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転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


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均衡の崩壊

 朝、旗を立てた。


 丘の上で、風が布を鳴らしている。王国連合軍の紋章が帝国軍の陣地からも見えるように、一番高い場所を選んだ。旗竿を地面に突き刺した時、手のひらが擦り切れているのに気づいた。昨夜からずっと握りしめていたらしい。


 帝国軍15,000が動き出したのは、旗を立てて一刻後だった。


「来るぞ」


 フリードリヒが低く言った。俺の右で馬を降り、剣の柄に手をかけている。左手の古傷が白く浮いていた。


 防御陣地は三日かけて構築した。川を背にして、正面を狭めた配置。第一部で隘路を守った時と同じ発想だが、規模が違う。12,000人の命を乗せた陣地だった。


 帝国軍の前列が弓の射程に入る。地面を踏む足音が、遠雷のように響いてくる。


「放て」


 矢が放たれた。帝国軍の前列が崩れる。だが後列がすぐに埋めた。数が違う。穴を塞いでも塞いでも、湧き出してくるように兵が押し寄せる。


 防衛線の左翼がきしんだ。リーゼロッテがそこにいる。赤い髪が揺れるのが見えた。剣を振り下ろす動きが、鍛冶場で鉄を打つ時と同じだった。一撃ごとに正確で、力に無駄がない。


 午前が過ぎた。


 防衛線は持っている。だが押されている。少しずつ、確実に。正面の兵力差を地形で相殺しているが、時間が経てば経つほど不利になる。オットーが馬上から数字を読み上げた。


「矢の残数が三割を切りました。このままでは——」


「わかっている」


 旗を立てて、半日。


 帝国軍の背後に、煙は上がらない。


 フリードリヒが隣に来た。剣に血がついている。額の汗を拭いもしない。左手の古傷を、無意識に親指で擦っていた。妻と子の顔が浮かんでいるのだろう。


「……動かないのか」


 声に責める調子はなかった。確認しているだけだ。俺が間違えたかどうかを、自分の目で見ようとしている。


「待て」


 そう言った。声が乾いていた。


 自分の心臓の音が聞こえる。一定のリズムで、胸の裏側を叩いている。旗が風に鳴っている。帝国軍の怒号が聞こえる。防衛線の軋む音が聞こえる。全部聞こえているのに、心臓の音だけが近い。


 間違えたか。


 17の家が蜂起すると、カタリナは言った。だがそれは情報であって、約束ではない。旗を見て動くかどうかは、あいつらの判断だ。俺にできることは信じることだけで、信じることは何もしないことと区別がつかない。


 心臓が打つ。打つ。打つ。


 リーゼロッテが左翼で戦っている。フリードリヒの妻子が領地で待っている。オットーが帳簿を抱えて数字を回している。俺が旗を立てろと言った。俺が信じろと言った。こいつら全員の命を、帝国内部の人間の判断に賭けた。


 午後の日差しが傾き始めた時、フリードリヒが口を開きかけた。


 その時だった。


 帝国軍の背後、東の方角に、煙が一筋上がった。


 細い煙だった。炊事の煙と区別がつかないほど細い。だが場所が違う。帝国軍の補給線の上だった。


 フリードリヒの手が古傷から離れた。


 二筋目が上がった。南東。三筋目、南。煙が三箇所で立ち昇っている。


 帝国軍の後列に動揺が走った。背後を振り返る兵が増える。指揮官の怒声が飛ぶ。だが煙は増えた。五箇所。補給線に沿って、火の手が広がっている。


 心臓が止まった。比喩ではなく、一拍分、胸の裏側が静かになった。


 蜂起した。五箇所の煙が示す兵力は3,000に届くかどうか。だがそれで十分だった。補給線を断たれた帝国軍は、振り返らざるを得ない。


 帝国軍の陣形が崩れ始めた。背後を突かれた部隊が反転する。15,000のうち数千が後方に割かれ、前線の圧力が明らかに緩んだ。


「——全軍」


 声が出た。枯れかけた喉から、思ったより太い声が出た。


「前へ」


 防御陣地から王国連合軍が動いた。12,000が一斉に前へ出る。左翼でリーゼロッテの赤い髪が跳ねた。右翼でフリードリヒが剣を振り上げて走り出す。古傷のある左手で。


 帝国軍の向こうに、銀髪の男の姿が見えた。遠すぎて表情は読めない。だが穏やかな微笑みが消えているのが、わかった。あの男は怒っていない。理解しようとしている。感情で動いた人間たちが、自分の計算の外にいることを。


 旗が風に鳴っている。


 俺はこの旗を立てた時、正しい計算をしたわけじゃない。正しいかどうかわからないまま、信じただけだ。計算で繋がない絆が、計算で作った鎖より強いのかどうか、まだわからない。


 だが今、煙が上がっている。


 フリードリヒが走りながら笑った。血と汗にまみれた顔で、歯を見せて笑った。


「痛い思いをした甲斐があったな」


 俺も笑った。笑いながら、旗竿を握り直した。手のひらの擦り傷が痛い。その痛みが、今ここにいることの重さだった。


 均衡が崩れた。


 ルドルフが築いた秩序の均衡が、感情で動いた人間たちの手で崩れた。あの男の微笑みがどこかで戻るのか、それとも二度と戻らないのか。まだわからない。


 だが今は、前へ走る。


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