第五話 現実、らしい
目が覚めてから、一か月が過ぎた。
最初は、指一本動かせなかった。
今は、誰かに支えてもらえば歩ける。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
前へ進めるようになっていた。
◇
「今日も頑張りましょう。」
理学療法士が笑う。
「はい。」
ベッドから立ち上がる。
足に力を入れる。
震える。
一歩。
止まる。
もう一歩。
息が上がる。
たった数歩なのに苦しかった。
「今日はここまで。」
「……ありがとうございました。」
ベッドへ座る。
情けなかった。
異世界では。
魔王を倒したのに。
今は歩くことすらできない。
思わず苦笑いした。
「比べる相手がおかしいか。」
◇
夜。
一人になる。
窓の外を見る。
街の灯り。
車の音。
どこにでもある景色。
でも。
まだ慣れなかった。
目を閉じる。
丘の上。
焚き火。
笑い声。
全部思い出せる。
思い出せるのに。
もう会えない。
「……会いたいな。」
小さく呟く。
返事はない。
それでも。
少しだけ温かい気がした。
◇
見舞いに来る人が増えた。
両親。
弟。
先生。
クラスメイト。
事故の日、病室にいてくれたあの子も、時々顔を出してくれた。
「今日、天気いいよ。」
「そうなんだ。」
「もうすぐ夏だね。」
「うん。」
他愛もない話だった。
でも。
不思議だった。
前の自分なら。
何を話せばいいか分からなくて黙っていたと思う。
今は違う。
誰かと話す時間が、少し好きになっていた。
◇
リハビリは続いた。
思うようにはいかなかった。
昨日できたことが、今日はできない日もあった。
「今日は調子悪いですね。」
理学療法士が言う。
「そうですね。」
悔しかった。
もうやめたい。
そう思った、その時だった。
ふと。
ある言葉を思い出す。
『今日のお前、一回できただろ。』
ユウの声だった。
『じゃあ昨日のお前より強い。』
思わず笑ってしまう。
「どうしました?」
「……いや。」
もう一回。
やってみよう。
一歩踏み出す。
転ぶ。
でも。
立ち上がる。
レンなら言う。
『立て。』
シアなら笑う。
『できるまでやれば、できます。』
アリアなら。
『大丈夫です。』
そう言って笑ってくれる。
みんなの声が聞こえた気がした。
もちろん。
本当に聞こえたわけじゃない。
でも。
あの一年は、自分の中に残っていた。
夢じゃない。
生きた時間だった。
◇
退院の日。
病院の玄関を出る。
風が吹く。
少しだけ、あの日の草原を思い出した。
空を見上げる。
同じ青空だった。
「帰ろう。」
父が言う。
「うん。」
車へ向かって歩き出す。
一歩。
また一歩。
ちゃんと、自分の足で。
◇
学校へ戻った。
最初は少し怖かった。
みんな変わっていたらどうしよう。
居場所なんて、もうないかもしれない。
そう思っていた。
「おはよう!」
教室へ入った瞬間。
誰かが笑った。
「戻ってきた!」
「久しぶり!」
「元気になってよかった!」
自然と輪ができる。
少し照れくさい。
でも。
嬉しかった。
◇
放課後。
鞄を持つ。
帰ろうとした時だった。
「一緒に帰らない?」
声をかけられる。
少しだけ驚く。
前なら。
「いいよ。」
そう言いながら、どこか遠慮していたと思う。
でも今は。
違う。
「うん。」
笑って答えた。
二人で歩き出す。
夕日が街をオレンジ色に染めていた。
「そういえばさ。」
「ん?」
「事故のあとさ。」
少し照れくさそうに笑う。
「ずっと目覚める気がしてたんだよね。」
「……ありがとう。」
それしか言えなかった。
◇
帰り道。
公園の前を通る。
小さな兄妹が笑っていた。
あの日と同じ景色。
でも。
自分は少し違っていた。
立ち止まる。
空を見上げる。
草原はない。
魔法もない。
レンも。
シアも。
ユウも。
アリアも。
ここにはいない。
それでも。
胸の奥には、ちゃんといる。
みんなと過ごした時間が。
前へ進む勇気になっている。
深く息を吸う。
空が、少しだけ眩しかった。
「……夢みたいだ。」
そう呟くと、隣を歩く友達が笑った。
「また変なこと言ってる。」
「そうかな。」
「うん。」
二人で笑う。
夕日が、帰り道を優しく照らしていた。
前を向いて歩く。
今度は、この世界で。




