表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

第十問 ~男やもめがぬか床を混ぜる~

以下の言葉を使って短い文章を作りなさい。

【男やもめがぬか床を混ぜる】

 その男は今日も喪服を着ていた。


 仏壇に手を合わせ、固く目を閉じる男の背を、如月(きさらぎ) 有希(ゆき)は悲しげに見つめる。また少し痩せただろうか。右手の薬指に嵌められた婚約指輪が痛ましさを強調するように光った。対になる指輪の持ち主はもういない。しかし男は現実を拒み、自ら時間を止めている。




 初めてこの男に会ったのは、もう五年ほど前になるだろうか。盆も正月も大型連休にもなんだかんだと理由をつけて帰省してこなかった長女――佐那(さな)が急に帰ってくると言いだし、どういう風の吹き回しかと不審に思いながら出迎えてみれば、驚くべきことに婚約者を連れてきた。押しに弱そうな、優しい雰囲気の青年。ガチガチに緊張している青年の腕を取り「この人と結婚するの」と宣言する佐那は、有希が今までに見たこともない穏やかな表情をしており、子供だとばかり思っていた娘がこんな顔をするようになったのだと妙な感慨を覚えたものだ。

 お約束のように「娘さんを僕にください」と頭を下げた青年に、


「本当にいいの? 返品は不可よ?」


と有希は確認し、佐那に怒られた。青年は真剣な様子で


「今のところ返品の予定はありません」


と答え、やはり佐那に怒られた。佐那の妹、莉子(りこ)が呆れたように笑う。初対面は終始和やかな雰囲気に包まれていた。「ああ、この子は幸せになるのだ」と、なんとなく安心したことを憶えている。早くに夫を失い、多くの我慢を娘たちに強いてきた。だからこそ、誰よりも幸せになってほしい。その願いはこの青年が叶えてくれるに違いないのだと、確信めいた思いをその時、抱いていた。


 それなのに――


 病院に駆け付けた時、彼は真っ青な顔をして立ち尽くしていた。涙を流すことさえ忘れているように、ただ、立っている。表情はなく、虚ろな瞳には何も映していないようだった。


「……階段から、足を滑らせたんじゃないかって」


 ベッドに横たわる佐那の身体はすでに整えられており、一見すると眠っているだけのようだった。うわごとのように彼はぽつり、ぽつりとつぶやく。


「式の、打ち合わせを、しよう、って……」


 仕事終わりに駅で待ち合わせ、結婚式場のスタッフとの打ち合わせに向かう。打ち合わせは初めてではなく、今までも同じように何度も待ち合わせをしていたのだ。その日だけが特別だったわけではない。それなのに、その日、佐那が待ち合わせ場所に現れることはなく、警察からの連絡で病院に駆けつけたときにはすでに、目を閉じていた。




 祈りを終え、男が顔を上げた。佐那の死から今日で丸三年になる。病院で会って後、男は有希の知る限りいつも喪服を着ている。通夜も、葬儀も、四十九日も納骨も一周忌も三回忌も、そして今日も。無論普段は別の格好をしているのだろうが、その姿が想像できないほどに彼は憔悴し、後悔に苛まれているように見えた。人生に倦み疲れた老人ならばともかく、まだ二十代であるはずの彼の今の姿は、ただただやりきれない。


「……隆俊(たかとし)さん」


 有希は男――隆俊に声を掛ける。きっとこのままではいけないのだ。彼が娘をこれほどまでに愛してくれていることを、嬉しく思う気持ちもないわけではない。しかし娘が愛したこの青年がこのまま不幸に沈む姿を、有希は座視することができなくなっていた。


「お話があります」


 有希の改まった口調に、隆俊は訝るような表情を浮かべる。隆俊に椅子を勧め、自分も席に座ると、有希は隆俊の目を見据えてはっきりと言った。


「今日を最後に、もうここには来ないでほしいの」

「えっ?」


 まるで予想していなかったのだろう、隆俊は大きく目を見開いた。


「どうして?」

「佐那が亡くなって三年が経ったわ。もう頃合いだと思う」


 まったく理解できないというように、隆俊の目に戸惑いと怒りが浮かぶ。有希はその視線を受け止め、冷静な態度のまま言った。


「あの子を愛してくれたことには、本当に感謝しています。でもね、隆俊さん。それがあなたの人生にとって害になるなら、捨てなければならないのよ」


 隆俊は鋭く有希をにらむ。


「彼女と過ごした日々は、僕の人生の大切な一部です。害になどなるはずがない!」

「一生、喪服を着るつもり?」


 隆俊の怒りにも有希は動じない。


「男やもめがぬか床を混ぜるあなたの姿を、あの子が望んでいるはずがない。あなたはもう、歩き出さなければならないの」


 有希は手に持っていたものを隆俊の前に置いた。それは、隆俊が佐那に送った婚約指輪。冷酷にも聞こえる声音で、有希は隆俊に宣告する。


「隆俊さん。あなたと娘の婚約を解消させていただきます。今日、この時をもってあなたと私たちは赤の他人よ。あなたはあなたの人生を生きなさい」


 隆俊は佐那の婚約指輪に手を伸ばす。指輪を握り締め、隆俊は感情を閉じ込めるように目を閉じた。




 如月家を辞し、隆俊は目的地もなく歩いていた。まっすぐ家に帰る気にはならない。霧がかかったように思考がぼんやりとしている。自分が本当に生きているのかどうかも判然としない。

 有希はどうしてあんなことを言いだしたのだろう。佐那を失った悲しみを、苦しみを忘れることなどできるはずもない。時間が経てば癒えるような、紛い物の愛ではないのだ。彼女のいない人生に意味などない。彼女を失った今、自分の人生に意味を見出すことなどもはや不可能だというのに。


「……義兄さん」


 遠慮がちに掛けられた声に、隆俊は振り返った。声を掛けてきたのは如月 莉子。佐那の妹だった。莉子の表情には迷いと躊躇いが混在している。


「どうしたの?」


 何か話しづらいことでもあるのだろうか? もっとも、婚約を解消され縁を切られること以上に辛い話題などそうはないだろう。隆俊は莉子に話を促す。小さくうなずき、莉子は口を開いた。


「お母さんには、口止めされていたんだけど、やっぱり義兄さんにも伝えたほうがいいと思って」


 口止めをされていた、ということは、有希は何か隆俊に知られたくないことがあったのだろうか? 隆俊は莉子の話の続きを待った。緊張しているのだろうか、莉子は覚悟を決めるように深呼吸すると、真剣な瞳で隆俊を見つめた。


「この前、刑事さんがウチに来たの。お姉ちゃんの事故の担当だった人。その人がね、言ったんだ。お姉ちゃん――」


 一度言葉を切り、莉子は唇を湿した。その声がわずかに震える。


「――事故じゃ、ないかもしれないって」


 莉子の言葉が、ゆっくりと隆俊に沁み込んでいく。頭の中の霧が急速に晴れていく。死人のようだった瞳に光が灯った。


「詳しく、聞かせてくれる?」


 気圧されたように莉子がうなずきを返す。三年前に止まった時間が、動き出そうとしていた。

やがて彼は知ることになる。

この国の闇にうごめく巨悪の存在を。

そして戦いを挑むのだ。

喪服の姿で、たった独りで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ハマりすぎてて何の違和感もなく読んでしまい、あとで課題に気づきました。これは慣用句として使えるレベルでは……!? そしてすごいことが起こるんですね(笑)
[良い点] 切な苦しい泣ける展開でのドンピシャの差し込みでした♪ このラストの話で、ようやく『意味は分からないがなんとなく伝わる』、『意味は分からないがなんとなく伝わる おかわり』に思いいたりました…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ