表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生ゲーム理論家は笑顔で世界を掌握する  作者: どみさん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/56

帝国宰相は笑わない

 帝都アイゼンブルクの宰相府執務室は、北向きに窓が切られている。


 午後の光は差し込まない。炉の炎と、書棚の間に点した蝋燭だけが、部屋を照らしていた。石床の上に敷かれた絨毯は深い緋色で、踏み込んだ者の足音を吸い込む。書棚には革装丁の帳簿が整然と並び、一冊として乱れていない。


 ルドルフ・フォン・アイゼンシュタインは、執務机の前に立っていた。


 座ることをしない男だ。椅子はある。だが書類を読む時も、来客を迎える時も、ルドルフは立ったまま話す。部下には「宰相閣下は疲れを知らない」と言われているが、本当のところは単純だった。床に足をつけていないと、重力を忘れる。


 扉が開いた。


「入れ」


 声は低く穏やかで、命令の形をしていなかった。


 ヴェルナーが入室した。帝国軍の制服。肩に階級章。三十代の後半で、額の上に深い横皺がある。男の進み方は、廊下とは明らかに違っていた。石床の上でわずかに速度を落とし、絨毯に足が乗った瞬間、さらに緩んだ。処刑場に向かう脚と、後退する脚が同時にある、という歩き方だった。


 机の前三歩。膝を折り、片膝をついた。


「ヴェルナーです。グレンツェン前線より、ご報告に参りました」


「立ちなさい」


 ルドルフは書類から目を上げなかった。


「床で話すことはありません。顔を上げて、聞いたことを話してください」


 ヴェルナーが立ち上がった。革鎧が軋む音がした。肩が固い。


「はい。グレンツェン領への進駐は、撤退いたしました。グレンツェン家の嫡男が隘路に200を展開し、補給路を遮断。援軍が三日後に到着するという書簡が、斥候の手に渡りました。以上の状況から、継戦の損益が合わないと判断し……」


「判断」


 ルドルフが書類を机に置いた。


 ようやく視線が上がった。蝋燭の炎が青い瞳を照らしていた。穏やかな微笑みは変わっていない。ヴェルナーの肩が、また固くなった。


「あなたが判断した。そういうことですね」


「は……」


「咎めているのではありません」


 ルドルフは机の端に指を乗せた。革の表紙の角を、爪の先でなぞった。


「援軍の書簡は、本物でしたか」


「……調査いたしましたが、エルヴィン伯爵家の書式と一致しておりました。ただ、実際に援軍の動きは確認されず」


「偽書簡、ということになりますね」


「はい。書式と紙の質まで揃えてありました。本物と判別するのは、困難だったかと」


「退路を物理的に断った」


「橋を、自ら落としました。自分たちが戻れない側に、自ら渡って」


 ルドルフは少し黙った。


 書棚の上の砂時計が、細い音を立てていた。流れる砂の音ではなく、木の枠が微かに共鳴する音だった。


「ご苦労でした。下がりなさい」


 ヴェルナーの表情が、一瞬だけ動いた。叱責を待っていた。処罰を想定して、答弁を用意していた。だが宰相の口から出たのは、労いだった。その落差が、怒声より堪えたらしかった。喉が一度動き、「はっ」とだけ言って、男は扉の外に消えた。



    ◇



 執務室に一人になってから、ルドルフは初めて椅子に腰を下ろした。


 書類ではない。来客でもない。一人で考える時だけ、座る。


 指を組んで、顎の上に乗せた。


 グレンツェン。帝国の西端。王国との国境。鉄鉱石の出る山と、石橋と、慢性赤字の辺境伯領。地図の上では記号に過ぎない一点が、三つのことをやってのけた。


 退路を断った。偽書簡を流した。同盟を構築しつつある。


 三つを並べると、ひとつの像が浮かんだ。


 偶発ではない。書式と紙質まで揃えた偽書簡は、婚約者の実家の書式見本を事前に手配していなければ作れない。橋を落とした判断も、同盟の構築も、全てが計算の連鎖として繋がっている。この男は、帝国が来る前から準備していた。


 ルドルフは目を細めた。


 報告書には「ユリウス・フォン・グレンツェン、十七歳」とある。感情で動いた形跡がない。


 ルドルフは指の組み方をほどいた。



    ◇



 宰相府の東側に、小さな薬草園がある。


 石造りの建物が囲む中庭に作られた、宰相の私用の区画だ。鉄格子の扉には鍵がかかり、管理人を置いていない。ルドルフ自身が、一人で世話をする。


 夕刻。ルドルフは薬草園の土の前に片膝をついていた。上着を脱いで、袖をまくっていた。指先に土がついても、気にしない。革手袋は使わない。


 セイヨウオトギリソウの苗だ。移植して三週間。根が張り始めているはずだが、葉の縁が少し黄みを帯びている。日照が足りないか、水の量か。


 葉の一枚を、指の腹でそっと持ち上げた。葉脈の走り方を確認する。水分は足りている。日照が問題だ。


 石の囲いを少し北に動かせば、午前の光が当たるようになる。


 ルドルフの指が、葉の縁を撫でた。


 考えていたのは、薬草ではなかった。


 ユリウス・フォン・グレンツェン。秩序の枠組みの中で動く男だ。コストとリターンを計算し、感情で動かない。


 だが、ひとつ分からないことがある。


 なぜ、帝国に刃向かう必要があった。


 計算で動く男であれば、帝国との正面衝突は避けるはずだ。200で3,000に対して地形と欺瞞で持ちこたえるのは、知的には面白い。だが損益だけで判断するなら、降伏か交渉か、撤退して生きながらえることを選ぶ。それをしなかった。


 鉱山を守るため、か。確かに収益源としての価値はある。だが領地ごと帝国の秩序に組み込まれれば、鉱山の収益の一部は保全される。


 同盟諸侯の評価を上げるため、か。辺境での勝利が王国内での地位向上に繋がる計算は成り立つ。


 だが、それだけではない気がした。


 何かが、計算の外にある。


 指先が、葉を離れた。


「興味深い」


 ルドルフの指が、土の上で止まった。


 土の感触が、指の腹に残っていた。



    ◇



 薬草園を出る前に、ルドルフは立ち止まった。


 空は茜から灰へ変わりかけていた。帝都の石造りの建物が、夕光を受けて橙色に染まっている。秩序のある都市だ。街路の幅は一定で、建物の高さは区画ごとに規制され、ゴミは指定の場所に捨てられる。ルドルフが十五年かけて整えた秩序だ。


 美しい。


 だが、グレンツェンのあの男は、この秩序の外にいる。


 今のところは問題ではない。辺境の一勝利など、帝国の版図に影響しない。同盟諸侯を少し束ねたところで、帝国軍の総力に対しては意味をなさない。


 今のところは。


 ルドルフは、帝都の石畳を一歩踏んだ。靴音が夕暮れの中庭に響いた。


 侍従が扉の脇で控えていた。


「フォルクマルを呼びなさい。それから帝国西部の交易路台帳を持ってこさせて」


「交易路台帳、でございますか」


「グレンツェン周辺の通商路です。どの荷がどこを経由しているか。同盟諸侯の交易依存度を出させなさい」


 侍従が礼をして下がった。


 計算で動く男には、選択肢を潰すのが早い。感情で動かないなら、感情に訴える必要はない。経済の脈を断てば、計算ずくで離脱を選ぶだろう。


 同盟諸侯が計算の上で結びついているなら、計算の上で崩せる。


 交易路を断て。帝国側との往来を制限する。周辺領主への圧力は、外交的な書状を一通送れば足りる。「帝国と交易を続けたい者は、グレンツェンとの軍事協力を見直すように」。それだけだ。


 石畳の上を、靴音が続いた。


 ユリウス・フォン・グレンツェン。まだ十七歳の、辺境の嫡男。ルドルフの秩序が王国に及ぶ時、この男は邪魔になるかもしれない。あるいは使えるかもしれない。


 今は、できることを潰しておく。


 薬草園の灯が、背後で消えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ