帝国宰相は笑わない
帝都アイゼンブルクの宰相府執務室は、北向きに窓が切られている。
午後の光は差し込まない。炉の炎と、書棚の間に点した蝋燭だけが、部屋を照らしていた。石床の上に敷かれた絨毯は深い緋色で、踏み込んだ者の足音を吸い込む。書棚には革装丁の帳簿が整然と並び、一冊として乱れていない。
ルドルフ・フォン・アイゼンシュタインは、執務机の前に立っていた。
座ることをしない男だ。椅子はある。だが書類を読む時も、来客を迎える時も、ルドルフは立ったまま話す。部下には「宰相閣下は疲れを知らない」と言われているが、本当のところは単純だった。床に足をつけていないと、重力を忘れる。
扉が開いた。
「入れ」
声は低く穏やかで、命令の形をしていなかった。
ヴェルナーが入室した。帝国軍の制服。肩に階級章。三十代の後半で、額の上に深い横皺がある。男の進み方は、廊下とは明らかに違っていた。石床の上でわずかに速度を落とし、絨毯に足が乗った瞬間、さらに緩んだ。処刑場に向かう脚と、後退する脚が同時にある、という歩き方だった。
机の前三歩。膝を折り、片膝をついた。
「ヴェルナーです。グレンツェン前線より、ご報告に参りました」
「立ちなさい」
ルドルフは書類から目を上げなかった。
「床で話すことはありません。顔を上げて、聞いたことを話してください」
ヴェルナーが立ち上がった。革鎧が軋む音がした。肩が固い。
「はい。グレンツェン領への進駐は、撤退いたしました。グレンツェン家の嫡男が隘路に200を展開し、補給路を遮断。援軍が三日後に到着するという書簡が、斥候の手に渡りました。以上の状況から、継戦の損益が合わないと判断し……」
「判断」
ルドルフが書類を机に置いた。
ようやく視線が上がった。蝋燭の炎が青い瞳を照らしていた。穏やかな微笑みは変わっていない。ヴェルナーの肩が、また固くなった。
「あなたが判断した。そういうことですね」
「は……」
「咎めているのではありません」
ルドルフは机の端に指を乗せた。革の表紙の角を、爪の先でなぞった。
「援軍の書簡は、本物でしたか」
「……調査いたしましたが、エルヴィン伯爵家の書式と一致しておりました。ただ、実際に援軍の動きは確認されず」
「偽書簡、ということになりますね」
「はい。書式と紙の質まで揃えてありました。本物と判別するのは、困難だったかと」
「退路を物理的に断った」
「橋を、自ら落としました。自分たちが戻れない側に、自ら渡って」
ルドルフは少し黙った。
書棚の上の砂時計が、細い音を立てていた。流れる砂の音ではなく、木の枠が微かに共鳴する音だった。
「ご苦労でした。下がりなさい」
ヴェルナーの表情が、一瞬だけ動いた。叱責を待っていた。処罰を想定して、答弁を用意していた。だが宰相の口から出たのは、労いだった。その落差が、怒声より堪えたらしかった。喉が一度動き、「はっ」とだけ言って、男は扉の外に消えた。
◇
執務室に一人になってから、ルドルフは初めて椅子に腰を下ろした。
書類ではない。来客でもない。一人で考える時だけ、座る。
指を組んで、顎の上に乗せた。
グレンツェン。帝国の西端。王国との国境。鉄鉱石の出る山と、石橋と、慢性赤字の辺境伯領。地図の上では記号に過ぎない一点が、三つのことをやってのけた。
退路を断った。偽書簡を流した。同盟を構築しつつある。
三つを並べると、ひとつの像が浮かんだ。
偶発ではない。書式と紙質まで揃えた偽書簡は、婚約者の実家の書式見本を事前に手配していなければ作れない。橋を落とした判断も、同盟の構築も、全てが計算の連鎖として繋がっている。この男は、帝国が来る前から準備していた。
ルドルフは目を細めた。
報告書には「ユリウス・フォン・グレンツェン、十七歳」とある。感情で動いた形跡がない。
ルドルフは指の組み方をほどいた。
◇
宰相府の東側に、小さな薬草園がある。
石造りの建物が囲む中庭に作られた、宰相の私用の区画だ。鉄格子の扉には鍵がかかり、管理人を置いていない。ルドルフ自身が、一人で世話をする。
夕刻。ルドルフは薬草園の土の前に片膝をついていた。上着を脱いで、袖をまくっていた。指先に土がついても、気にしない。革手袋は使わない。
セイヨウオトギリソウの苗だ。移植して三週間。根が張り始めているはずだが、葉の縁が少し黄みを帯びている。日照が足りないか、水の量か。
葉の一枚を、指の腹でそっと持ち上げた。葉脈の走り方を確認する。水分は足りている。日照が問題だ。
石の囲いを少し北に動かせば、午前の光が当たるようになる。
ルドルフの指が、葉の縁を撫でた。
考えていたのは、薬草ではなかった。
ユリウス・フォン・グレンツェン。秩序の枠組みの中で動く男だ。コストとリターンを計算し、感情で動かない。
だが、ひとつ分からないことがある。
なぜ、帝国に刃向かう必要があった。
計算で動く男であれば、帝国との正面衝突は避けるはずだ。200で3,000に対して地形と欺瞞で持ちこたえるのは、知的には面白い。だが損益だけで判断するなら、降伏か交渉か、撤退して生きながらえることを選ぶ。それをしなかった。
鉱山を守るため、か。確かに収益源としての価値はある。だが領地ごと帝国の秩序に組み込まれれば、鉱山の収益の一部は保全される。
同盟諸侯の評価を上げるため、か。辺境での勝利が王国内での地位向上に繋がる計算は成り立つ。
だが、それだけではない気がした。
何かが、計算の外にある。
指先が、葉を離れた。
「興味深い」
ルドルフの指が、土の上で止まった。
土の感触が、指の腹に残っていた。
◇
薬草園を出る前に、ルドルフは立ち止まった。
空は茜から灰へ変わりかけていた。帝都の石造りの建物が、夕光を受けて橙色に染まっている。秩序のある都市だ。街路の幅は一定で、建物の高さは区画ごとに規制され、ゴミは指定の場所に捨てられる。ルドルフが十五年かけて整えた秩序だ。
美しい。
だが、グレンツェンのあの男は、この秩序の外にいる。
今のところは問題ではない。辺境の一勝利など、帝国の版図に影響しない。同盟諸侯を少し束ねたところで、帝国軍の総力に対しては意味をなさない。
今のところは。
ルドルフは、帝都の石畳を一歩踏んだ。靴音が夕暮れの中庭に響いた。
侍従が扉の脇で控えていた。
「フォルクマルを呼びなさい。それから帝国西部の交易路台帳を持ってこさせて」
「交易路台帳、でございますか」
「グレンツェン周辺の通商路です。どの荷がどこを経由しているか。同盟諸侯の交易依存度を出させなさい」
侍従が礼をして下がった。
計算で動く男には、選択肢を潰すのが早い。感情で動かないなら、感情に訴える必要はない。経済の脈を断てば、計算ずくで離脱を選ぶだろう。
同盟諸侯が計算の上で結びついているなら、計算の上で崩せる。
交易路を断て。帝国側との往来を制限する。周辺領主への圧力は、外交的な書状を一通送れば足りる。「帝国と交易を続けたい者は、グレンツェンとの軍事協力を見直すように」。それだけだ。
石畳の上を、靴音が続いた。
ユリウス・フォン・グレンツェン。まだ十七歳の、辺境の嫡男。ルドルフの秩序が王国に及ぶ時、この男は邪魔になるかもしれない。あるいは使えるかもしれない。
今は、できることを潰しておく。
薬草園の灯が、背後で消えた。




