見えない締め縄
荷車の数が減っている。
オットーがそう言ったのは、朝食の後だった。帝国軍が退いてから三週間。俺はまだ、鉱山への迂回路の工事費を算段していた。
「ユリウス様。少し、宜しいでしょうか」
眼鏡を押し上げながら入ってきた。帳簿を二冊、脇に抱えている。
机の前に立ち、帳簿を広げた。
「交易路の通行記録です。レンツ卿との同盟後、通行権を整備したことで増加を予測していましたが」
指が数字の列を叩いた。乾いた音が続く。
「先週比で、三割減です」
「三割」
「はい。帝国側から入ってくる商荷が、急激に細ってきています。毛織物、麦、塩の順に」
目を細めた。
塩と麦は帝国からの輸入に頼っている品目だ。毛織物はなくても死なないが、麦と塩が止まれば話が違う。
「商人が避けているのか」
「利があれば危険な道も通る方々です。怖がって引いたようには見えません」
オットーが眼鏡の位置を直した。
帳簿を見直した。品目の列に目を走らせる。毛織物。麦。塩。減り方に偏りがない。商人が個々に避けているなら、品目にばらつきが出る。揃いすぎている。
誰かが、整えた形で絞っている。
◇
昼前、セラフィーナに呼ばれた。
南向きの小部屋で、彼女は窓際に座っていた。扇子を閉じたまま、骨の部分を指先でゆっくりと辿っている。
「オットーさんから伺いました。交易の減少ですね」
「ああ」
「それで?」
俺が何か言う前に口が開いた。
「原因の見当は」
「帝国だろう」
扇子の骨を辿る指が止まった。
「商荷の品目を絞って、圧力をかけている。感情で動く相手のやり方じゃない。誰かが計算して選んでいる」
「計算して選ぶ人間が、帝国の宰相府にいますわね」
セラフィーナが視線を上げた。翡翠の目が俺を見ている。
「ルドルフ公。同盟諸侯に書状を送ったはずです。『帝国と交易を続けたい者は、グレンツェンとの軍事協力を見直すように』」
「……書状の中身まで読めたか」
「読めませんでした。ただ、そう書くのが一番損益が合います。軍事で正面から潰すより安い」
扇子が骨から離れた。テーブルの上に置かれた。
「帝国と正面から組んだ以上、こうなることは計算に入っていたのでしょう?」
棘があった。丁寧な問いの形をしているが、棘がある。
「入ってなかった」
素直に言った。
「速さが計算外だった。撤退から三週間で動いてくる。こっちの財政状態まで読んでいる」
セラフィーナの微笑みが薄くなった。怒りではない。別の何かだ。
「ご自分の財政状態は、ご自分がよくご存知でしょう」
「歳入720、歳出830。交易が止まれば歳入はさらに落ちる。三ヶ月で底だ」
「三ヶ月で底をつく領地に、帝国は貿易制限を選んだ」
そういうことだ。
軍事で来なかった理由がわかる。軍を動かすコストより、交易路を絞るほうが安い。鉄と穀物の流通を止めれば、同盟の経済基盤が揺らぐ。経済が揺らげば、同盟は自然に崩れる。
机の端を、指先で一度だけ叩いた。
◇
夕刻に書状が二通届いた。
一通目はレンツ家からだった。
「グレンツェン様。誠に恐れ入りますが、帝国側との交易が先週より滞っております。通商の要として御家との同盟を歓迎しておりましたが、このまま帝国との往来が断たれますと、当家の冬越しに支障が出る見込みです。御賢察のほど、お願い申し上げます」
賢察。要は、どうにかしてくれという話だ。
「ブルーメ家からも似た内容が来ているか」
オットーが眼鏡を一度押し上げた。
「鉄と穀物の供給が不安定になり始めていると。来月の農具の手入れに間に合わなければ、春の耕作に影響が出ると」
指が数字を叩いていた。帳簿の上を、規則的に。
「村への見舞いの費用と、迂回路の工事費だけで今月は金貨四十を超えます。鉱山の搬出は橋が直るまで見込めない。同盟諸侯への補填まで回す余裕は」
指が止まった。
「ありません」
声の張りが落ちた。
◇
その夜、三通目の書状が届いた。
使者が玄関で待っているという報告を受け、俺は廊下に出た。
使者はレンツ家の紋章を帯びていた。先ほどの書状と別の男だ。
「ご主人様より、口頭にて」
男が一歩下がった。息を一度、整えた。
「グレンツェン様との同盟について、帝国側より正式な通知がございました。交易路の往来を継続するためには、軍事協力の見直しが必要とのことです。誠に不本意ながら、当家としては帝国との関係を優先せざるを得ない状況となりました」
離脱だ。
「了解した。ご主人様にお伝えくれ。レンツ家のご判断は理解する」
使者が礼をして去った。
廊下に残った。外廊下の向こうに夜の庭が見えた。
オットーが横に来た。書状を持ったまま、眼鏡の位置に手が行きかけて、止まった。口を開かない。
三週間前、同盟を締結したと思っていた。レンツとブルーメが兵を出すと言った。フリードリヒだけが断った。
今、その計算が裏返っている。
ルドルフは帝国軍を動かさなかった。書状一通で動かした。帝国と交易を続けたい者は見直すように、という言葉だけで、同盟が崩れ始めた。
俺が見ていたのは軍事の盤面だった。守れる地形があった。偽情報が使えた。利得の目で動機を読めた。
だがルドルフが置いたのは別の盤の上だった。
口角が動いた。笑みではない。確認だった。
目が細くなった。
軍事で勝って、経済で詰められている。相手が土俵を変えてきたなら、こっちも変えればいい。鉱山の鉄が動かせないなら、動かせるものを探す。帝国が経済で絞るなら、帝国が取れないものを作る。同盟諸侯が帝国との交易を選ぶのは当然だ。その当然を超える何かを見せればいい。
セラフィーナが廊下の角から出てきた。
「書状は読みました」
声が平静だった。扇子は閉じている。
「それで?」
扇子の先が、一度だけ揺れた。
俺は夜の庭に向き直った。
「ゲームの盤を変えよう」
セラフィーナが一歩、横に来た。白金の髪が夜風に揺れて、肩に触れた。花ではない匂いがした。石鹸か、あるいは彼女自身のものか。今はそれどころではない。が、鼻は正直だ。
翡翠の目が、こちらの横顔を見ていた。扇子を持つ指が、骨の上に静かに乗った。暗算を始めている。それ以上、何も言わなかった。




