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雨を織る  作者: 遊森謡子
2/2

後編

 その日の夕方、雨が一休みして薄日が射した。

 オウレンは一人、山の斜面に出た。見下ろすと、木々に囲まれた棚田の水が西日を反射して、空を映しこんでいる。濡れた葉の色、沈みかけた太陽の色、踏み固められたあぜ道の色、岩を伝って時折跳ねる水の色……オウレンは大きく一つ深呼吸した。

「オウレン」

「きゃっ」

 急に声をかけられて振り向くと、ツィージンがやって来るところだった。

「ごめんね、驚かせて。……わあ、ここ眺めがいいのね!」

「うん。来るたびに違う色が見えて、すごく綺麗なの」

 オウレンが言うと、ツィージンはうなずいた。

「オウレンは、色を見分けるのがとても上手ね。だから、気づいたのかな」

「え?」

「あのね、ちょっと頼みたいことがあるんだけど……」

 珍しく口ごもるツィージンに、オウレンは軽く返事をした。

「私にできることなら、何でも。なあに?」

「これ」

 ツィージンは、手にしていたものをオウレンに差し出した。生成りの布に包まれた、両手に乗る程度の大きさの包みだ。

「これをね、明日、ディラクに渡してくれない?」

「明日? ……私が?」

「そう。私からはちょっと、渡せないの」

 目を伏せるツィージンに、オウレンは胸が高鳴るのを感じた。

 ツィージンからディラクに。

 きっと、愛を告げる贈り物だ。直接は恥ずかしくて渡せないから、オウレンが仲立ちをするのだ。

「わかったわ、任せて!」

 包みを受け取り、張り切って返事をすると、ツィージンはいったん何か言おうとして口を閉じた。そして、優しく微笑んだ。

「もし、これが何の役にも立たなかったら、オウレンがもらってちょうだい」

「役に立たなかったらなんて……大丈夫よツィージン!」

 励ますつもりでオウレンは言ったけれど、ツィージンはまた、小さく笑っただけだった。


◇  ◇  ◇


 翌朝、しとしとと雨の降る中を集会所に行ってみると、女衆の中にツィージンの姿はなかった。

(打ち敷きも織り上がったのだし、今日は長の家でゆっくりしているのかも。それより……)

 オウレンの頭の中は今、いつどこでディラクを捕まえて、ツィージンに頼まれたものを渡すかでいっぱいだ。こっそり託されたものだから、できれば人目のない時に渡したい。

 きっとこれは大人の秘密なのだから、守らなくては。それにもしかしたら、ディラクは中身をオウレンにも見せてくれるかもしれない。


 結局オウレンは、ディラクが畑から昼の食事を取りに戻って来る頃を見計らって、ディラクが居候している長の家の近くで待つことにした。雨よけの布をかぶって木の陰に入り、時々覗いてみてはまた待つ。

(長の家にはツィージンがいるのに、変な感じ)

 やがて、戻って来たディラクはすぐにオウレンに気づいた。オウレンはちょいちょいと手招きをして、長の家から見えない場所まで森に入った。

「オウレン……?」

「あの、これを渡すように頼まれたの。ツィージンから」

 ぱっ、と包みを差し出す。ディラクは少し驚いたように目を見開き、受け取りながら尋ね返した。

「ツィージンは?」

「さあ……今日は会っていなくて」

 言いながらも、オウレンは心が浮き立っていた。早く開けてみて欲しい。

 ディラクはまだ不思議そうにしつつも、包みを開いた。中から出てきたのは、草木染めの布。折りたたまれていたそれを、さらにディラクの手が開く。

(あっ、あの布の色は……ツィージンが機織りの合間に、花のつぼみを刺繍してた?)

 そう思った時、ぐらり、とディラクの身体が傾いだ。

「あっ」

 オウレンは驚いて立ちすくんだ。

 どっ、と背中を木にもたせかけて身体を支えたディラクは、左手で額のあたりを抑えている。右手にひらりと広がった布には、やはり花のつぼみの刺繍。

 オウレンはそれを見て、息を呑んだ。

 目の前で、刺繍のはずのつぼみが、ふうわりとほころんだ。八重の花びらが一枚、また一枚……そして広がる、馥郁とした香り。

 ――はっ、と気がついた時には、布にはただ花のつぼみが一つ、刺繍されているだけだった。

「こ、これ」

 ディラクを見ると、彼は血の気の引いた顔をして大きく呼吸していた。

「どうしたの、大丈夫……?」

「……思い出した」

 ディラクはつぶやくと、ふらりと身を起こして長の家の方に戻り始めた。オウレンはあわてて後を追う。


 長の家に入ると、すぐそこの土間で長と長の長男の嫁が立ち話をしていた。

「長。ツィージンは」

 ディラクが尋ねると、長はまるで仕方なく、といった風情で微笑んだ。

「行ってしまったよ。昨夜遅くにあたしのところにあいさつに来て、明け方に出発したようだ」


「え?」

 オウレンは呆然とした。

 ツィージンが、村を出て行った?


「そんなっ、どうして急に」

 思わず大声を出すと、長は落ち着かせるようにオウレンの肩を叩いた。

「そうだね……元々、各地を転々としていると言ってたからねぇ。何か、わけがあるのかもしれないね」

 何か言おうにも、本人がいないので尋ねることもできない。オウレンは混乱する気持ちを持てあましたまま立ちつくした。

 すると急に、ディラクがサッと奥へ入って行った。居候している自分の部屋に入って行き、何か取って来ると、また雨の中を外に飛び出していく。

「ディラク!」

「これ、オウレン」

 オウレンは長がとめるのも聞かず、ディラクの後を追った。踏み込んだ水たまりの水がはねて、チュニックの裾を濡らした。


 ディラクは二本のアカシアの間から村の外に飛び出し、峠道を走って行く。片足が追いつかずに少し引きずっていなければ、オウレンは置いて行かれていただろう。

「待ってディラク……今から行っても」

 彼に声をかけたその時、急にディラクが立ち止まった。

 どうにか彼にぶつからずに立ち止まったオウレンが、背中越しに顔を出すと、一人の大柄な見知らぬ男性が、馬上から見下ろしているのと目が合った。

 そしてその後ろにいるのは、もう一頭の馬。鞍上には、雨よけの布をかぶった女性。

「ツィージン!」

 オウレンが一歩飛び出すのと、女性が馬から降りるのが同時だった。

(あ、れ?)

 オウレンは戸惑った。女性の顔は、確かにツィージンの顔……しかしその所作が、表情が、微妙に異なる気がする。

「あの、ごめんなさい」

 女性は少し困ったように微笑んで、かぶっていた布を肩に落とした。髪を結い上げていて、既婚女性であることがわかる。

「私は、あなた方の知っている、この顔をした女性ではないと思うわ。その、ツィージン? と名乗っていたのは、きっと私の姉のシュエです。ここにはもういないのかしら?」


 ユエ、と名乗ったその女性と、大柄な男性は馬を引き、オウレンとディラクは一緒に山を少し下った。

 隣の山につながる尾根の、少し広くなった場所に、柱と屋根だけの朽ちかけた休憩所があった。柱に馬をつなぎ、石に腰かけて雨をしのぎながら話をする。

 ユエは、初めて会った時のツィージンのような、仕立てのいい外衣を着ていた。彼女はディラクの手にしていた刺繍入りの布を見て、

「それ、姉が刺繍したものね。珍しいわ、シュエが打ち敷き以外のものを刺すなんて」

と微笑んだ。

「儀式用の布を織りながら、各地を旅しているとは聞きましたが、昨夜この村の長にだけ暇を告げて、姿を消しました。何か事情があるのでしょうか」

 ディラクが説明するのを横で聞きながら、オウレンは少し驚いていた。

 今までとは違う、凛とした口調……さっき、「思い出した」と言っていたけれど、自分の過去が蘇ったことで何かが定まったのだろうか。

 ユエはクスクスと笑って、話し始めた。


 ツィージン――シュエが、十六の年の話だそうだ。

 シュエの実家は、多くの奉公人を抱えて染色や織物の事業を営んでいた。シュエやユエたちも家を手伝って、九つの頃から機織りをしていたのだが、シュエが最も得意とするのは刺繍や縫い取り織りなど、布に絵を表すことだった。

 当時はまだちょっとしたものしか織れなかったが、シュエの母の知り合いの店に商品として小物を置かせてもらっており、ぽつぽつとだが若い娘を中心に売れていた。

 そのうち、不思議なうわさが立つようになった。シュエの刺繍の入った小物を持っているといいことがある、とか、なくしてもすぐに戻って来る、とか、そういったうわさだ。

 若い娘の口から口へ、うわさは広まって行き、シュエの小物は徐々に売れ行きが伸び始めた。

 そんなある日、シュエを名指しで、注文が入った。とある町の官人の娘が結婚するので、花嫁衣装の刺繍をして欲しいと言う。


「その頃には、シュエの腕もずいぶん上がっていたし、大きな仕事だったから母も大喜びで。シュエもすごく頑張って、仕事を仕上げたの。ところがね……」

 ユエは軽くため息をついた。

「その衣装を着た若い花嫁さんが、結婚式の日に失踪してしまったのよ。他の男性と逃げたとも聞いたし、神隠しだなんてうわさも聞いたわ」


 元のうわさが不可思議なものであっただけに、花嫁の失踪によってシュエの刺繍は「不気味なもの」「縁起の悪いもの」という目で見られるようになってしまった。このような感覚は理屈ではなく、信心深い人の心にはいつまでも凝る。

 シュエの刺繍や織物は、人々から目を背けられるものになってしまった。


「シュエは、なんだかんだ言いながら本当に織物が好きだったから、『私から織物を取ったら何が残るのよ……』ってさすがに落ち込んで。それから数日ひきこもったと思ったら、ある日突然……何て言ったと思う?」

 オウレンの顔を見て、ユエはまたクスクスと笑いだした。よく笑う所もそっくりだ。

「『私、奉納用の布とか、打ち敷きを織ろうかな。そうすれば、これから何か不可思議なことが起こっても、神様のせいにできるじゃない!』ですって!」


 オウレンはポカンと口を開けてしまった。

(神様のせい!?)

「それで、シュエは家を出て、遠い親戚を頼って儀礼用の織物の修業に行ってしまったの。数年経って、戻って来るかと思ったら、そのまま一人で旅に出てしまって」

 ユエは少し目を伏せた。

「実家に戻れば、迷惑がかかると思ったんでしょうね。……時々、隣村に嫁いだもう一人の妹の所には便りが届くから、無事はわかるんだけど」

 もう一人の妹さんもツィージンに、いやシュエにそっくりなのかしら……と、オウレンは思った。ずいぶん賑やかそうな姉妹だ。

「私、仕入れの用事があって、この下の町まで旅をしてきたの。そうしたら、ここの隣山の村の人が私にそっくりな人を見たことがあるっていうから、もしかして今ごろはこっちにいるんじゃないかと思って来てみたんだけど……惜しかったなぁ」

 ため息をつくユエに、ずっと後ろに控えていた大柄な男が、低く声をかける。

「お嬢さん。そろそろ山を下りないと、日暮れまでに町に戻れない」

「いつまで『お嬢さん』って呼ぶつもりよ……」

 肩をすくめて返事をすると、ユエはディラクをじっと見つめた。

「まあ、そんなわけで、その地で打ち敷きなんかを織っては、何か不可思議なことが起こる前にまた旅に出る、っていう生活をシュエは続けてるんだけど……今回は、自分からあなたにそれを渡したのね」

 そしてユエは立ち上がった。ディラクも立ち、オウレンもあわてて倣う。

「町に戻るんですか」

「まだ仕事があるから。でも、せっかくここまで来たから、シュエを探しにもう一ヶ所くらいは回ってみようと思ってる。私、そろそろ家を継ぐから、手伝いに戻ってきて欲しいのよね」

 言いながらユエは、男の手を借りて馬に乗ると、

「じゃあね」

とあっさり手を振った。

 二人は馬を並べ、細かな雨の幕の向こうへと去って行った。


 彼らの姿が見えなくなるのを待たず、ディラクは踵を返してオウレンを促した。

「村に戻ろう」

「あの、ツィ……じゃない、シュエ? は……」

「彼女は、ジュカオを見れば俺の記憶が戻るかもしれないと思って、これをくれたんだ。彼女の刺繍は、花の姿をそのまま教えてくれる。でも、それを知られたら村にはいられないと思ったんだろう」

 ディラクは迷いなく答えた。

 それでは、彼女の刺繍した小鳥や蝶や花が生きているように感じていたのは、シュエだけではなかったのだ。ディラクも、気づいていた。

「思い出したんだ。俺はある村で、薬師の弟子をしていた。重病人が出て、師がジュカオの薬を使いきってしまったから、俺が取って来ようと村を飛び出した」

 山道を戻りながら、ディラクは過去を教えてくれた。

「そう……で、でも、奥さんとか、子どもは?」

「……かつて、妻がいた。その重病人と同じ病で、亡くなった」

 ディラクは答え、オウレンを見た。

「だからこそ、ジュカオの薬は常に用意しておかなければと思って、ここまで来たんだ。時期を、逃してしまったようだけどね」

 そして、つぼみが刺繍された布に包むようにして持っていたものを、オウレンに見せた。

「花は逃してしまったけど、彼女は捕まえる。俺も、これを渡そうと思っていたから。受け取ってくれるかはわからないけど」

 それは、緯糸(よこいと)を通すのに使う()

 布に触れない部分に不器用な彫刻が施された、想いのこもった杼だった。


 村に戻ると、ディラクもオウレンもいないとあって、村の人々が騒然としていた。

 ディラクは、長をはじめとする全員に記憶が戻ったことを告げ、姿を消したツィージンを追いたいと言った。まずはユエに同行したいと思っていると。

 確かにユエと一緒に行けば、もしよく似た彼女を見かけた人がいれば教えてくれるかもしれない。

 厚い礼を述べようとするディラクを遮って、長は言った。

「あんたがツィージンをもう一度ここに連れて来てくれることが、礼の代わりだよ」

 そしてディラクは、旅立っていった。


◇  ◇  ◇


 今、オウレンの手には、シュエがジュカオのつぼみを刺繍した布がある。

 オウレンはシュエにもらった糸を使って、拙いながらもその布にさらに刺繍を施した。

 たった一人旅をする花を濡らす、恵みの雨。


 次に会う時、ディラク――そういえば本当の名を聞き忘れてしまった――の隣で、シュエが髪を結い上げているといい。そう思った。



【雨を織る 完】

独立したお話ではありますが、『三人の機織り娘』に出てくるシュエの物語でした。

腰織り機は、探した中で一番わかりやすかった図はこれ

 → http://www.ishikawa-maibun.or.jp/taiken/hataori/hataori_yayoi.html

原始機と書いてありますが、これに似た腰織り機が現在でも広く使われているそうです。

【名前の由来】『三人の機織り娘』のシュエ・ユエ・ホアの三人の名前は「雪」「月」「花」の中国語読みなので、出典である白居易の詩『寄殷協律』の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時 最も君を憶ふ)」の「最憶君」の部分を中国語読みにした発音(zuì yì jūn)からツィージンの名をつけてみました。ディラクは、google翻訳で「迷子」をベトナム語変換したら出てきました。オウレンは花の名前で、響きが良いのでつけました。ホントは早春の花です(^^;) 後から知ったんですけど、草木染めの黄色の原料にもなるんですって♪

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