2.婚約者同士の浮気
確かに伯爵家嫡男である彼は、少し前まで私の婚約者だった。けれど私たちの間には愛どころか信頼すらなく、向こうの伯爵家が一切活用することができていない広い土地を有効利用するために、我が領の特産品であるワインの製造のためのブドウ畑を作らないかという提案をしてきたのだ。
ちょうど土地が足りなくなってきていたお父様が同じ伯爵家ならば問題ないだろうと判断し、その結果秘密を洩らさないよう娘の私を相手の伯爵家嫡男の婚約者にし、さらに我が家から監視役を数名送ることを条件として結ばれただけの契約。
当然のことながら、相手に選択肢はあってないようなものだった。とはいえ土地を利用できずに徐々に貧しくなっていく領地のためには頷くほかなく、かくして我が家に大変有利な形で婚約が結ばれる運びとなったのだが……。
ある日のこと、私は偶然にも見てしまったのだ。婚約者となったはずの男が、人目を忍ぶように一人の女性と密会しているところを。
領地を活用し立て直すために頭を下げてきた側であるにもかかわらず、その息子は外で愛人と密かに会っている。そんなことが許されるのかと婚約者としてでも一人の女としてでもなく、領民の生活を預かる貴族として腹を立てた私だったのだが、けれどよくよく観察していて気づいてしまったのだ。実はその浮気相手が格上も格上の侯爵令嬢であり、さらにはその彼女自身にも某公爵家の嫡男という格上の婚約者が存在しているのだということに。
つまり私だけではなく、公爵家の嫡男も婚約者に裏切られる形になっていたのだ。しかもお互い、格下の婚約者同士の浮気によって。
当然私は、この事実をすぐさま件の公爵家嫡男へと教えることにした。幸いなことに二人の密会現場を発見したのがとある夜会でのことだったので、今まで一切の交流がなかった人物へと、普段に比べればかなり簡単に近づくことができたのだ。これが昼間の、しかもどこかの街角での出来事だったのならば、直接その目にしていない限り信じてもらうことは容易ではなかっただろう。
最初は怪訝そうな表情をしていたけれど、私が声を潜めて婚約者のご令嬢のことでご相談がありますと口にし窓の外に目を向ければ、一瞬その澄んだ青の瞳に鋭さを宿しながらも「私が直接迎えに行くので、案内していただけますか?」と次の瞬間には丁寧な口調で笑顔を見せたことで、周囲も彼の婚約者が体調を崩してしまったのかもしれないと勝手に判断して道を開けてくれたのだった。
とはいえ、それで簡単に警戒心が解けたわけでもなく。
「……それで? 私の婚約者をおとしめて新たな婚約者の座に就きたいご令嬢、というわけでもなさそうだけれど?」
「もちろんです。むしろ私も被害者ですので、まずはその目でしっかりとご覧になっていただいたうえで、事実を確認していただければと思っております」
いかにも警戒していますというトゲのある言い方に、私もあえて若干の怒りを含んだ声色で返す。当然相手は少々驚いたような視線を向けてくるものの、これ以上私に言葉を続ける気がないと悟ったのか、おとなしく後ろをついてきてくれていた。
もしかしたら、衝撃的な場面を見せてしまうことになるかもしれない。けれど貴族の婚約が家同士の契約である以上、彼は知っておくべき事柄なのだと自分自身に言い聞かせて、私たちの婚約者が密会している場所へと案内したのだ。まさか濃厚なキスの最中だとは思わなかったけれど、逆にそのおかげで私が説明する手間が省けたのでよかったと思っておく。
そうしてこの日、浮気されていた私たちもまた共犯者となったのだった。
そこからは早かった。さすが公爵家の情報網と言うべきか、当然のように彼らの出会いから普段のデート先まで、ありとあらゆる証拠が短期間にずらりと並べられていたのだ。これにはさすがの私も驚いたのだけれど、反対に公爵家嫡男の彼はどこか嬉しそうにしていた。
「不思議かい?」
「はい。これでも一応、私たちが婚約者に長年裏切られ続けていたという証拠ですから」
どうしてそんな表情をしているのか分からないと告げた私に、彼はそれはそれはいい笑顔でこう言い放ったのだ。
「私はこの婚約を、あまり快く思ってはいなかったからね」
その言葉に驚いた私に対して、婚約者として紹介された瞬間から相手の令嬢が自分自身を見ているのではないと気づいていたことや、外出先では高価な宝石類を幾度となくねだられて毎回それをかわすのに辟易していたことなどを教えてくれた。
「だからようやく彼女を私の婚約者の座から下ろすための正当な理由が見つかって、実は今とても気分がいいんだ」
これまではどんなに調査しても浮気どころか男の影すらなく、また周囲はそこまで密接に関わっていないからか彼女の本性に気づくことすらなく、おとなしく見た目も美しい女性として認知されていたのだとか。
それを聞いた私が、思わず「一番取り繕うべき人物を間違えていませんか?」と問いかけると彼はおかしそうに笑って「確かにそうかもしれない」と口にしていたが、公爵家嫡男という立場を考えれば一人のワガママでせっかく周囲が用意した家のための婚約を無下にしてしまうわけにはいかないと考えていたのだろう。とはいえ相手が隙を見せることがあれば、その瞬間すぐにでも婚約の破棄を突きつけるつもりでいたらしいのだが。
さて、ここでひとつ公爵家嫡男である彼の真実をお伝えしておこう。実は格上も格上の公爵家という表現は決して過剰なものではなく、事実彼の母は降嫁した王女殿下である。つまり公爵家の嫡男とは言いつつも、同時にその立場は現国王陛下の孫でもある。そうなってくれば当然、その婚約相手というのも吟味に吟味が重ねられたうえで決定しているはず。だからこそ、なおさら彼は他の候補を自らの力で見つけ出すこともできないまま大きな問題を抱えているわけでもない婚約者の令嬢を遠ざけることも、周囲に不満を漏らすこともできずにいたというわけだ。
そんな中で今回発覚した浮気という何よりも言い逃れできないような証拠は、彼にとって待望の結果ともいえることだろう。これでようやく婚約関係を解消することができる、と。
「けれど、それならばもっと早く決断しておくべきだったのではないですか?」
「それは私も若干後悔しているところだよ」
苦笑しながら返された言葉は、すでに優秀な女性は婚約あるいは結婚してしまったあとなので、ここから新しく相手を見つけるとなるとなかなかに厳しい戦いになるであろうことをよく理解しているからだったのだろう。




