1.元婚約者の土下座
「私が悪かった……! だから頼むっ! この通りだっ!」
目の前で床に頭をこすりつけている元婚約者の情けない姿を見ても、私の心が動かされることは一切ない。むしろこれまで以上に冷え切った気持ちで見下ろしているそれは、アッシュブラウンの頭を踏みつけてやりたいとすら思わないほど、私の中ではどうでもいい存在へと成り下がっていた。
だからこそ私は、ただ淡々と事実のみを告げるのだ。
「残念ですが、もう決定したことですので。今さら頭を下げられても、変更も取り消しも不可能です」
「そこをなんとか……! この婚約は我が家にとって死活問題なんだ……!」
その言葉に、今ではもうため息しか出てこない。本気でそう思っているのならば、はじめからこの婚約の意味をしっかりと理解したうえで縁を大切にするべきだったのだから。
「そう言われましても、我が家としては最大の裏切りにあったも同然ですからね。一族の総意でもありますし、なにより私の一存で変えられるようなものでもありませんから。どうぞお引き取りくださいませ」
「だ、だがっ……! 君が説得してくれれば、もしかしたらもう一度変更してもらえる可能性も――」
「ございません。そもそもどうして私が説得しなければならないのですか? そのおつもりならば、あなたがお一人ですればいいではありませんか」
「ぐっ……」
面会の許可が下りるのならばどうぞ、という意味を言外に含ませながら告げれば、二の句が継げなくなる元婚約者。
だが彼は、まだ引き下がるつもりはないらしい。
「き、君だってはるか格上の公爵家に嫁ぐよりは、同じ伯爵家に嫁いだほうが気が楽なんじゃないか!?」
的外れなことを言っている自覚がないらしい彼の必死な様子に、いっそ失笑してしまいそうになる。
なんとかそれはこらえたけれど、代わりにもう一度、今度はこれ見よがしに私はため息をついてみせた。
「なにをおっしゃっているのですか。我が家にとって益があるのはどちらなのか、火を見るよりも明らかではありませんか。それにあなたに嫁いだところで私は幸せにはなれないと、私だけではなく一族全員が理解しておりますから。現にあなたのような義務感からではなく、積極的に会う時間を作って価値観のすり合わせをしてくださる方が婚約者となった今のほうが、私としては将来の不安なく過ごせておりますので」
見上げてくるダークブラウンの瞳が絶望の色に染まるが、そもそも彼がそういった態度を崩さなかったことが一番の要因なのだ。こちらは相手を理解しようと努力していたというのに、向こうからは一切そんな雰囲気も素振りも感じられなければ、そう思うのは当然のことだろう。
だが、政略結婚など最初はみなそういうものなのだろうと半ばあきらめていた私は、特に深くそのあたりを追及したりはしなかった。お互いの家に利益があるから結ばれた婚約なのであって、それ以上でもそれ以下でもないのだということを理解していたから。
(それをあんな形で裏切っておいて、よく私の前に姿を現わせたものよね)
違う意味で感心してしまうが、実際本当によくもう一度会いに来ようと思えたなと言うほかない状況なのだから、こればかりは仕方がない。
そしてなによりも、彼自身が一番この決定した事実がどれほど重いものなのかを理解していないのだということが、私としては信じられなかった。
「そもそもこの決定は、陛下自らが下されたものですから。どうしても覆したいとおっしゃるのであれば、あなたが直接陛下に進言なさってはいかがですか?」
「ひっ……!」
冷たい笑顔を向ければ、途端に震えあがってしまう元婚約者。その程度の度胸しかないというのに、本当によく私のところに直談判に行こうという決断ができたものだと、もはや呆れるしかない。
「私たちの婚約関係は解消され、お互いに新たな婚約者が決定した。それが全てなのですから、もうお引き取りください。そして以後、私にも我が家にも関わらないでくださいませね」
しょせん彼の家は伯爵位とはいっても広大な土地を活用しきれず持て余しているだけの、いわゆる貧乏貴族。対して私の家は同じ伯爵位とはいうものの土地を最大限に活用し、特産品であるワインを製造し国内外で親しまれるまでの地位を築き、陛下の覚えもめでたいという状況。つまり私と彼の婚約でより得をしているのは相手側だったはずなのだ。
だが、それは彼の失態によって全てなかったことになった。
なぜこんな状況になっているのか、そして彼がいったいなにをしたのか。最初から順を追って説明しておきたいと思う。
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