後編
「フィンレー・キャンベル様とパトリシア・キャンベル様ですね。お待ちしておりました」
ついに再び社交界に参加する日がきてしまった。
ハッチンソン伯爵家の使用人に、フィンが招待状を手渡す。
緊張して、フィンがエスコートで差し出してくれている腕を掴む手に、思わず力が入ってしまう。
痛いだろうにフィンは何も言わず、表情にも出さないでくれる。
扉を入ったら、早速広いホールだ。
玄関ホール兼、ちょっとしたパーティーなどができるようになっている。
うちもそうだけど、中堅程度の伯爵家の屋敷によくある作りだ。
もう既に、私は社交界に足を踏み入れているということだ。
新しい来客に、ホストのハッチンソン伯爵令嬢、ハーパーらしき人が近づいてくる。
翠にも見える見事な黒髪を、子どもの頃の記憶でなんとなく覚えている。
今日は彼女が友人達を招いた同年代のパーティーなのだ。
同年代といっても、ハーパー・ハッチンソンは20代の前半。私よりも少し上だ。
フィンやレニーの話では、社交的で人望のある好人物らしい。
それもあって、フィンも最初の社交界への挑戦は、このパーティーにすることを賛成してくれていた。
「こんにちは、フィン。来てくれて嬉しいわ。こちらはお姉さんのパトリシアかな。昔お見掛けしたことがあるわ」
「お招きありがとう、ハーパー。素敵なパーティーだね。そう、こちらは姉のパトリシア。今まで療養していたのだけど、すっかり体調がよくなったんだ」
「それはおめでとう。心を込めておもてなしさせていただくわ。よろしくパトリシア」
「あ! ありがとうございます。よろしく、お願いします」
緊張で、声が小さくなってしまったけれど、ハーパー様は安心するような笑顔で頷いてくれた。
安心で、体中の力が抜ける。
そのせいで、今までどれだけ力が入っていたか分かってしまった。
明日は筋肉痛かもしれない。
「あ、また新しいお客さんだ。フィン、パトリシア。楽しんでて。後でまたゆっくり話しましょう」
「お心遣いありがとう、ハーパー」
ホストのハーパーは、忙しいのだろう。
すぐに行ってしまって、少し寂しいとすら思う。
「……すごい。話せた」
「うん。よかったねパトリシア」
あれだけ怖かった同年代の女性と、早速話してしまった。
少し年上のお姉さんで、社交辞令の挨拶だけだったけど。
だけど心を込めてお出迎えしてくれたのが、伝わってきた。
ジーンと胸が暖かくなる。
「ありがとう、フィン。来てよかった」
「うん。今日は少し会場にいたら、無理しないで帰ろう。あっちのほうに俺の友達が集まっているな。レナードも来ているかもしれない。行ってみる?」
「……うん」
本当はいますぐ帰りたいくらいに疲れていたけれど、もう少しだけ、勇気を出して誰かと話してみようかと思った。フィンやレニーの友達なら、きっといい人たちだろうから。
パーティーホールを、フィンと二人、人ごみを縫って歩いていく。
その時だった。
「あ、あの! フィンレー様。よ、よかったら少しお話ししていただけませんか」
真っ赤な顔をした可愛らしい令嬢が、フィンを呼び止めた。
多分私よりも3つか4つ年下だろう。顔に幼さが残っている。
勇気を出して話しかけたのか、声が大きかった。
おかげで周囲の人の視線が集まったのを感じる。
「ミリー、こんにちは。もちろんいいよ。今あっちの連中に挨拶にいくところなんだ。一緒に行こう」
「あ、あの……」
ミリー嬢に恥をかかせないように、フィンが自然に誘う。
--我が弟ながら、なんでこんなに社交的なのかしら。すごいわ。
「ふ、二人きりじゃ、だめですか」
ミリーは泣きそうになりながら、真っ赤になって俯いてしまう。
周囲の人たちが、ことの成り行きを見守っていた。
「オーケー。じゃあ少し待っていてくれる? 姉を知り合いに……」
『大丈夫だよ、フィン。あそこに行って、レニーを探してみる。……いなければ、そのままあの奥のほうに隠れているから』
不安だろうに勇気を出して話しかけてきた、こんな年下の女の子に、恥をかかせるのは可哀そうで、小声でフィンにそう提案した。
『いやでも』
『じゃあ、行くね』
大丈夫だよというメッセージも込めて、笑顔を作ってフィンの目を見る。
『……すぐに追いかけるから』
まだ不安そうだけど、そう言ったのを確認して、フィンが連れていってくれようとしていた場所に向かう。
昔よく家に遊びに来ていた男の子たちだ。少し話せる子もいるかもしれない。
――なんて。レニー以外に話しかけるような度胸はないのだけど。
ホストのハーパー様も、さっきのミリー嬢も、優しそうないい子だった。
――もっと早くに、社交界にこればよかったかしら。意外と誰も、子どもの頃のことなんて覚えていなかったり……。
そう安心しかけていた時――
「あらー。誰かと思ったら、パティじゃない」
聞こえた女性の声に、ドクンッと大きく心臓が跳ねて、それきり体が動かなくなってしまった。
--この声は。
「来るなら言ってよ。私たち、とっても仲良しだったじゃない。ね、パティ?」
「ブルーナ……」
同年代のパーティーだからいるかもしれないとは思っていたけれど。
あれだけ私を避けていたくせに、まさか相手から話しかけてくるなんて、思わなかった。
『パティ』
フィンやレニーに呼ばれるのはあんなに好きなのに、ブルーナにはそう呼んでほしくない。
逃げ出したい。話したくない。いやだ怖い。
それなのになぜか、顔は笑ってしまう。
「あ、あの……」
「返事は? 仲良しだと思っていたのは、私だけなの? やだ酷い。イジワル言わないで」
「ブルーナどうしたの? あら、その子って……」
「パトリシアよ。例のあの」
「あー、昔付きまとわれていた」
「ね。あれだけ付きまとっていたくせに。無視するなんて酷くない?」
「…………」
「何とか言いなさいよ。ねえ、謝って。そうしたら昔みたいに、仲良くしてあげてもいいわよ」
どうしていいのか、正解が分からない。
付きまとうなと言ったり、仲良しだから無視するなと言ったり。
――とりあえず、謝ろう。
付きまとったことを。無視したことを。
――……本当に?
謝ろうと口を開くけれど、声が出ない。
私は本当に、謝るべきなの? ブルーナと仲良くしてもらうために?
『そのブルーナっていう子は、とても心が弱かったのかもしれないね』
レニーが言っていたことを思い出す。
このブルーナが、弱い? とてもそうは思えない。だけど……。
『パティは強いよ。強くて、優しい』
その言葉は、信じたい。
「……私、あなたに会いに来たんじゃないの。失礼するわ」
心臓がバクバクと音を立てている。怖くて怖くて仕方がない。
本当は笑顔でごめんなさい、許してって、ブルーナに謝ってしまいたい。
だけどそんなことをしても、きっと虐められるのには変わらない。
――だったら少しくらい、言い返してやる!
「うわっ、なにこの子。行きましょうよブルーナ」
「ちょっと待ちなさいよ! ずっとひきこもっていたあんたが、私以外の誰に会いにきたっていうの? ウソ言わないで。私に付きまといに来たんでしょう?」
一緒にいる子は離れていこうとしているのに、ブルーナはしつこく食い下がってきた。
本当に私に付きまとわれて迷惑していたのなら、さっさと離れていけばいいのに。
こっちが離れていこうとしたら、必死に引き留めてくるなんて。
『きっと自分が仲間外れにされるのが怖いから、先にパティを仲間外れにしたんだ。パティが優しくて、強くて、仲間外れなんて絶対しないって分かっているから。……仕返しで仲間外れにし返してくるような相手には怖くてイジワルできないでしょう?』
――そうか、分かったよレニー。付きまとわれていたのは、私のほうだったんだ。
「言う必要ないわ。さようなら」
――私はこんな人と、仲良くしたいだなんて思わない。
「ちょっと! 誰に会いにきたのか言いなさいよ。言えないんでしょう? 認めなさいよ。私に会いに来たって。さもないとまた……」
「やあパティ、見つけるのが遅くなって、ごめん」
さすがに勇気も限界で、これ以上どうしようと思っていた時、世界で一番安心する声が聞こえた。
だけどその声は、秘密のお茶会の時のリラックスした甘えた声じゃなくて。
ワントーン低い凛々しい感じの……。
「レニー」
安堵感で、泣きそうになる。
力が抜けて膝が崩れそうになるのを、レニーがさり気なく腕に捕まらせて、支えてくれた。
「レナード・ウェルズリー様!? キャー、お会いできて光栄です」
「どうも」
ブルーナの友人らしき女性が、レニーの登場に驚き、悲鳴のような歓声をあげる。
それも無理はない。今日のレニーの格好は、いつものドレス姿ではもちろんなくて、長い髪のウィッグも付けていない。
彼本来の短い銀色の髪は、すっきりと後ろに纏められている。
女装姿の時は見えない額と首筋が露わになったその髪型からは、少年の頃のあどけなさは消え、確かな知性がにじみ出ていた。
漆黒のロングジャケットは、金の装飾糸で縁取られている。ジャケットの下には深い紅色のベスト、白のフリルシャツが胸元で軽やかに揺れ、見る者の目を奪う。
誰がどう見ても、完璧な侯爵令息だ。
「レナード様!? あ、やだどうしよう……」
ブルーナも、レニーの姿を見て、先ほどまでの怒りの表情をひっこめて、嬉しそうな笑顔になっている。
「行こう、パティ」
「待ってくださいレナード様! 私、ブルーナと言います。パトリシアとは、昔からの親友なんです。ね、パティ。今度こそイジワル言わないよねっ」
これは脅迫なんだろう。
皆が見ているパーティー会場で、あなたなんて友達じゃないって言ったら、私のほうが虐めていることになるわよという。
皆から、そう思われるよって。
「いいえ。私はあなたの友達じゃないわ。付きまとわれて、迷惑しているってさんざん言われたもの」
でもいい。もう誰に何を言われても。
レニーや、フィンみたいに、本当に大切な人に分かってもらえれば、それでいい。
ブルーナなんかに頭を下げて仲良くしていただくなんて、絶対にごめんよ。
「ひ、酷い。そんなこと言わなくても……」
ブルーナは傷ついたように顔を歪ませ、目に涙を浮かべた。
この表情は演技じゃなくて本当かもしれないと、なんとなく思った。
「ブルーナ・ポートン子爵令嬢。私の大切な友人に、今後一切付きまとわないでくれ」
「え……」
紳士であるレニーからそんな厳しい言葉を掛けられるとは思わなかったんだろう。ブルーナは今度はポカンと口を開けた。
本当に驚いて、動揺しているようだった。
「行こう」
「……ええ、レニー」
ブルーナが固まっている隙に、レニーにうながされてその場を離れる。
「ごめんね、レニー。レニーまで皆に悪く思われたかもしれない」
「まさか。あのくらいで離れていくような友人はいないよ」
*****
誰もいないハッチンソン伯爵邸の中庭に出ると同時に、張っていた気が抜けて、ベンチに座り込む。
脱力して上を見上げたら、建物に四角く切り取られた空間に星空が見えた。
「頑張ったね、パティ」
その四角の中に、レニーの顔が現れた。
穏やかに笑って褒めてくれたレニーの声は、まるでいつものお茶会の時みたいに、少し甘えた声だった。
レニーはジャケットを脱ぐと、私の肩にかけてくれる。
遠慮する暇もない、スマートな仕草。
まるでレニーに全身を抱きしめられているみたいで、安堵感に包まれた。
「レニーはどうして、私なんかのためにここまでしてくれるの?」
レニーの目を見上げたまま、聞いた。
「君が本当の僕のことを見てくれるから」
私の目を覗き込んだままのレニーが答えた。
「……どっちが本当にレニーなの?」
「どちらもだよ。可愛いドレスも好きだし、格好いいジャケットも好きなんだ。パティはドレス姿の僕じゃないとダメ?」
「ううん。どっちもレニーだわ」
「うん」
そう言うと、レニーは本当に嬉しそうに、いつものレニーの表情で笑った。
胸が潰れそうに痛い。だけどそれは、甘い痛みだった。
何かを言わなきゃと思うけれど、うまい言葉が出てこない。
「大切なんだ。君との時間が。そのままのパティと、そのままの自分で、ずっとそばにいたい」
そうしたらレニーが、私が思っていたことをそのまま言ってくれた。
「うん、私も。レニーとずっと一緒にいたい」
格好いいレニーも、ずっとそばにいてくれた可愛いレニーも大好きだから。
そのままのあなたと、ずっとそばにいたい。
レニーの顔と星空を見上げながら祈った。
この思いが、どうか叶いますようにって。
最後までお読みいただきありがとうございました。
以前から書きたいなと思っていたドレスが好きな男子のお話、いかがでしたでしょうか。
ブルーナが思った以上に嫌なヤツになったり、フィンが活躍しすぎそうになったりと、書いていて楽しかったです。
6月18日に書籍「王子が空気読まなすぎる」を発売しました。
そちらの原作も、小説家になろうに載っていますので、ぜひぜひお読みください。
ありがとうございました。