新婚旅行当日、妻に東南アジアの特殊詐欺拠点へ売られた
僕は新婚の妻に騙され、東南アジア国境地帯にある特殊詐欺拠点へ連れてこられた。
その魔窟で「仕事」を始めた初日、僕は同じ寝室で眠ったばかりの妻を、詐欺商品の一つとして内部取引システムに登録した。
それ以来、皆から「先生」と呼ばれる白く太った男は、僕を見るたびに冷たい値踏みをするようになった。
僕は毎日、決まった時刻に出勤し、決まった時刻に帰る。
この拠点の中で、僕に指一本触れられる者はいなかった。
一方で、僕を地獄へ突き落とした鷺澤美緒は、僕の手配によって、高みにいた「観光イメージ大使」から、誰にでも扱われる安物の道具へと落ちていった。
水牢に閉じ込められ、賭場のテーブルに立たされ、最後にはオンライン動画部屋へ送られた。
かつて優しく、華やかで、ファンに愛されていた旅行系インフルエンサーの姿は、その闇の中で跡形もなく砕け散った。
やがて彼女は僕の足元に跪き、息もできないほど泣きながら許しを乞うた。
「颯太……私が悪かったの」
その時、僕の銃口は彼女の額に押し当てられていた。
僕は、まだ美しいままのその顔を見下ろし、ゆっくりと引き金を引いた。
「悪いな」
僕は言った。
「君の夫は、最初から偽物だったんだ」
第1話 偽りの花嫁
僕と鷺澤美緒が出会ったのは、YouTubeだった。
彼女は東南アジアに滞在する日系の旅行系インフルエンサーで、数十万人のフォロワーを抱えていた。
ただし、彼女の本当の仕事場は、拠点の中ではない。
日本国内の画面の向こう側だった。
標的を選び、信頼を築き、相手を一歩ずつ東南アジアへ送り込む。
それが彼女の役割だった。
動画の中の彼女は、いつも軽やかな白いワンピースを着ていた。
異国の海辺、古い寺院、市場、熱帯雨林。
そんな場所に立ち、柔らかな声で現地の風景や文化を紹介していた。
彼女は自分を「民間観光プロモーション大使」と名乗っていた。
その肩書きが本物かどうかは分からない。
けれど、雰囲気を作るのだけは抜群にうまかった。
画面の中の彼女は、まるで雑誌のページから抜け出してきた女のようだった。
優しく、落ち着いていて、澄んでいる。
まるで、現実の汚れなど一度も浴びたことがないかのように。
僕はもともと旅行が好きで、彼女のチャンネルをずっと見ていた。
ライブ配信のたびに、そこそこの額を投げ銭した。
そのうち、彼女は僕の名前を覚えた。
神崎颯太。
東京・港区出身。
両親を早くに亡くし、家族の商事会社の株式を受け継いだ若い資産家。
会社の実権は、数人の親族が握っている。
それが、僕が彼女に差し出した身分だった。
そして、それこそ彼女が見たがった身分でもあった。
本当の僕は、警視庁の特殊詐欺対策班に協力する潜入捜査員だった。
その身分は、鷺澤美緒に近づくため、わざと彼女の目の前に置いた餌にすぎない。
初めて直接会ったのは、東京・銀座の喫茶店だった。
彼女は七分遅れて現れた。
それでも少しも慌てず、軽く頭を下げて微笑んだ。
「ごめんなさい。待たせてしまいましたね」
その瞬間だけは、僕もほとんど本気で思った。
これが運命というものなのかもしれない、と。
僕たちには共通点が多すぎた。
海の島が好きだった。
古い寺院が好きだった。
真夜中に雨音を聞くのが好きだった。
誕生日まで、同じ月の同じ日だった。
美緒は言った。
「きっと、縁ですね」
僕は笑って答えた。
「そうかもしれない」
半月後、僕たちは恋人になった。
さらにしばらくして、彼女は沖縄の久米島近くにある小さな島へ行こうと誘ってきた。
フェリーは青い海を進んだ。
午後の陽射しが雲の切れ間から落ち、海面にほとんど完璧なハート型の光を作った。
美緒は甲板の端に立っていた。
風が、彼女の長い髪を揺らしていた。
僕は片膝をつき、銀座の宝飾店で特注した十カラットのダイヤモンドリングを差し出した。
彼女の頬はうっすら赤く染まり、瞳には涙が浮かんでいた。
けれど、手はもう先に伸びていた。
僕はその指に指輪をはめた。
彼女は、自分が大きな魚を釣り上げたと思ったのだろう。
だが、彼女は知らなかった。
鷺という鳥は、もともと水辺で小魚を捕らえる鳥だ。
その名字は、彼女の優しい顔よりもずっと正直だった。
そして僕は、自分から彼女の嘴へ泳いでいった魚だった。
結婚後の新婚旅行先は、美緒が選んだ。
タイ、バンコク。
暁の寺へ参拝し、二人の一生の平穏を祈りたいのだと言った。
参拝を終えたあと、僕たちはホテルへ戻った。
彼女は僕にアイスコーヒーを淹れてくれた。
味は薄かった。
氷がグラスの中で触れ合い、澄んだ音を立てていた。
飲み終えてしばらくすると、意識が沈みはじめた。
最後に見えたのは、僕を覗き込む美緒の優しい笑みだった。
次に目覚めた時、僕は巨大な水溜まりの中に立たされていた。
上半身は裸。
両腕は縄で十字架のような木杭に縛りつけられていた。
濁った汚水が腰まで浸かっている。
水面には腐った臭いが漂い、かすかに血の匂いも混じっていた。
頭上には、黄ばんだ裸電球が一つだけ。
その光が照らすのは、僕の周囲二メートルほどの空間だけだった。
その先は、溶けない墨のような闇。
闇の奥からは、途切れ途切れの泣き声、悲鳴、そして鉄の何かが床を引きずる音が聞こえていた。
美緒は水溜まりの縁に立っていた。
僕の銀行カードを指先で揺らしながら、相変わらず優しく笑っている。
「颯太君、口座のお金が足りないの」
彼女は僕を見下ろした。
「IDとパスワードを教えて。私が送金してあげる」
彼女の隣には、五十代ほどの男が立っていた。
小太りで、肌が白い。
ゆったりした麻のシャツを着て、手には紫檀の数珠を持っていた。
一見すると、寺で出会う穏やかな参拝客のようだった。
だが、目は参拝客のものではない。
罠にかかった獲物を見る、猟師の目だった。
その時の僕は、まだその男の本名を知らなかった。
僕が黙っていると、美緒の顔に一瞬だけ苛立ちが走った。
すぐにまた、柔らかな表情に戻る。
「颯太君。あなた、私にプロポーズした時はとても思いきりがよかったでしょう?」
彼女は少し首を傾けた。
「お金を出す時も、同じくらい潔くしてほしいの。痛い思いをするあなたなんて、見たくないから」
僕は彼女を見つめ、ふと笑いたくなった。
優しさというものは、人によっては刃物より鋭い。
僕は答えなかった。
次の瞬間、僕は正常な獲物らしい反応をした。
震え、泣き叫び、彼女を詐欺師だと罵った。
白く太った男の笑顔は変わらなかった。
ただ、手の中の数珠を回す速さだけが、少し速くなった。
美緒はそれに気づき、目の奥に怯えを浮かべた。
彼女は暗がりへ向かって低く言った。
「アパ」
鉄塔のような影が闇から現れた。
東南アジア系の男だった。
身長は一九〇センチ近く、肌は黒く、肩幅が広い。
名はアパ。
先生の手下の中でも、もっとも凶暴な用心棒だった。
アパは太い鞭を手首に巻きつけ、僕の前まで歩いてきた。
僕はすぐに弱音を吐いた。
「美緒、分かってるだろ。僕の手元には、そんなに現金はない」
美緒の表情がわずかに変わった。
「東京の港区にマンションを三部屋持っているでしょう。ご両親が亡くなってから、家族の商事会社も受け継いだ。私が調べていないとでも思ったの?」
「マンションは全部、会社名義だ。会社の株も、僕が持っているのは四十九パーセントだけ。残りの五十一パーセントは、伯父と叔父二人が握っている。大きな金を動かすには、彼らの同意がいる」
美緒は僕をじっと見た。
本当かどうか、見極めている目だった。
三十分後、一台のタブレットが僕の前に置かれた。
画面の向こうでは、伯父、二番目の叔父、三番目の叔父が並んで座っていた。
三人とも、険しい顔をしている。
アパは前触れもなく鞭を振り上げた。
鞭先が皮膚を裂き、焼けるような痛みが背中に走った。
僕は悲鳴を上げた。
「一億円を出せ!」
アパはぎこちない日本語で怒鳴った。
「金を出せば、こいつを返す!」
画面の中で、三人の親族が視線を交わした。
伯父が深くため息をつく。
「颯太、金が欲しいなら素直に言いなさい。こんな芝居までして。会社の資産は、お前のご両親から預かったものだ。好き勝手に使わせるわけにはいかない」
「伯父さん――」
通信は切られた。
美緒は真っ暗になった画面を呆然と見つめていた。
白く太った男の顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「手間をかけて連れてきたのが、こんな価値のない廃品か」
美緒の肩が小さく震えた。
「先生、彼は体が丈夫です。公海側へ送れば、臓器は高く売れます」
僕はうつむいたまま、初めて彼女に純粋な嫌悪を覚えた。
僕を殺そうとしているからではない。
それを言う声が、まだ優しかったからだ。
白く太った男はすぐには答えなかった。
僕の価値を計算しているのだ。
待っていてはいけない。
「先生!」
僕は顔を上げ、震える声を出した。
「僕が生きていれば、会社から毎年配当が入ります。一度に払えなくても、分割ならできます」
男は長いあいだ僕を見ていた。
やがて、笑った。
「面白い」
三十分後、僕は鉄網で囲まれた空き地へ放り込まれた。
向こう側には、巨大な黒い猛犬がうずくまっていた。
体は大きく、毛並みは油を塗ったように光っている。
喉の奥から低い唸りが漏れ、夕暮れの中でその目だけが冷たく光っていた。
「お前とこいつ、どちらか一方だけが生き残る」
白い男は鉄網の外の長椅子に腰を下ろし、葉巻に火をつけた。
美緒はその隣に寄り添い、酒を注いでいる。
「雫」
白い男が影に向かって声をかけた。
「サウェイの夕食を見てやれ」
夕陽の下、一人の少女が猛犬の後ろに立っていた。
二十歳ほどだろう。
背は高く、肌は浅黒く、黒髪を高い位置で結んでいた。
猛犬を見つめるその目は、自分の子を見守る母親のように優しかった。
星野雫。
白面仏の養女。
彼女が口笛を吹いた。
猛犬が身を低くし、ゆっくりと僕に近づいてくる。
体が震えはじめた。
それは演技ではなかった。
僕は子どもの頃から犬が苦手だった。
リードにつながれた犬がそばを通るだけで、心臓が速くなる。
十年前、その恐怖が致命的な弱点になると気づいた。
潜入捜査員に、敵へ差し出していい恐怖などない。
僕は自衛隊で軍用犬の制圧訓練を受けた。
その後、警視庁の特殊詐欺対策班に協力するようになってからも、何度も自分を犬舎に閉じ込めた。
牙、吠え声、飛びかかる気配。
それらに体を慣らすためだ。
強くなるためではない。
いつか本物の地獄で、十分に弱く見えるために。
猛犬が飛びかかった。
牙はまっすぐ僕の首筋を狙っていた。
僕は足を滑らせ、みっともなく転倒した。
その一撃を、ぎりぎりでかわす。
犬歯がシャツを裂き、布切れが地面へ散った。
雫の目に、かすかな驚きが浮かんだ。
僕は恐怖に駆られたように叫び、鉄網へよじ登った。
外では数人の傭兵が銃を構えた。
僕が乗り越えようとすれば、すぐ撃たれる。
猛犬はもう僕を急いで殺そうとはしなかった。
獲物を弄ぶように、何度も飛びかかっては下がり、また力を溜める。
僕が待っていたのは、その呼吸だった。
もう一度後ろへ引いた瞬間、僕は力尽きたふりをして両手を離した。
鉄網から落ちた僕の体重が、そのまま犬の腰に叩きつけられる。
甲高い悲鳴が響いた。
猛犬は地面に倒れ、腰の骨を砕かれ、悔しそうな目だけを動かしていた。
僕は腰を押さえて座り込み、まだ恐怖から戻れない人間のように茫然としてみせた。
「雫の犬を殺した!」
美緒が叫んだ。
「殺して!」
鉄扉が開き、星野雫が歩いてきた。
彼女は拳銃を抜き、銃口を僕の額に押し当てた。
僕は彼女の手首、肩の線、足運びを見た。
格闘訓練は受けている。
それでも、近距離で銃を奪うなら、三秒あれば制圧できる。
動こうとした、その時だった。
一つの鉄製の首輪が、僕の前へ放られた。
さっきまで猛犬の首についていたものだ。
雫は僕を見下ろした。
「あなたは、私の犬を殺した」
「今日から、あなたが私の犬。自分でつけなさい」
僕は固まった。
これは、想定していたどの展開とも違う。
僕は本拠点に入らなければならない。
前任の潜入者が残した名簿と、内通者を見つけるためだ。
星野雫の小楼に閉じ込められ、自由のないペットになるわけにはいかない。
僕は顔を上げ、鉄網の外にいる男を見た。
「あなたが、噂の白啓山先生ですか」
白く太った男の足が止まった。
僕は震える声のまま、しかし全員に聞こえるように言った。
「白面仏。夜にその名を聞けば、子どもでも泣き止むと言われる男」
白啓山はゆっくりと振り返った。
その目に、初めて本物の殺意が浮かんだ。
僕は思った。
第一段階は、成功だ。
第2話 園区
翌日、僕は新しく捕まえられた十数人の「獲物」と一緒に、本拠点へ送られた。
高い壁。
電流の流れる鉄条網。
監視所。
監視カメラ。
実弾を持った傭兵たち。
拠点の中央には、灰色の八階建ての建物があった。
すべての窓には鉄網が張られ、息もできない鉄の缶詰のように見えた。
前の夜、僕は白啓山の足にしがみついて泣き叫んだ。
親族に見捨てられたと訴え、彼に尽くしたい、いずれ彼の力を借りて家産を取り戻したい、と言った。
白啓山はしばらく黙っていた。
最後に僕の肩を叩き、言った。
「なら、下から始めろ」
僕たちは三階の大広間へ連れていかれた。
そこには百台以上のパソコンが並び、半分以上の席に人が座っていた。
全員が灰色の作業服を着て、胸に番号札をつけている。
僕は八十六番になった。
美緒は四階の手すりに立ち、僕たちを見下ろしていた。
「今日から、皆さんは家族です」
その声は、やはり優しかった。
「ここでは、成績を出せば報酬があります。出ていきたい人がいれば、止めません」
人々がざわめいた。
連れてこられたばかりの数人が、おそるおそる列を離れ、出口へ歩き出す。
パソコンの前に座る者たちは、黙って目を伏せた。
これから何が起きるか、知っているのだ。
扉が開き、電気棒を持った男たちがなだれ込んだ。
拳と蹴りが一斉に落ちる。
悲鳴が大広間に反響した。
一人の痩せた青年だけが、血まみれになってもなお扉へ這っていった。
アパが歩み寄り、片手で襟をつかむ。
彼を北側の窓まで引きずり、次の瞬間、三階から投げ捨てた。
大広間は静まり返った。
しばらくして、下から鈍い音がした。
田辺七郎――拠点の現場責任者が、僕たちを窓際へ立たせた。
下には巨大な穴が掘られていた。
底には鋭い鉄の杭が何本も立っている。
青年はそこに横たわり、もう動かなかった。
美緒が僕たちの背後に立った。
「出たいなら、出てもいいの」
彼女は軽く言った。
「ここから飛べばね」
僕はうつむき、拳を強く握った。
田辺七郎はすぐに、全員へ分厚い話術マニュアルを配った。
そこには詐欺の脚本がびっしり書かれていた。
親族を装って金を借りる。
投資アドバイザーになりすます。
役所職員を名乗り、未納税金を請求する。
技術サポートのふりをして遠隔操作を要求する。
当選通知を送りつけ、偽リンクから口座情報を盗む。
どれも吐き気がするほど細かかった。
美緒は新入りたちを見渡し、一人の若い女の子に目を止めた。
長い髪で、顔立ちは整っているが、体は細い。
美緒が田辺に耳打ちした。
数人の男がすぐにその子を列から引きずり出した。
彼女は泣いて許しを乞うたが、誰も顔を上げなかった。
「美緒姐さん」
パソコンの後ろから、一人の女が立ち上がった。
背が高く、目元は涼しい。
番号は六番。
「その子は使えます。私に調教させてください。今壊すのは損です」
美緒は振り向いた。
「六番、先生が一度個別に話してから、ずいぶん大胆になったのね」
六番は笑みを崩さなかった。
「先生は、すべての人間に最大の価値を出させろとおっしゃいました。私は拠点のためを思っているだけです」
二人はしばらく見つめ合った。
最後に美緒が笑った。
「いいわ。あなたに任せる」
彼女は去り際、わざわざ僕を見た。
僕への疑いが消えたことなど、一度もないのだ。
席についた僕は、長く息を吐いた。
第一段階は終わった。
これで外部へ連絡できる。
僕は拠点指定の匿名チャットアプリを開き、誘惑めいた定型文を選んで送信した。
文字そのものには、何の異常もない。
暗号は文字と句読点の間隔に隠した。
長い間隔が線。
短い間隔が点。
モールス信号だ。
前任の潜入捜査員、藤原千晴が消息を絶って以来、頭文字や分割文字による暗号はすべて見抜かれている。
文章の意味も文字数も変えずに隠せるこの方法だけが、監視を抜ける可能性を持っていた。
最初に送った情報は一つ。
宮本玲、白面仏の拠点に入った。
宮本玲は僕の上司であり、警視庁側で唯一、完全に信頼できる人間だった。
数分後、チャット画面が光った。
返事は何気ない誘い文句に見えた。
だが、その間隔には一文が隠れていた。
颯太、必ず生きて。
僕は画面を見つめた。
遠い監視室で唇を噛んでいる玲の顔が、目に浮かんだ。
「八十六番!」
田辺七郎が、いつの間にか背後に立っていた。
「何をぼうっとしている」
僕はすぐ画面を切り替え、一人の中年男性とやり取りを始めた。
相手は四十八歳。
日本の地方役所に勤める副課長で、妻は銀行員、高校生の娘がいる。
拠点の裏方は、すぐに彼の情報を洗い出した。
大物だった。
手順どおり、六番が露出の多い服に着替えて動画用の小部屋へ入る。
僕は録画とスクリーンショットを担当し、その映像を使って相手を脅す。
相手は恐怖に駆られ、分割で送金した。
田辺七郎は興奮して跳ね上がりそうだった。
しかし金が着いた直後、すべての受け口座が警察に凍結された。
田辺の笑顔が固まる。
「警察の動きが早すぎる」
僕は怯えたふりでうつむいた。
心の中では、少しだけ安堵していた。
少なくとも宮本玲には届いた。
だが、トイレを理由に席を立った時、四階の手すりにもたれる美緒が見えた。
彼女は冷たい目で僕を見ていた。
ほどなくして、僕は八階へ連れていかれた。
八階は美緒の私室兼執務室だった。
彼女は新婚の妻が夫の帰宅を待つように、笑顔で出迎えた。
「颯太君、数日でずいぶん痩せたわね」
僕は何も言わなかった。
彼女は僕の手を取り、奥の部屋へ連れていった。
部屋の中央に、警察官の制服を着た人体標本が立っていた。
その瞬間、呼吸が止まった。
藤原千晴。
前任の潜入捜査員だった。
美緒はその顔をそっと撫でた。
「優秀だったわ。成績もよくて、目立たなかった。本当なら引き上げられるはずだったのに。残念ね、警察の人間だったなんて」
彼女は振り向いた。
「颯太君、知り合い?」
頭の中で思考が高速に回った。
これは試しだ。
怒ってはいけない。
悲しんではいけない。
瞳孔の揺れすら見せてはいけない。
僕は床へ崩れ落ち、全身を震わせ、怯えた一般人のように泣き叫んだ。
美緒の眉がわずかに寄った。
「アパ」
アパが入ってきて、僕を片手で持ち上げた。
両腕が鉄の輪のように体を締めつける。
骨が軋み、肺が潰れそうになった。
二つ目の試しだ。
抵抗すれば、身のこなしで正体がばれる。
抵抗しなければ、あと三十秒で肋骨が折れる。
賭けに出ようとした、その時だった。
扉が蹴破られた。
星野雫が入ってきた。
「放して」
声は大きくない。
それでもアパはすぐに手を離し、僕を床へ落とした。
雫はアパの前へ行き、自分よりずっと大きな男を見上げた。
「言ったはず。彼は私の犬だって」
アパは頭を下げた。
「聞きました」
「父も、夜はいつでも連れていっていいと言った」
「聞きました」
雫は彼の膝裏を軽く蹴った。
アパはその場に跪いた。
「頬を打って」
黒服の男が進み出て、アパの頬を何度も打った。
口の端から血が滲んでも、アパは声を出さなかった。
雫は美緒を見た。
「うちの物に、いつから他人が触れるようになったの」
美緒の顔は陰ったが、笑うしかなかった。
「お嬢様、誤解です」
雫は答えなかった。
僕の首輪に鎖をつなぎ、そのまま八階から連れ出した。
第3話 水滴
拠点の裏手の斜面には、数棟の小さな独立家屋が並んでいた。
星野雫は、その一つに住んでいた。
彼女は僕を寝室へ連れていき、ベッドの端に腰かけて見上げた。
「脱いで」
僕は一瞬固まった。
彼女は顔を曇らせ、拳銃を抜いた。
「早く」
僕はシャツを脱いだ。
「後ろを向いて」
冷たい銃口が、肩に軽く触れた。
そこには硬貨ほどの古傷があり、水滴の形に刺青で隠してある。
雫が訊いた。
「どうして、この形にしたの」
「昔の喧嘩でできた傷だ。見苦しかったから、絵で隠した」
僕は振り返り、胸の内の波を抑えた。
雫は僕の目をじっと見た。
「ここにいた人が言ったの。いつか肩に水滴の刺青を持つ人が、私の身の上を教えてくれるって」
僕はしばらく黙った。
藤原千晴。
死ぬ前に、彼女は少なくともこのことを雫へ伝えていた。
僕は腰を下ろし、遠い昔の話をした。
「二十年前、日本に一人の麻薬取締に関わる警察官がいた。代々、組織犯罪の捜査に携わってきた家の人だった」
「彼はある大きな密輸ルートを壊し、多くの構成員を逮捕した。そのせいで、犯罪組織に狙われた」
「雨の夜、逃げ延びた首謀者が仲間を連れて彼の家へ押し入った。翌朝、同僚たちが駆けつけた時、彼と妻は殺されていた」
「二人には二歳の娘がいた。現場でその子の遺体は見つからなかった。死体を別の場所へ移されたのだと言う人もいれば、まだ生きていると信じる人もいた」
「その子の唯一の特徴は、尻に水滴のような形の痣があることだった」
部屋は静まり返った。
しばらくして、雫が訊いた。
「あなたは誰」
「その警察官の後輩だと思えばいい」
「証明は」
「出生記録、病院の資料、古い捜査記録が残っている。照会先とパスワードを渡せる」
雫は小さく笑い、もう一度銃を向けた。
「もしそれが本当なら、続きを教えてあげる」
声は低かった。
「その犯罪者は小さな女の子を見つけた。可愛かったから殺さず、そばで育てた。それからずっと、本当の娘みたいに扱った」
「血のつながりがないことは知っている。でも、それが何?私の人生で、ご飯をくれて、服をくれて、敵を殺してくれたのは、あの人だけ」
「ここではみんな、私を敬って、恐れて、機嫌を取る。誰も私に逆らわない」
雫の指が引き金にかかった。
「だから、父を傷つける人間は、私が殺す」
僕は彼女を見た。
「君の目は、そう言っていない」
雫の眉が動いた。
「君は闇の中で育った。でもずっと光を見ている」
僕はベッド脇のぬいぐるみ、少女漫画、コンビニスイーツの包み紙、壁に貼られた花火大会の写真を見た。
「君は二十歳なのに、学校に通ったことがない。部活も、修学旅行も、本当の友達もいない。東京ディズニーに行きたい。浴衣を着て花火を見たい。コンビニでどのおにぎりを買うか迷うような、普通の女の子でいたい」
「ここがどういう場所か、知らないわけじゃない」
「ただ、出ていく勇気がないだけだ」
雫の手がわずかに震えた。
僕はそれ以上追い詰めなかった。
内側からしか開かない扉もある。
宮本玲から与えられた任務は二つあった。
一つ目は、白啓山が支配する東南アジアの特殊詐欺組織に潜入し、生き延びること。
二つ目は、強制的に詐欺に従事させられている者たちの、本名と身元情報を記した名簿を手に入れること。
前任の藤原千晴は、すでに名簿を手に入れていた。
だが送信する前に正体が露見した。
最後に残した情報では、名簿は信頼できる内通者へ託されたという。
その人物は、まだ拠点内にいる。
ただし、別の可能性もあった。
内通者が寝返り、新たな潜入者を釣る餌になっている可能性だ。
月末、拠点では成績発表会が開かれた。
成績上位十名は、七階で給仕として働ける。
チップがもらえるだけでなく、毎晩三十分だけ、自分のスマートフォンを使うことも許される。
僕は暗号で宮本玲に協力を求め、成績を押し上げてもらった。
半月後、僕は上位十名に入った。
目的は、七階の廊下の突き当たりにある施錠された部屋だった。
そこには暗証番号と指紋認証がある。
田辺七郎はそこへ入るたびに、現金、金塊、そして違法な品を取り出し、地元武装勢力の幹部をもてなしていた。
名簿は、あそこにある可能性が高い。
発表会では、成績不良者が何人も引きずり出され、罰を受けた。
十八、九歳ほどの痩せた少女が、怯えて六番の胸に顔を埋めた。
六番はそっと背中を撫でた。
「大丈夫」
少女の番号は五十四番だった。
やがて、七十二番が小さなナイフを隠し、宿舎の窓の鉄網を切ろうとしていたと密告された。
田辺七郎が証拠を見つけ、七十二番は連れていかれた。
次に、五十四番が密告された。
「本当は成績が足りないのに、六番が自分の成績を分けていました」
田辺は五十四番の髪をつかみ、引きずり出した。
六番が止めに入ったが、突き飛ばされた。
僕は人々の間に立ち、青白く、それでも折れない六番の顔を見た。
彼女が内通者なのか。
あまりに目立つ。
潜入者にとって、目立ちすぎる善良さは危険だ。
休憩時間、僕は六番のあとを追ってトイレに入った。
男女共用の広いトイレだった。
壁際には、女性の赤い唇をかたどった悪趣味な小便器が並んでいる。
僕は彼女が手を洗うのを待ち、声をかけた。
「勇気があるな」
彼女は一度こちらを見たが、答えなかった。
僕は続けた。
「でも、無茶はしないほうがいい。美緒は普通じゃない。前任の潜入者を標本にする女だ」
六番の手が止まった。
僕は声を落とした。
「その人の名は、藤原千晴。知っているか」
彼女は顔を上げた。
一瞬だけ、深い悲しみが目に浮かんだ。
だが、すぐに隠した。
「よく知りません」
彼女は去っていった。
僕は作業席に戻り、話術マニュアルをめくった。
指先に、細い凹みが触れた。
僕はわざとマニュアルを床に落とし、拾うふりをしてページを夕陽に透かした。
細い傷で文字が刻まれていた。
六番に気をつけろ。彼女は悪い人間だ。
僕は顔を上げた。
大広間はほとんど空だった。
残っているのは僕と、遠くの椅子で丸くなっている五十四番だけ。
その瞬間、かえって何も分からなくなった。
夜、アパが僕の首輪に鎖をつけ、雫の小楼へ送った。
雫が公然と僕をかばって以来、拠点で僕に手を出す者はいなくなった。
僕は彼女の名目上のペットになった。
屈辱的だった。
それでも、最高の保護だった。
雫は毎晩、僕に話をさせた。
東京のコンビニは本当に二十四時間開いているのか。
学校の食堂のカレーはどんな味か。
普通の人は、雨の日に一本の傘をめぐって喧嘩することがあるのか。
僕にとって当たり前すぎる話を、彼女は目を輝かせて聞いた。
時々、本当に普通の女の子のように笑った。
ある夜、眠った彼女が急に僕の手をつかんだ。
「行かないで」
夢の中で彼女は言った。
「ずっと、ここにいて」
僕は彼女を見つめ、胸が沈んだ。
雫。
君はまだ、自分の檻から出る勇気を持てない。
数日後、雫は僕を連れて山を下り、丹羽という町へ向かった。
町では年に一度のコスプレイベントが開かれていた。
東南アジアの国境地帯にある小さな町は、安っぽい照明と混み合うダンスフロアで、アニメキャラクターに扮した若者たちに埋め尽くされていた。
雫は仮面をつけ、まるで本物の少女のように目を輝かせていた。
その夜、宮本玲から連絡が入った。
内通者が初めて警察へ接触してきた。
藤原千晴が生前に残した番号に、警察はずっと決められた暗号文を送り続けていた。
昨夜、そこへ返信があったという。
暗号を解くと、こう読めた。
物は、かつて私の手にあった。
その「物」は、ほぼ間違いなく名簿だ。
僕は考えはじめた。
もし内通者がまだ味方なら、長く沈黙した理由は二つ考えられる。
藤原千晴の正体が露見して状況が危険になり、息を潜めていた。
あるいは、今までスマートフォンに触れる機会がなかった。
もし内通者が寝返っているなら、これは罠だ。
僕が顔を上げると、上の階から美緒がこちらを見ていた。
冷たい目だった。
僕は彼女に笑ってみせた。
疑われるほど、怯えてはいけない。
第4話 内通者
七階は毎晩、賑やかだった。
そこは拠点が賓客をもてなす場所だった。
地元武装勢力の士官、政府関係者、闇市場の仲介人、国境を渡るブローカー。
そうした人間たちが、密閉された個室に出入りしていた。
僕は給仕として酒や水を運びながら、廊下の突き当たりにある部屋を観察した。
田辺七郎はそこへ入るたび、暗証番号を入力し、右手の親指で指紋認証を通す。
扉が開く一瞬、古いデスクトップパソコンが見えた。
名簿は、あの中にあるかもしれない。
ほどなくして、僕は宮本玲を通じ、内通者とオンラインゲームで連絡を取る約束をした。
拠点では、若者を騙して東南アジア旅行に誘うため、ゲームを使うことも仕事の一部になっている。
だから、ゲーム内チャットは怪しまれにくい。
僕は十五歳の男子という設定のアカウントでログインした。
相手のアカウント名は「ぶたぶた」。
プロフィールは十三歳、女。
僕たちは塔を壊し合いながら、もっとも簡単な暗号で会話した。
「物は何」
「情報」
「アップロードできるか」
「無理」
「持ち出せるか」
「出られない」
「隠す。取りに来て。知らせを待って。明日の夜」
すぐにゲームは敗北表示になった。
相手はログアウトした。
僕は腹痛のふりをして立ち上がり、後ろの席を横目で見た。
五十四番がパソコンの前に座っていた。
六番の席は空だった。
その時、田辺七郎が手下を連れて入ってきた。
まっすぐ五十四番へ向かう。
彼は五十四番の髪をつかみ、外へ引きずっていった。
僕の指に力が入った。
五秒以内に三人を倒す手順を、頭の中で組み立てた。
だが次の瞬間、田辺の手下が僕を怒鳴った。
「何を見てる。仕事しろ」
僕はうつむいた。
「ト、トイレに……」
「さっさと行け」
五十四番の泣き声が遠ざかっていく。
画面には、「敗北」の二文字が残っていた。
次の日一日、五十四番の姿は見えなかった。
僕は後悔しはじめた。
昨夜、動くべきだったのかもしれない。
任務を言い訳にして、また一人の少女が連れていかれるのを見送っただけではないのか。
だが僕は潜入捜査員だった。
名簿を外に出すその時まで、生きていなければならない。
夕方、五十四番が戻ってきた。
消耗していたが、目立つ外傷はない。
その後ろから、田辺七郎、アパ、六番、そして美緒が入ってきた。
六番の顔は憔悴していた。
田辺は五十四番を六番の前へ突き出した。
「話せ」
五十四番はうつむき、六番を見なかった。
「この前の夜、六番が宿舎で知らないメールに返信しているのを見ました」
美緒は一台のスマートフォンを掲げた。
「削除された記録を復元したの。面白い言葉だったわ」
彼女はゆっくりと読み上げた。
「物は、かつて私の手にあった」
心臓が沈んだ。
本当の内通者は、六番だった。
六番は五十四番を見つめた。
怒りではない。
失望の目だった。
「奈奈、私はあなたを守ってきた」
五十四番は清水奈奈。
六番は森川葵。
清水奈奈は震えはじめた。
「もう耐えられなかったの……怖かったの……手柄を立てたかっただけ。あなたが本当に何かしてるなんて知らなかった」
森川葵の声も震えていた。
「あなたが打たれるたびに、誰が前に出たと思っているの。スマホを使いたいと言った時、私の時間を渡したのは誰。どうしてこんなことをしたの」
清水奈奈の罪悪感は、数秒しか続かなかった。
すぐに歪んだ憎しみへ変わった。
「いい人ぶらないでよ!あんたは顔がいいから、成績がいいから、みんなに守られてるだけじゃない!私を妹みたいに思ってた?違うでしょ。自分の優しさを証明するためのペットにしてただけでしょ!」
彼女は田辺にすがりついた。
「七郎さんが言ったの。密告で手柄を立てれば、底辺から抜け出せるって。これからは毎日スマホを使えるし、七階で働ける。もうすぐ、私はあんたたちとは違う側に行けるの」
田辺は気味悪く笑った。
美緒は皆を見渡した。
「見たでしょう。不審な人、不審なことを見つけて報告すれば、運命は変えられるの」
その時、森川葵が口を開いた。
「あなたたちは、本来は被害者です」
声は大きくない。
それでも大広間に澄んで響いた。
「加害者にならないで。そうなったら、もう陽の当たる場所には戻れません」
多くの人が目を伏せた。
美緒の顔が冷えた。
「森川葵、仲間は誰?」
森川葵は黙っていた。
美緒は笑った。
「そう」
彼女は、森川葵を人前で辱め、もっとも残酷な方法で口を割らせるよう命じた。
罠だと分かっていた。
最初に彼女を助けようとした者が、仲間だ。
それでも、この瞬間に何もしないのなら、僕は二度と自分を警察の人間とは呼べない。
僕は前へ出た。
「僕が先にやる」
全員の視線が僕に集まった。
美緒が目を細めた。
「颯太君、妻の前でそんなに急ぐの?」
僕は答えなかった。
森川葵の前へ歩き、身を屈める。
彼女だけに聞こえる声で言った。
「怖がるな。連れていく」
森川葵の目に驚きが走った。
次の瞬間、彼女は僕を蹴った。
ひどく見えるが、実際には軽い一撃だった。
彼女は僕の肩をつかみ、強く噛みついた。
鋭い痛みが走る。
彼女は耳元で、極めて小さな声で言った。
「口に向かって、自分の手を探って」
僕が意味をつかむ前に、彼女の手に髪に隠していた細い鋼針が見えた。
彼女は目だけで僕を止めた。
それは別れだった。
そして命令だった。
動かないで。
僕が飛び出すには遅すぎた。
森川葵は鋼針を自分の胸へ突き立てた。
倒れた時、長い髪が黒い水のように床へ広がった。
大広間は静まり返った。
美緒は彼女を見下ろし、残念そうにため息をついた。
「こんな死に方で済むなんて、楽すぎるわ」
僕は人々の中に立ち、肩に残る噛み跡の痛みを感じていた。
胸の奥で、何かが割れた。
森川葵。
必ず任務を終わらせる。
そして、必ず君の仇を取る。
第5話 名簿
雫の小楼へ戻ってからも、僕は眠れなかった。
肩の噛み跡が、ずっと痛んでいた。
森川葵の最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
口に向かって、自分の手を探って。
口。
手。
そこで僕は、三階のトイレに並んでいた赤い唇型の小便器を思い出した。
翌日、僕はトイレへ行くふりをして、監視の死角で六番目の小便器の上辺へ手を伸ばした。
指先が薄い何かに触れる。
透明テープだった。
剥がすと、小さなUSBメモリが落ちてきた。
森川葵は、そこに名簿を隠していた。
その夜、七階の小部屋で田辺七郎が一人、清水奈奈を待っていた。
僕は赤ワインの瓶を持って入った。
そのワインには、あらかじめ強い薬を混ぜてある。
田辺は飲むと、すぐに力を失った。
僕は背後に立ち、細い紐を首へかけた。
彼はしばらくもがき、やがて動かなくなった。
憐れみはなかった。
生きているだけで、さらに多くの地獄を作る人間もいる。
その後、僕は壁の配電盤を壊し、蝋燭の火で二本の線を焼き切った。
短絡による火災に見せかけるためだ。
監視カメラが落ち、廊下が混乱する中、僕は田辺の右手親指を切り取り、突き当たりの部屋へ向かった。
暗証番号。
指紋。
かちゃり。
扉が開いた。
窓のない部屋は、湿って暑かった。
古いデスクトップパソコンを起動し、ログイン画面を迂回して、森川葵のUSBメモリを差し込む。
中には一つの名簿があった。
氏名、生年月日、住所、連絡先、証件番号。
百人を超える情報。
藤原千晴、森川葵、清水奈奈。
そして今の僕が使っている偽名も含まれていた。
僕はパソコン内にある元ファイルを見つけ、二つの名簿が一致することを確認した。
その後、元ファイルをUSBへコピーし、同時に全情報を無理やり頭へ刻み込んだ。
特殊な記憶訓練は受けている。
百人を超える情報は楽ではなかったが、不可能ではない。
出る前に、僕はわざとパソコンも扉も閉めずにおいた。
火災警報が七階に鳴り響いた。
人々が逃げ出す。
僕はその混乱に紛れ、三階の大広間へ戻った。
二十分後、美緒は建物を封鎖し、全員を大広間へ集めた。
傭兵たちが銃を向け、全員を床に伏せさせる。
美緒は顔を曇らせて言った。
「部屋の資料を取った人、今出せば少しは楽にしてあげる」
身体検査が始まった。
僕の番になると、監視員は服、靴底、髪、耳、そして隠せそうなあらゆる場所を調べた。
何も出なかった。
本物のUSBメモリは、混乱の中で清水奈奈のポケットへ入れておいたからだ。
「見つけた!」
監視員が清水奈奈の身からUSBメモリを取り出した。
彼女の顔が真っ白になった。
「違う!本当に私じゃない!」
美緒は彼女を見た。
「田辺に呼ばれて七階へ行ったわね?」
「行った……でも火災警報が鳴って、中には入ってない」
「田辺は薬を飲まされて殺された。あなたが一番近づきやすかった」
清水奈奈は泣いて首を振った。
美緒は続けた。
「森川葵と組んで芝居をしたのね。彼女が皆の前で死んで注意を引き、あなたが資料を盗む。でも残念。あなたは幼すぎた」
清水奈奈の泣き声は、遠ざかっていった。
彼女はもう助からない。
僕の心に快感はなかった。
ただ、冷たかった。
森川葵。
君の仇を二人、消した。
残るは鷺澤美緒だ。
彼女には、必ず代償を払わせる。
それから三日間、僕は記憶した名簿をモールス信号で少しずつ宮本玲へ送った。
名前を一つ送るたび、自分の体から骨を一本抜いているようだった。
すべて送り終えたあと、僕は玲に尋ねた。
「森川葵の身元は分かったか」
玲の返事は短かった。
「彼女は警察官ではない。調査報道の記者よ。数年前から何度も東南アジアの特殊詐欺拠点に潜り、被害者の証拠を集めていた」
僕は長いあいだ画面を見つめた。
彼女は僕たちの同僚ではなかった。
それでも、制服を着ている多くの人間より、ずっと戦士だった。
第6話 仮面舞踏会
美緒のアカウントが荒れはじめた。
動画のコメント欄には、彼女は旅行系インフルエンサーではなく、特殊詐欺拠点の誘い役ではないかという書き込みが殺到した。
彼女の動画背景から拠点周辺の地形を割り出す者もいた。
白啓山名義のペーパーカンパニーを調べ上げる者もいた。
日本のメディアは、東南アジア国境地帯の特殊詐欺拠点について報じ始めた。
日本側は外交ルートと警察ルートを通じ、地元武装勢力へ説明を求めた。
犯罪組織の保護者だと見なされるのを恐れた武装勢力は、日本側の視察団を「合法企業」へ案内すると申し出た。
宮本玲は自ら名乗り出て、その視察団の一員になった。
「そちらへ行けば、少しはあなたに近づける」
彼女は暗号でそう送ってきた。
「いざという時、助けになるかもしれない」
僕は画面を見たまま、初めてすぐに返事ができなかった。
数秒後、ただ一文字だけ送った。
「うん」
計画が形になり始めた。
白啓山と美緒が視察団を案内したのは、もちろん僕たちのいる拠点ではない。
別の、清潔な合法企業だった。
そこでは現地従業員だけが働き、明るいオフィスと整った資料が用意されている。
どこから見ても、普通のアウトソーシング会社だった。
玲は僕の指示どおり、美緒にほどよい貪欲さを見せた。
美緒から渡された贈り物は、すべて受け取った。
さらに、日本での印象回復に協力できるとほのめかした。
美緒は食いついた。
数日後、丹羽の町でコスプレ仮面パーティーが開かれた。
雫は早くから一番いい席を押さえ、僕を連れていった。
猫の仮面をつけた彼女は、アニメキャラクターに扮した若者たちと踊っていた。
僕はソファで酒を飲みながら、ふと人混みの向こうに森川葵が立ち、こちらへ杯を掲げているような気がした。
計画は、もうすぐ終わる。
僕は玲に、地元武装勢力の内通者である秘書長を通じ、美緒とパーティー会場の個室で会うよう手配させた。
理由は単純だった。
玲は彼女の印象操作を手伝いたい。
ただし正式な記録は残したくない。
だから会社の宣伝資料をUSBメモリで持ってきてほしい。
そして、個人的な謝礼として、少しの現金があっても自然だ。
美緒は断らない。
彼女は玲を、金に弱い日本の警察関係者だと思い込む。
約束の時刻になると、秘書長はトイレを理由に個室を出て、わざと扉を半開きにした。
僕は雫の手を取った。
「もう一曲、踊って」
音楽が流れる。
僕は回転の中で、雫の視線が個室のほうへ向くよう誘導した。
彼女は美緒を見た。
そして宮本玲も見た。
「あれ、美緒じゃない?」
雫は目を見開いた。
「それに、あの日本側の女警察官も」
僕は振り返り、驚いたふりをした。
「先生に隠れて、何か取引しているんじゃないか?」
最近、白啓山は内部粛清と武装勢力の圧力で、ひどく疑り深くなっていた。
雫もその影響を受けている。
彼女はすぐにスマートフォンを構えた。
会場中で多くの人が動画を撮っている。
その動きは目立たなかった。
玲はカメラに気づくと、計画どおり資料を求めた。
美緒はUSBメモリを取り出し、玲へ渡した。
さらにテーブルの下から、米ドルの束を押し出した。
映像には、すべてはっきり映っていた。
だが、それだけでは足りない。
本当に致命的なのは、もう一つの証拠だった。
僕は美緒との新婚旅行中、彼女が部屋を離れた隙に彼女のパソコンを解析していた。
その時、彼女が毎年二種類の財務資料を作っていることに気づいた。
一つは本物。
もう一つは偽物。
抜いた金は海外口座を経由し、彼女の個人口座へ流れていた。
彼女は田辺七郎と組み、白啓山の金を横領していたのだ。
僕はその資料をUSBメモリへコピーし、タイのホテルのベッド下、木の床板の隙間に隠しておいた。
後に田辺の事務室のパソコンにも、同じ偽帳簿を見つけた。
それが最後の釘になった。
僕は雫に場所を伝えた。
雫は白啓山を連れ、直接そのホテルへ行ってUSBを回収した。
戻ると、田辺の事務室で偽帳簿を照合した。
動かぬ証拠だった。
数日後の朝、白啓山は美緒の寝室へ人を連れて入った。
彼は彼女を朝食に誘った。
テレビでは日本のニュースが流れている。
丹羽の拠点が日本人を不法監禁し、特殊詐欺に従事させていた証拠が報じられ、百人を超える被害者名簿も公開されていた。
白啓山の名前、会社資料、拠点の位置まで、すべて掘り起こされている。
「名簿の精度は九十九パーセントだ」
白啓山は粥をかき混ぜながら言った。
「奴らはどうやって手に入れた」
美緒の顔が青ざめた。
「名簿は、私が止めたはず……」
言ってから、彼女は口を閉ざした。
白啓山が手を上げ、黙らせる。
「地元武装勢力は、期限内に人を返せと言ってきた。あの連中は、俺が金を払って買ったものだ」
彼は美緒を見た。
「引き渡しの前に、誰かが責任を取らなければならない」
美緒の額に汗が浮いた。
身代わりを見つけられなければ、自分が身代わりになる。
その夜、雫と白啓山はタイへ向かった。
僕はアパに連れられ、白啓山の別荘へ行った。
美緒は二階の居間で待っていた。
アパは僕の鎖を壁の金具へつなぎ、出ていった。
部屋には、僕と美緒だけが残った。
彼女が先に口を開いた。
「飼われていたペットたちを見たい?」
彼女は壁の棚を開いた。
中には高価な壺が十数個並んでいた。
その中身は、白啓山を裏切り、あるいは怒らせた女たちの痕跡だった。
僕は一度だけ見て、目をそらした。
美緒は寂しげに笑った。
「機嫌を損ねると、こうなるの」
彼女は僕を見た。
「だから私は、あの人を怒らせるわけにはいかない」
彼女はふいに訊いた。
「認めなさい。あなた、警察の人間でしょう」
僕は静かに見返した。
「証拠は?」
彼女は並べ始めた。
タイのホテルで、彼女のパソコンが触られていたこと。
僕が資産家なのに現金を出せなかったこと。
犬を恐れているように見せながら、猛犬を殺したこと。
僕が作った大口案件では、いつも口座が凍結されたこと。
そして、プロポーズに使った指輪。
「あの十カラット、人工ダイヤでしょう」
僕は思わず少し笑った。
彼女は続けた。
「一番大事なのは、森川葵があの夜ゲームで連絡した相手が、あなただったこと」
胸が締まった。
顔には出さない。
「チャットの記録は?」
彼女は僕を見た。
「彼女のアカウントを復元させたわ」
「出してみろ」
美緒は一瞬止まった。
僕は冷たく言った。
「記録があるなら、出せ」
彼女は持っていなかった。
ただの揺さぶりだ。
森川葵が使っていたのはiPhoneで、クラウドのバックアップはエンドツーエンド暗号化されている。
拠点の技術屋に完全なチャット履歴を復元できるはずがない。
美緒はため息をついた。
「あなたが潜入者かどうかなんて、もうどうでもいい」
彼女は自分の襟を裂き、髪を乱した。
そして引き出しから銀色のリボルバーを取り出す。
「名簿が漏れた。誰かが責任を取らなければならない」
銃口が僕に向いた。
「あなたが私を襲った。私は正当防衛で撃った。雫でも、これなら止められない」
僕は銃を見た。
鎖で壁につながれていなければ、一秒で奪える。
だが今は届かない。
美緒が引き金に指をかけた時、扉の外からノックがあった。
「誰?」
「アパです」
「外で待てと言ったでしょう」
「戻られました」
扉が開いた。
白啓山がスリッパ姿で、星野雫と一緒に入ってきた。
彼は美緒を見て、笑った。
「銃を下ろせ。弾は空包に替えてある」
美緒は固まった。
雫がスマートフォンを掲げ、仮面パーティーの映像を再生した。
美緒がUSBメモリを玲に渡し、テーブルの下から米ドルの束を押し出す場面が映っている。
白啓山はゆっくり言った。
「秘書長を通して日本の女警察官と会ったのは、名簿を渡すためだな」
美緒の顔が真っ白になる。
「違います!あれは宣伝資料で……」
「宣伝資料に、秘書長の同席がいるのか。現金もか」
美緒は何も言えなかった。
彼女が言ったことは事実だった。
だが僕は、事実をもっとも嘘らしく見える場所へ置いた。
雫が冷たく言った。
「今日、父とあなたたちが新婚旅行で泊まったホテルへ行った」
美緒の顔色が変わった。
白啓山がUSBメモリを取り出す。
「お前は田辺と組んで、何年も俺の金を抜いていた」
「海外の個人口座。二種類の帳簿。田辺のパソコンに残っていた偽の決算書」
「これも全部、作り物か?」
美緒はついに慌てた。
「神崎颯太です!彼が私を陥れたんです!」
僕は目を伏せ、小さくため息をついた。
「美緒。君はタイの時点で、僕が君の秘密に気づいたと疑った。だからずっと僕を消そうとしていた。今度は自分の罪を、名簿流出にまで重ねて僕に押しつけるつもりか」
白啓山の目が冷えていく。
横領。
武装勢力幹部との裏取引。
日本側警察官との密会。
名簿流出。
外圧による人員引き渡し。
それらを重ねれば、疑り深い白啓山に、美緒が外部の力を使って自分を排除しようとしたと思わせるには十分だった。
「アパ」
白啓山が言った。
「地下へ連れていけ。医者に渡せ」
美緒はついに崩れた。
「嫌!私は裏切っていない!」
アパが入ってきて、彼女を肩に担ぎ上げた。
棚に並ぶ壺を見た瞬間、美緒は悲鳴を上げた。
その声は階段を下り、地下の奥へ消えていった。
僕は目を閉じた。
森川葵。
すぐに君のところへ送ることはできなかった。
けれど、彼女はもう代償を払い始めている。
第7話 国境
名簿が公開された後、地元武装勢力は大きな外圧を受けた。
関係を切り離すため、彼らは白啓山へ人質を解放するよう要求した。
白啓山も分かっていた。
百人を超える被害者は、もはや金ではなく火種になっている。
拘束し続ければ、さらに大きな利益を失う。
彼は名簿に載った日本人全員を引き渡すことに決めた。
その後、僕は管理側へ引き上げられ、引き渡しの責任者にされた。
白啓山本人は、星野雫、アパ、そして中核メンバーを連れ、カチン方面にある本部へ移動することになった。
そこが白面仏の本当の巣だ。
引き渡しの日、国境近くの陽射しは眩しかった。
強制され、拘束され、壊されてきた百人以上の人々が、武装兵に付き添われ、ゆっくりと日本側と現地合同執行部隊のいる場所へ歩いていく。
泣く者がいた。
地面に膝をつく者がいた。
境界線を越えても、まだ自分が助かったと信じられない者がいた。
僕は拠点側に立ち、白啓山の代理として引き渡しを終えた。
彼らは知らない。
藤原千晴が命を懸けて名簿にたどり着いたことを。
森川葵が命を懸けて名簿を隠したことを。
そして、名もなき多くの人々が、闇の中で最後の灯を守ったことを。
僕は彼らが国境を越えるのを見て、胸の中に空洞ができるのを感じた。
彼らは帰れる。
僕は帰れない。
任務はまだ終わっていない。
白啓山は生きている。
星野雫はまだ闇の中にいる。
僕は彼女の本当の両親に、彼女を光の下へ連れて帰ると誓った。
その時、人々の向こうに宮本玲が見えた。
彼女は制服を着て、日本側の列に立っていた。
数十メートル離れていても、その視線は正確に僕を捉えていた。
僕たちは何も言えない。
見つめ合うことすら許されない。
それでも、その瞬間、いくつものことを思い出した。
初めて接触した時、尾行されていた。
彼女はいきなり僕を路地の壁に押しつけ、低く命じた。
「キスして」
僕が理解するより早く、彼女の唇が触れた。
それが僕の初めてのキスだった。
そして、初めて二人で死地を逃れた瞬間でもあった。
二度目の接触では、雨が降っていた。
彼女は一本しかない傘を、無理に僕へ押しつけようとした。
僕は受け取らなかった。
結局、僕たちは喫茶店の軒先で一本の小さな傘に入った。
雨音が大きかった。
濡れた冷たい空気の中に、彼女の淡い香りが混じっていた。
その後、僕は暴力団の周辺組織同士の抗争に巻き込まれ、頭を負傷して三日間眠った。
彼女は病室に入ることができず、毎晩病棟の下に立ち、夜明けまで待っていた。
今、その彼女が、すぐ近くにいる。
その目には心配が満ちていた。
僕は近づけない。
名前も呼べない。
白啓山の人間に、僕が彼女を知っていると悟らせるわけにはいかない。
だから僕は背を向け、拠点の車へ歩いた。
その瞬間、彼女の目に涙が光るのが見えた。
僕も、もう泣いていた。
潜入捜査員の道は、光へ続いているわけではない。
ただ何度も闇へ入り、誰かを外へ送り出すことだけを求められる。
僕は涙を拭い、車に乗った。
車列は北へ向かって走り出す。
そこには、白面仏の本当の巣がある。
そして、僕の次の任務が始まる。
宮本玲がその後に送ってきた最後の暗号は、たった一つの名前だった。
黒川玄三。
白啓山の背後にいる、日本国内の本当の金主が、ついに姿を現した。




