08
「そんな馬鹿な……。かの方は断られても気にするなと笑って許してくれたと聞いたぞ」
その公爵の娘という人物を、グレゴールは見た事があったのだろう。声音からも到底信じられないという気持ちが伝わってくる。
グレゴールが戸惑いながら片手で口元を覆う様子に、グレンは嗤った。
「馬鹿か、腸煮えくり返ってたに決まってんだろうが。あの女、今でも諦めてねぇ」
「なっ、すでに彼女は伯爵夫人だぞ!? そんな自身の名誉を傷つけるような事をするようには……」
「妻に頭の上がらない夫になんの力があんだ? 妻が気に入った男を愛人に出来るよう協力するような小心者だ。クソ女は今頃無理やり愛人にした男を嬲って楽しんでいるだろうよ」
「……あの、清廉と噂されるお方がまさか」
信じたくない、と言いたげなグレゴールに、グレンは畳み掛けるように言った。
「頭の回る女だ。情報を徹底的に制限し、ここぞという時に権力を使う事を躊躇わねぇ。リーニャの母親を殺した男なんて、どこの地中に埋められてるんだろうなぁ」
「……騎士団に要請を」
「この世界で王族に近い人間を証拠もなしに拘束出来んのか?」
「守護者の言葉があれば!」
「なんだかんだと引き伸ばされて誤魔化されるに決まってんだろ。その間に男は存在ごと消されるだろうよ。忘れているようだから言ってやるが、守護者も王侯貴族が持つ魔道具を使われたら嘘を見破る事は出来ねぇからな」
「魔道具?」
聞き捨てならない言葉だ。
リーニャはこの世界に生まれてこの方、そんな存在の話を聞いた事がない。
「あー……、魔道具と言っても、俺達みてぇな守護者の影響を受けないようにするための装飾品だな。外交で嘘を吐かなきゃならねぇ時もあるが、他国の人間が守護者持ちだった場合それが出来ねぇ」
グレンは今までの情報制限はなんだったのかと思うほど、リーニャにわかりやすく説明してくれる。
基本的に守護者は国同士の話し合いに関わる事はないのだそうだ。それはなんらかの争いに守護者が巻き込まれかねない事を懸念しての事らしい。
だが、それも守護者持ちが重要な人物で、その人物に不利益が生じる場合は別だ。守護者は全力で主を守るために策を講じるだろう。それは自国も他国も一緒だ。
そういう場合に使うための道具なのだそうだ。
ちなみに作ったのは昔居た神殿の上位守護者で、守護者達が主を守ろうとするために起きた争いのために神より派遣されたらしい。
各国に十ずつ配られたその魔道具は国の機密とされており、庶民に知らされる事はない。
知っているのは国に関わる機関に勤める幹部達だけという事だった。
(なるほどぉ……)
リーニャは関心した。
守護者という人間では到底太刀打ち出来ない存在を前に、人々がどう生活をしているのか、リーニャは正確には知らなかった。
住んでいる街での守護者持ちなんて、見つかった時には王都へ護衛付きで旅立ってしまうのだ。
話をする暇もない。
リーニャのようなイレギュラーな存在が居ないかと思った事もあるが、そんな存在がリーニャがちょっと街中を見渡したところでわかるはずもなかった。
それが今、一気に沢山の情報が流れてくる。
自分の出自の話はともかくとして、守護者の関わる話は少し面白いな、と思った。
二人の話から、どうやらこの世界は『神』という存在が実在し、守護者と人間が共存していけるように骨を折っているように聞こえたからだ。
そんなリーニャの関心を余所に、男二人の会話は続く。
「まさか……、公爵の娘とはいえ伯爵夫人が持てる代物か?」
「現にあのクソ女は今でも生き残ってやがるだろうが。あの女の秘密が欠片も漏れず、尚且つ清廉だなんてクソみたいな話が持ち上がるのは、あの女の嘘に誰も気づかないからだ」
「……そうか。守護者持ちですら欺くにはそれしかないか。だが、何故グレンにはそれがわかるんだ?」
「最上位の力があんな玩具に効く訳ねぇだろ」
「玩具……」
あまりの言いようにグレゴールも唖然としている。
玩具というほど魔道具の力は弱くないはずだが、グレンはどれだけの存在なのだろうか。
今まで何も知らなかったリーニャとしては、上位と最上位の違いがわからない。
そもそも上位の力がどんなものなのかすらわからない。
(これからは守護者の事も色々と勉強しないと……)
そんな決意を胸に拳を握りながらリーニャは二人の会話に耳を傾けた。
「ならばお前が手を貸してくれれば……」
「俺は全ての手札を公開する気はねぇ。あのクソ女に俺達の存在がバレた後、その父親や爺が出張ってこないとは言えねぇだろう? 面倒事は御免だ」
それはリーニャも同意見だったので、隣で何度も小刻みに頷いた。
貴族という父親に会うのですら不安なのに、王族やそれに連なる家系の人間になんて会いたくない。
それに、話を聞く限り、グレンの言うクソ女はとんでもないドエスの変態だ。
十四年も前に手に入らなかった男を未だに狙っているなんてかなり粘着質だし、絶対に近寄りたくない。
恐ろしい女の姿を想像しただけで寒気がして、リーニャはぶるりと体を震わせた。
「そう、だな……。守護者持ちの人権は尊重されると言われているが、最上位の存在とその力の強さが知られれば他の貴族からどんな圧力がかかるか見当もつかない。俺としてもライアンからまた娘を奪うような事はしたくはないしな……」
二人の様子に、グレゴールは重い溜め息を吐いた。
「グレゴールが見合いを断っただけで辺境地へ討伐に行けって言うくらいだもんなぁ。ま、今回はそのお陰で被害が少なかったし、グレン様にも会えたんだけど」
「えっ、グレゴール様って独身なの!?」
どう見ても美中年……いや、壮年でもイケる……。
思わず敬語も吹っ飛びながらそう叫んだが、グレゴールは気にせず、疲れ果てた顔で返した。
「いや、妻も子供もいる」
「ええーっ!? 妻が居るのにお見合いってどういう事!?」
それは浮気ではないか、と言いたげなリーニャの視線にアネルとグレゴールは苦笑を返した。
「守護者持ちの子供が守護者持ちで生まれてくる可能性が高い、なんていう迷信が信じられているからだ。貴族なら妾を持ってもいいだろうとな……」
「馬鹿だよなー。血筋じゃなくて魂で選ぶって言ってるのに。ま、血筋で選ぶやつも居ないことはないけどさー」
肩を竦めるアネルはグレゴールのために今までも愛人候補や妾候補をお断りしていたらしいのだが、いい加減面倒になったグレゴールが会う前に断ったら、辺境に一時的に飛ばされたらしい。
前世でいう会社の上司に薦められたお見合いを断ったら窓際部署に移動させられた、みたいな話だ。
なんて恐ろしい。
「あ、ってことはリーニャなんて独身だし若いし守護者が最上位だし、すごい事になるんじゃー……」
「殺すぞ」
「さーせん!!」
アネルのあっけらかんとした台詞をグレンが一刀両断にする。
「平民の私に需要があるとは思えないけど……」
「……リーニャ、守護者持ちが平民で居られる可能性は低いぞ」
「へ?」
飲みかけの紅茶をずずっと飲みながらポツリと呟くと、今度はグレゴールがリーニャの甘い考えを一刀両断にした。
「当たり前だろう。貴重な守護者持ちはどこかの貴族からの後見を受けるか、養子になるのが普通だ。後見を受けた場合はその家の誰かと結婚するか、もしくは後見の進める貴族と結婚する者が多い」
「そうだったんですか……」
知らなかった。通りで守護者持ちの子供が生まれても一向に帰って来ない訳だ。
やっぱり怖い貴族社会……。
「……だから俺としては本当は行かせたくねぇんだけどよぉ」
組んだ手を後頭部に移動させ、グレンは吐き出すように言った。
「だが、今回みてぇな事が繰り返し起きると、どうしても俺は力を使っちまう。アネルは馬鹿だから気付かなかったが、目敏いヤツならぜってぇ俺の存在に気付いたはずだ」
「馬鹿ってなんすか! 魔力感知とか細かい作業は苦手なだけっすよ!」
「この男はお前の父親と旧知の仲だし、どっかの欲深な貴族に捕まるよりは父親のがマシだろ?」
あの崩壊した街で、グレンは自分の力を使ってリーニャを守ってくれたのだと、ようやく気付いた。
話を聞く限り、リーニャは生まれてから一度も神殿に行っていない。守護者の加護というものがない状態で瓦礫の山の中に座っているなんて無理な話だ。
グレンが今まで力を使わず、人から隠れるように過ごしていたのは、欲深い人達から守ってくれただけではなく、貴族社会という柵からも守ってくれていたのだ。
わかっているようで、リーニャはわかっていなかった。
この世界の事を知らないから仕方がないのかもしれないし、今みたいに人型になって話をしてくれてもよかったじゃないかと文句を言いたい部分もあるが、守ってくれた事に代わりはない。
リーニャは隣に座るグレンの服の裾をぎゅっと握って小さな声で言った。
「ありがと……」
リーニャのそんな仕草を見たグレンは、照れて赤くなりそうな顔を両手で隠した。
「はー……、俺が一生面倒みるはずだったんだがなぁ……」
そんな呟きは、手の中で籠って消えた。
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「じゃあリーニャ、気を付けて行くんだよ」
ミランダの言葉に、リーニャは蜥蜴姿のグレンを肩に乗せたまま大きく頷いた。
あれから一週間経って、復興のための守護者持ち達がようやく到着した。
大まかな引き継ぎを終わらせたグレゴールを共に、今日リーニャはシャレアン領に向かって出発する。
見送りをしてくれるのはミランダとハリーだけという寂しいものだったが、他に親しい知り合いはいない。リーニャとしては二人が来てくれただけでも嬉しかった。
ミランダには王都へ行くと言ってあるが、実際は途中で横道に逸れてシャレアン領へ向かう予定だ。
何事もないとは思うが、念のため。
騎士団に保護され、少しは勉強を教えて貰えるかと思ったのだが、そんな暇はなかった。
グレゴールは復興の指揮を取るので忙しかったし、アネルは根本的に勉強を教えるのに向いていない。グレンに至っては教える気すらなかった。
護衛に付いてくれたピーターがグレゴールに頼まれて乗馬を教えてくれはしたが、リーニャが知りたいのは文字の勉強であって乗馬ではない。
むしろ運動は苦手だ。
馬は可愛いと思うけれど、最初に乗った時は腰も脹脛も内腿も筋肉痛で死ぬかと思った。
しかし、これからシャレアン領に向かうのに馬車では行けない。
諸々の理由で少人数で行動するしかないし、護衛の少ない馬車なんて盗賊や野盗の格好の的なのだそうだ。
だから移動はグレゴールと馬の二人乗り。
それを最低でも一週間は続けるというのだからリーニャは今から憂鬱だった。
「辛くなったらいつでも帰ってこい」
「無理だけはするんじゃないよ」
ミランダとハリーの優しい激励を聞きながら、リーニャはその憂鬱を隠してグレゴールの手を握って馬へと乗った。
「はい。女将さんも、旦那さんも、今までありがとうございました。二人ともお元気で」
こうして、リーニャはシャレアン領へと向けて旅立って行った。




