第三十五章
朔は山道を下りながら、ポケットからスマホを取り出した。
画面は黒いままだ。
電源を入れる。
ロゴが浮かび上がるまでの時間が、妙に長く感じた。
やがて表示された日付を見て、朔は息を呑む。
――数日。
思っていたより短い。
けれど、短すぎる気もした。
あの町で過ごした時間は、もっと長かったはずなのに。
「……変だな」
独り言が、夜に溶ける。
頭の奥に、白い景色がちらつく。
セピア色の町並み。
柔らかく揺れる霧。
そして――
誰かが、笑っていた。
「……」
思い出そうとすると、輪郭がぼやける。
名前が――
「……し……お……」
さっきまで出ていた名前が思い出せない。
喉元まで出かかった音が、そこで消える。
町の風景も。
町でした手伝いも。
出会った人も。
まるで、霧が晴れていくように、町での記憶が薄れる。
代わりに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
忘れてはいけない何かを、置いてきてしまったような感覚。
理由は分からない。
けれど確かに、そこにある。
歩き出した栞は霧を振り返り、小さく息を吐く。
「帰れたんだ……」
誰に聞かせるでもなく。
ただ、事実を受け止めるように。
胸の奥が、じんわりと痛む。
その痛みが、何なのか――
もう、分かっていた。
でも。
気づくのが、遅すぎた。
霧は、何も答えない。
ただ静かに流れ続ける。
二人の選択と、すれ違いを包み込むように。
栞は自分の部屋に帰る途中で、光の道に入ったものの、帰れなかった人達を見た。
ある人は、肩を落として道端に座り込み。
ある人は、泣き崩れている。
そんな中、声をかけられた。
「栞!」
栞が声の方を見ると、赤いハンドバッグが見えた。
「紗英……」
紗英は栞に近づいて、
「栞も…帰れなかったの…?」
と聞いてきた。
「…うん…」
「あたしも」
紗英は、栞と並んで歩きながら、
「ねぇ…、朔くんは……」
と、聞いてきた。
俯いていた栞は顔を上げて。
「帰れたよ。」
明るい声で答える。
紗英は、その目に光るものを見つけ。
「そっか…」
とだけ答えると、二人は黙って歩き続けた。




