなの!? もう五匹目よ!?」
「だ、だって、放っておけないじゃないか」




