補章 青の瞳に映るもの
※このエピソードはカイル視点になります。
石段を踏みしめながら、俺は北の聖域に向かう列の先頭を進んでいた。
森を覆う霧のような冷気が足元を這い、鎧の触れ合う音だけが静寂を破る。
今回の任務は、国で最も美しい髪を持つ娘を、セレスティナ王女の解呪のために聖域まで護送すること。
隊列の中央にいる「髪を捧げる娘」の顔は見えないが、胸の奥に妙なざわつきがあった。
死んでも守れ――それが王命だった。
王女の命を救うため、というのはもちろんある。だが、それだけではない。
自らの髪を犠牲にする娘など、現れないのではと皆思っていた。騎士が命をかけるよりも、もっと過酷な決断だろう。だからこそ、国王陛下はその人に対して感謝を込め、重い言葉と共に護衛の命令を下した。
俺も驚いた。
なんと強い人がいるのかと。知らない誰かだが、尊敬の気持ちを抱く。
髪を捧げる人物の名は伏せられていた。だからこそ、思考は勝手に巡ってしまう。
自分の婚約者、リリアーナの細く艶やかで美しい金の髪が何度も脳裏をよぎる。彼女はどういうわけか、セレスティナ王女と交流があった。あの気の強い王女と、どうしてあんなに仲良くなれるのか、よく分からない。
それでもふたりは、しょっちゅう会っているようだった。
――しかし、リリアーナではないはず。
そう俺は思っていた。思いたかった。
彼女は引っ込み思案で、おとなしく、危険に飛び込むような真似はしない。……いや、してほしくない。いくらセレスティナ王女に近いとしても。
あの金の髪を、失わせたくない。
いつも控えめで、引っ込み思案なリリアーナ。彼女が心の支えにしているのが、あの美しい金の髪だということはわかっている。
彼女には、あのまま穏やかに過ごしてほしい。
口にするのは気恥ずかしくてできないが、彼女の小さくて穏やかな世界はとても心地良い。戦場から帰ってきた自分のような男にも、静かに優しい笑顔を向けてくれる。
安心する。ホッとする。いてくれると、うれしくなる。
そのためにも、この国を守り、セレスティナ王女を救う任務をやり遂げなくてはならない。
祭壇の前で髪を捧げる娘のベールが外された瞬間、息が止まった。
眩しくて柔らかで、春の陽射しを束ねたような見慣れた金色――
「まさか……」
思わず声にしていたかも知れない。
自分の見ている光景が信じられなかった。
だけど、それは間違いなくリリアーナだった。
見間違えるわけがない。
何度も見てきた、あの優しく柔らかな光をまとった金色の髪。
俺はその金色の髪の持ち主が、どうしようもなく好きだったと唐突に気付く。
当たり前のように、大切なものの手入れをし、丁寧に毎日を過ごす彼女が。
もっとちゃんと言えば良かった。あなたがとても美しいこと。
髪飾りも贈ればよかった。何度も機会はあったのに――
光が立ち上がり、髪がふわりと浮く。
一本ずつ溶けるように空へ昇っていくたび、胸の奥が締めつけられた。
一瞬、リリアーナと目が合った気がした。
彼女の目は震えていなかった。恐れや後悔を抱きながらも、まっすぐな火を灯している。
あの人の持つ暖かさは、あんなにも確かで強く、美しいところから来ていたのか――
リリアーナの穏やかな日々を守りたかった、守れなかった。そんな悔しさと、喪失感。
けれど、それ以上。抱えきれないほどの誇らしさが胸を埋め尽くす。
あまりにも美しすぎて、苦しかった。でも、目を逸らすわけにはいかない。
最後の金の一筋が消え、短くなった髪が頬に触れたとき、彼女は深く一礼した。小柄なのに、なぜか誰よりも大きく見えた。
あまりに見つめていたせいだろうか。彼女の頬が風に冷やされる感覚まで想像できた。痛みはないはずだが、失ったものも確かにある。リリアーナもそう分かっているはずだ。
だから、今度こそちゃんと言わなくてはならない。あの優しくて強い人が、自ら身を引いてしまう前に。
(……俺は、あの人の隣に立てる生き方がしたい)
任務が終わったら、リリアーナに伝えに行こう。
魔法陣の上には、彼女の溶けていった金糸のような髪の一部だろうか、砂金のようにキラキラと大気がきらめいている。
その向こうに、揺れるように消えていく短い金の髪の持ち主。この世界の何よりも美しく、俺は一生この光景を忘れないだろう。
俺はぼやけた視界を強く拭うと、自分の任務を全うすべく、真っ直ぐ前を見据えた。
最後の最後までお読みいただき、ありがとうございました。