第1話 別れたのは私たちだけ
「今日、バーベキューだから」
お盆の実家で、母は私の帰省用バッグより先に、手土産の箱を受け取った。
「誰と?」
「桐谷さん」
玄関から見える台所には、すでに六人分の皿が積んである。
我が家は三人家族。隣の桐谷家も三人家族。
足し算は簡単だった。
「……颯太、来る?」
「来るって」
「聞いてない」
「聞かれなかったから」
母は箱の裏を見て、「これ、冷蔵?」と聞いた。
元彼が来ることより、焼き菓子の保存方法が気になるらしい。
「常温。ねえ、私たち別れてるんだけど」
「知ってる。あんたたちの恋愛とうちらの付き合いは別でしょ」
五年前にも聞いた台詞だった。
大学を卒業する前の冬、颯太と別れたと報告したとき、母は「そう」と言った。
それだけ、と聞けば、何て言えばいいの、と返された。
当時は薄情だと思ったけれど、私が落ち着くまで隣の話をしなかったし、何があったかも聞かなかった。
ただ翌週、両親は桐谷家と温泉に行った。
そこは別らしい。
「来るの嫌なら、無理に出なくていいよ。お肉は取っておくから」
母が冷蔵庫を開ける。大皿には、私の好きな鶏肉もあった。
帰省を取りやめるほど嫌ではない。今さら部屋に籠もるのも、どうかと思う。
「出るけど」
「じゃあ、庭に椅子出して」
感情の話は終わり、作業の話になった。
藤崎家と桐谷家は、玄関から玄関まで歩いて十秒。
私と颯太が生まれる前から、両親同士で付き合いがある。
幼稚園、小学校、中学校、高校。学校から帰れば、隣にはだいたい颯太がいた。高校二年の夏に付き合い始めたときでさえ、母たちの感想は「やっと?」だった。
誰も驚かなかったことに、少し腹を立てた覚えがある。
庭では、父と桐谷のおじさんが炭を覗き込んでいた。
「新聞紙、もう少し入れるか」
「扇いだ方がいいんじゃないか」
毎年やっているのに、毎年一から相談している。
私が椅子を二脚運ぶと、桐谷のおばさんが隣の庭から現れた。
「菜月ちゃん、おかえり。あら、その髪いいね」
「ありがとう。おばさん、痩せた?」
「いい子。お肉、一枚多くあげる」
「俺も言おうと思ってた」
後ろから声がした。
「颯太は昨日も会ったでしょ」
おばさんにあしらわれた男は、大きなクーラーボックスを持っていた。
桐谷颯太。二十七歳。幼なじみで、元彼。
紺のTシャツと、膝までの短パン。最後に会った正月は厚いコートを着ていたから、腕を見るのは久しぶりだった。
「おかえり」
「ただいま」
言ってから、颯太の家に帰ったわけではないのに、と思った。
向こうも一瞬だけ目を逸らした。
「久しぶり」
「正月、会ったじゃん」
「五分くらい」
「俺、お前に袋渡した」
「お母さんの保存容器ね」
会話の実績が保存容器しかない。
別れてから、帰省の日をずらすことが増えた。正月は私が昼、颯太が夜。家族旅行には二人とも行かなくなった。
それでも、年に一、二度は会う。玄関で挨拶したり、隣に回覧板を届けたり。
完全に縁を切るには、両親が仲よすぎた。
「そこ、置けばいい?」
颯太がクーラーボックスを少し持ち上げる。
「うん。日陰の方」
私たちは作業に戻った。
今のうちに、何かもう一つ言っておけばよかった気もした。けれど、何か、の中身が出てこなかった。
炭に火がつくまでに、父たちは汗だくになった。
母はその横で携帯用の扇風機を回している。
「それ、貸してくれ」
「顔用。炭に向けないで」
「少しだけ」
「油つくから嫌」
炭の火より夫婦の交渉の方が長かった。
颯太は黙ってうちわを二枚持ってきて、父たちに渡した。自分は箸と紙コップを並べる。
昔は火の番に参加したがって、よく叱られていたのに。
「やらないの、火」
「二人で十分だろ」
「前、ずっと炭いじってたじゃん」
「いじりすぎるなって怒られた」
「覚えてる」
私が笑うと、颯太も少し笑った。
食事が始まれば、気まずさを保つのは難しかった。
母たちは来月の旅行先で意見が割れ、父たちは肉を焼きすぎるなと言い合っている。
私の仕事の話も、颯太の仕事の話も、同じテーブルに乗った。
「菜月は、今は袋の会社だっけ?」
おじさんが聞いた。
「食品の包装資材。袋もあるけど、容器とかフィルムとか。企画の事務をやってる」
「じゃあ、この肉のパックも?」
「これは違う会社」
「よく分かるな」
「底に書いてあるから」
父が自分の買った肉の容器を裏返し、汁をこぼしかけた。
「食べてるときに調べなくていい!」
母の声に、颯太が肩を揺らした。
私はお茶を飲んだ。こういう場で笑いを堪える顔も、変わっていない。
焼けた野菜を父が各自の皿に配る。
私の皿に来る寸前、颯太の箸が動いた。
しいたけが一つ、颯太の皿に移った。
「あ」
私たちは同時に声を出した。
「……食う?」
「食べない」
「だよな」
颯太はしいたけを口に入れた。こちらに戻すか迷った分、箸の先で少し冷めていたらしい。
「まだ覚えてるんだ」
「隣で十五年くらい残されてたからな」
「そんなに残してない」
「お前、自分の皿のやつ、俺の皿に埋めてた」
「埋めてない。置いてた」
向かいでおばさんが笑った。
「今も嫌いなんだねえ」
「薄く切ってあれば食べられる。あの裏が苦手」
私は少しむきになって説明した。
その横で、颯太が焼きたてのピーマンを取った。
「そっちは食べられるようになったの?」
「前から食えた」
「高校のとき、私に渡してた」
「あれは……肉から食いたかったから」
「言い訳、下手になってる」
颯太が箸を止めて、私を見た。
一拍のあと、二人とも笑ってしまった。
笑いながら、こんなに普通に話せるんだ、と思った。
もっとよそよそしくなるつもりだったわけではない。ただ、何を話したらいいか、ずっと分からなかった。
まだ知らないこともあるはずなのに、先に昔のことが出てくる。
「今、どの辺に住んでるんだっけ」
颯太が聞いた。
「市役所のある方。実家から五十分くらい」
「会社もそっち?」
「そう。家からは十五分」
「近いな」
「それを優先して部屋選んだ」
颯太は、いいじゃん、と言った。
私は車の鍵を指で探り、またポケットに押し込んだ。
地元の近くへ転職して戻ったのは、春だった。母から伝わっていたはずだけれど、颯太には詳しく話していない。
彼の方も、今は実家ではなく一人暮らしだと聞いているだけだ。
「颯太は?」
「工場の近く。実家からだと三十分くらい」
「今も車の部品?」
「うん。品質管理」
そこで父が「颯太、これ焼けてるか」と肉を差し出した。
「俺の仕事、肉の検査じゃないです」
断りながらも、颯太は大きな肉を割って、中を確かめていた。
私は笑って、空いた紙コップをまとめた。
台所へ運ぶ途中、母が冷凍庫の前で「あれ」と声を上げた。
「氷、もうない。買ったと思ったんだけど」
「製氷皿は?」
「二つとも使った」
庭から父の声が飛んできた。
「焼きそば、そろそろやるぞ」
母は冷蔵庫の野菜室も開けた。
今度は黙った。
「……麺もないの?」
「ある。焼きそばはある」
「じゃあ?」
「キャベツ」
私は、母が持っている野菜の袋を見た。入っているのは玉ねぎ二個だけだった。
肉が焼けるところまでは、順調だったらしい。




